夜の雨 10


10

 目次



 息を吐くと冬の朝の空気の中で凍る音がしそうだった。二日ほど続いた雪はやんで、ひさびさに青空がのぞいてきた。太陽が見えているというだけで寒さが緩んだような気がするから不思議だ。
 東京の家から帰ってきた翌日から雪が降り始め、この二日間は家に閉じこもって冬ごもりのように過ごしていた。実家から帰って来てもそれから眠られるわけもなく、ベッドの中で明け方まで起きていた。その後でようやく少し眠ることができたけれど翌日は睡眠不足で頭の芯が痛く、どこへも出かけず食事もあるもので済ませた。
 夕方になっても頭痛が引かないうえに体がだるかったので風邪薬を飲んでベッドに入ったが、浅い眠りを繰り返して切れ切れに目覚めては考えることはお義父とうさんに会ったことで、このことはやはり秋孝さんに言わなければならないだろう。お義母かあさんから電話があったことを話したときの秋孝さんの反応を思い出すと気が重いが、話さないでいたらもっと良くないことになりそうだった。
 あのときのお義母さんからの電話は本当に短いもので、女の人の声で秋孝の母ですと言われてわたしが驚いていると秋孝の奥さんかと聞かれた。そうですと答えるとお義母さんはまた電話すると言って、わたしが答える間もなく電話は切れてしまった。お義母さんの声は小さく、話すことをためらっているような感じだった。いまならなんとなくその理由もわかるような気がする。
 お義母さんからの電話は秋孝さんに伝えるような内容もなかったけれど、電話があったことを言っただけで秋孝さんは受け付けてくれなかった。あのときの秋孝さんの言いかたの厳しさにわたしはそれ以上なにも言えなくなってしまった。今度もうまく言えるかどうかわからないけれど、とにかくそうしなければ、そうするべきだと自分に言い聞かせていた。

 今日は金曜日だ。もしかしたら秋孝さんが帰ってくるかもしれないが、帰ってくるとしても夕方か夜になるだろうから、それまでに掃除や食事の準備もしておかなければならない。まだ体がなんとなくだるかったが熱いスープを作って飲むことにした。
 相手がだれであっても、些細なことでも、自分にとって嫌なことを言われてしまえばそれが棘になって胸に刺さって痛む。この棘を溶かすのは時間というものしかない。痛みが薄れるのを待ちながらじっとしているしかないのかと、あきらめにも似た気持ちで考えながらキッチンに立ってスープを作った。
 だれかに両親がいないことを言われたのは初めてじゃない。でも、両親がいないことをまるで悪いことのように言われてしまえば、やはり心の中では自分は悪くないのにと自分で自分を擁護してしまう。そんな気持ちを誰かに話せるわけもなく、黙ってやり過ごすしかないのだ……。

 昼過ぎになって秋孝さんから今日の夕方には帰るというメールが送られてきたが、彼がメールしてくれたということもうれしい気がする反面、今日はメールで良かったと思う。お義父さんに言われたことが胸の底にあるままでは電話で普通にしゃべれる自信がない。すぐに秋孝さんに変だと思われてしまうだろう。メールなら秋孝さんが帰って来るまでに心の準備もしておける。

「ただいま」
 秋孝さんはいつも通り帰ってきた。黒いコート脱ぐと奥の部屋へアタッシュケースを置きに行き、すぐに出てきた。着替えてはおらず、スリーピースのチャコールグレーのスーツに細いストライプの入った白いワイシャツのままだった。彼は白い無地のワイシャツは着ない。いつもそうだ。
「シャワーを先に浴びる。いいかな」
「はい、どうぞ」
 秋孝さんはすぐにシャワーを済ませて出てきた。グレーのスウェットの上下を着て、タオルで洗った髪の毛をふきながらキッチンへ来ると小さな紙袋を差し出した。
「あ、これは」
「村上から買った。あとで淹れてくれ」
 見覚えのあるパッケージは村上さんの自家焙煎のコーヒー豆だった。
「村上さんと会われたんですか」
「うん、帰ってくる前に東京で会った。結婚祝いをもらった礼を言っておいた」
 コーヒー豆を渡してくれた秋孝さんはいつもと同じ調子で話していたが、村上さんと会ったからだろうか、なんとなく穏やかな顔つきのように思えた。それに、村上さんからもらった結婚祝いのこと、憶えていてくれたんだ。
 秋孝さんが忘れるとは思っていない。でも、秋孝さんからも村上さんにお礼を言ってくれたと思うとうれしかった。村上さんはわたしと秋孝さんの唯一の共通の知り合いだから。
 これならお義父さんのことを話しても大丈夫かもしれない……。

 ふたりで夕食を食べてから村上さんの豆でコーヒーを淹れた。苦味の強い味と同じように香りも個性ある香りで、エスプレッソにも似た香りだった。わたしのお気に入りの粉引きのカップにコーヒーを入れて秋孝さんの前へ置くときに思い切って口を開いた。差し向いに座ってしまってからだと、かえって言いにくくなってしまうと思ったから。
「あの、秋孝さん、東京の家へ帰ったときのことですけど、秋孝さんのお義父とうさんに会いました」
 コーヒーカップを持とうとしていた秋孝さんの手が一瞬止まったのを見て心臓が飛び出しそうだったが、気持ちを鎮めてテーブルを挟んで向かい合って座った。
「わたしの実家のほうに訪ねて見えられたんです。戸籍を見たとおっしゃられて。秋孝さんとはずっと会ってないからと話していました」
 秋孝さんはコーヒーには口を付けずに黙って聞いていた。
「お義父さんは……わたしたちがなんの断りもなく結婚したことがご不満のようでした。挨拶くらいはするものだと……言われていました」
「それで?」
 秋孝さんがごく静かに聞き返してきた。
「お義父さんがそう思われても、もっともだと思います。あの……、一度ご挨拶に伺ったらどうでしょうか。結婚の報告をするだけでも。やはりなにも言わないでいるというのは失礼になってしまうと思うので……」
 秋孝さんはしばらくなにも言わなかった。視線をはずし、考えているような顔で窓のほうを見ていた。秋孝さんが黙っているあいだ、心臓が喉の奥でつかえているように感じられてだんだん不安になっていたが、急に秋孝さんが口を開いた。
「言われたのはそれだけか」
 一瞬、えっと息を飲んだ。お義父さんがわたしの両親のことを言ったのは、秋孝さんは知らないはず……。
「あの人ならそれだけで済むはずはないだろうな。まあ、いい。希和が言わなくてもわかるような気がする」
 なにも言えなかった。秋孝さんはじっとわたしを見ていたけれど、うつむいてじっと視線に耐えるしかなかった。

「わかった、挨拶には行こう。だが、すぐには行けない。いまは大きな仕事にかかっていて、次に日本へ来るにしてもまだ予定がわからないから調整してみる」
 え、と顔をあげると秋孝さんは静かな表情でわたしを見ていた。こんなにすんなりとそう言ってくれるとは思っていなかった。もしかして怒らせてしまうかもと思っていたのに。
「秋孝さん……」
「今日はもうこの話はいい。希和も大変だっただろう」
 そう言った秋孝さんを見て思わず涙が溢れそうになった。
 お義父さんと会ってからずっと心にわだかまっていたことが込みあげてきて、秋孝さんがそれを察してくれたことが言葉にならないくらい胸に迫った。うれしくて、ただうれしいんじゃなくてほっとしたというか、秋孝さんがわかってくれた、彼が自分の気持ちを抑えて譲ってくれたと思うだけで、
もう……。
 秋孝さんは立ち上がってなにも言えずにいるわたしのそばに来た。見上げたわたしは泣き顔になっていたのかもしれない。そんなわたしを秋孝さんはいつもの表情で見おろしていた。
「希和も風呂に入るといい。俺はむこうで待っている」
 あ、それは……。

 まるで初夜のときのようにどきどきしている。
 お風呂で念入りに体を洗い、お湯に浸かって温まったけれども体の芯はそれ以上に熱くなっている。パジャマを着て寝室へ行ったが、きっとこの服は脱がされる。そんな予感で秋孝さんの顔をまともに見られなかった。
 暗い寝室でベッドの掛け布団をそっとめくると秋孝さんが懐を開けるように腕を持ち上げてくれた。その中へ体を滑り込ませると肌がぴったりと触れてきた。秋孝さんはなにも着ていなかった。長い足をわたしの足に触れさせながらパジャマの上着のボタンをはずしていく。肌に触れる彼の手はあたたかく、思い切って彼の胸へ顔をつけるとわたしの肩の寒さを防ぐように腕が回されて引き寄せられた。
 はあ、とわたしの吐息が小さく漏れる。秋孝さんの手がパジャマのズボンごとショーツを引き下ろして奥へと触れてきた。指が差し込まれたそこは自分でもわかるくらいに熱く、濡れていた。
 ……わたし、彼を求めている。
 お義父さんに言われたことに対するやるせない気持ちも、昼間までの体のだるさもすべて吹き飛んで、ただ秋孝さんに抱いてほしいと思っていた。秋孝さんの指の動きにつれて水音がするのに、それ以上に荒くなる自分の呼吸の音にその音も聞き取れなくなっていく。わたしの中を絶え間なく擦る指に手足に力が入って腰が持ち上がってしまう。足を開いているのに腰を持ち上げてしまうなんて……。
 でも、そうすることしかできない。
 熱い内部を秋孝さんの愛撫でもっと溶かされているのに、迫ってくる快感に体の奥を引き絞られる。崩れる寸前のようにとろけているのに固いそこを秋孝さんに押し開かれて固く高ぶった彼のものが入ってきただけでわたしは達してしまった。何度も彼を締め付けて、何度も体を反らした。わたしの中で彼が達して、もうそのときはわたしは動けなかったが、彼が達しているということがまたわたしを震わせた。

「シャワーを浴びてくる」
 わたしの体へ毛布を掛けると秋孝さんはベッドを出た。寒いのになにも身につけず寝室のドアから出ていく彼の裸体がわずかな廊下からの光で暗く浮かびあがる。背の高い体の細長い線が、隠そうともしない陰部の茂みとそこだけは丸みのある尻の曲線にふちどられた男の体だった。
 さっきまでわたしを抱いていたのはあの体だ。あの体に抱かれたと思うとそれだけで体の中が疼く。今夜の秋孝さんは避妊していたが、それを気にする余裕もなかった。それほど彼を求めていたのだと思うとやはり恥ずかしくて今更ながら顔が火照った。秋孝さんが戻ってきたらどうしようかと思ったが、パジャマを着て戻ってきた彼はすっとベッドに入ってきて、なにも言わずに横たわり目を閉じた。秋孝さんは今日仕事から帰ってきたばかりで疲れているはずだと遅まきながら思い出した。それでも彼の体がとなりにあるぬくもりに安心してわたしも目を閉じた。




 次の日は秋孝さんも少し起きる時間が遅かったが、休みだからそれもかまわなかった。朝食を食べると仕事をすると言って彼は書斎代りの部屋へ入った。
 今日は天気がいいから洗濯して外に干せそうだ。このまえ降った雪ももう残っていない。そんなことを考えながら秋孝さんが昨日着ていたワイシャツを洗濯機の中へ入れようとして襟の汚れ具合を見たとき、気がついた。襟の後ろのところに赤い色がついている。

 これは……口紅だろうか。


   目次     前頁 / 次頁

Copyright(c) 2014 Minari Shizuhara all rights reserved.