夜の雨 9


 目次



 さっきまで掃除をしていたので家の中は冷えたままだった。急いで客間のファンヒーターをつけ、座布団を出しながらわたしは少なからず動揺していた。秋孝さんのお父さんと会うのは初めてだった。
「初めまして。ご挨拶が遅れてしまってすみません。希和です」
 座卓の前に座ってもらったお義父とうさんに畳に手をついてお辞儀をした。これでいいのかどうかわからなかったが、ともかくそうした。
「永瀬です。あなたが希和さんか」
 顔をあげたが、お義父さんはにこりともしなかった。六十代後半に見える顔と黒っぽい紺色の背広を着ている体は痩せ型で、上着の下にはグレーのセーターを着ていたが、まだ暖まりきっていない部屋の中では寒そうだった。
「ここへ来るのは二度目ですよ。以前に来たときも留守で」
「すみません、いつもは、あの、軽井沢の近くの町に住んでいるので。結婚するときに秋孝さんが用意してくださった家で」
「知っていますよ」
 わたしの説明を遮るようにお義父さんは言った。
「半年ほど前、ちょっと用があって私の戸籍抄本を取ったら秋孝が結婚したことが書かれていた。見てみたら結婚後の本籍地は軽井沢のほうにしてある。どうしてそこにしたのかは知らないが、秋孝の戸籍にはあなたの元の本籍としてここの住所が書かれていたのでね。私も都内なのでこちらのほうが近い。それに向こうの家へ行っても秋孝はどうせ私と会おうとはしないだろうから」
 ふうと小さく息を吐いてからお義父さんは苦々しい様子で続けた。
「その顔だとあなたは秋孝からなにも聞いてないんでしょうな。私たちのことも」

 なんと答えていいのかわからなかった。
 秋孝さんから聞いていないわけではなかったが、家族について詳しいことを秋孝さんは話そうとはしなかった。お義父さんに「私たち」と言われても、どんな家族構成なのかということもわたしは知らなかった。

 結婚前に秋孝さんが言ったのは、自分は養子で、養父母とは折り合いが悪かったために成人後に家を離れてからは交流もない。だから結婚するにあたってもわたしが秋孝さんの養父母に会うことはない、ということだった。
 そのときの秋孝さんは感情的な言いかたではなかったが、でも、結婚するのにそれでいいのだろうかと口を開きかけたわたしに秋孝さんは厳しい様子で言ったのだ。
「詳しく話したくはない。それくらい俺と養父母はうまくいかなかったと、そう思ってくれていい。俺も二度と養父母に会うつもりはない。それでも希和がいいというのなら俺と結婚してほしい」
 秋孝さんはそれ以上家族のことを話そうとはしなかったし、わたしも聞けなかった。実の親子でないご両親とどんなことがあったのか、秋孝さんの態度を見ればあまり良くないことだろうと想像するしかなかったが、たとえ聞いても話してはもらえなかっただろう。
 それにお義父さんの苦々しい話しかたは、とてもわたしからなにかを言える雰囲気ではなかった。正座したひざの上で手をぎゅっと握り締めるしかなかった。

「なにも話してないのも秋孝らしいと言えるが」
 わたしが話せないでいると、お義父さんはまた渋い表情のままで話しだした。
「秋孝は私の妹の子でね。妹はなんていうのかな、今でいうシングルマザーってやつですかね。産んだのはいいが、いろいろあって結局は育てられなくなって秋孝は私が引き取ったんだが、あいつは子どものときから私になつかなかった。私だけじゃない、家内にもなじもうとしなかった。それでも育ててやったのに秋孝は中学から全寮制の学校へ入ってそれきり家には帰ってこなかった。大学へ入ったのは知っていたが、それから秋孝がどこで何をしていたのか、最近まで私達は知らなかった。戸籍を見て秋孝が結婚したことを知るまでは」
「では、秋孝さんがアメリカで仕事をしていることは」
 やっと声に出して言うことができたが、お義父さんは話を続けた。
「それも最近知ったんだがね。秋孝の名前をインターネットで検索したらテレビ番組に取り上げられたことがあったみたいで、そのときの関連記事がいくつか出てきた。アメリカでキュレーターという仕事をしているそうだが、どういう仕事なのかはともかく、まあ、別荘地に家を買うくらいだからそれなりの収入もあるんだろう」
 お義父さんの口調はどこか皮肉を込めたような、わたしにはわからない苛立ちを隠しているようだった。

「あなたはアメリカには行かないのかね」
 不意にお義父さんが聞いてきた。
「あ、はい。わたしは英語も話せないですし、秋孝さんもそれでいいと……」
 なんとか答えるわたしをお義父さんはじっと見ていた。探るようなその視線が痛く感じられる。
「この家には誰も住んでおられないようだが、あなたのご両親は」
「あの……、両親はわたしが三歳のときに車の事故で亡くなりました。それからは母の両親である祖父母に育ててもらいました。母はひとり娘で……祖父も祖母も、もう亡くなってしまいましたが」
「そうですか」
 そう言ってお義父さんはかすかに口元を歪めるような笑いを浮かべた。
「なるほど。それで秋孝はあなたと結婚したわけですか。それならばあなたと秋孝は似合いなのかもしれない。親のいない者同士ってわけで」
 え……。
「養子にしてやったのに、その恩も忘れて。そんなやつと結婚したあなたもあなただ。いまの若い人っていうのはみんなそうなんですかねえ。結婚するのに親に挨拶もしないで、そういうことは気にしないでいられるんだから。まあ、あなたはご両親もいないから、そういうことを知らないのでしょうが」





 秋孝さんのお父さんが帰られた後はなにも手につかず、掃除のほかにもやりたいことがあったのにそれもできず、自分の部屋として使っていた二階の部屋のベッドに腰をおろして茫然としていた。
 午後になって陽が西日になりかけているのに気がついてやっと立ち上がると戸締りをして駅へ向かった。このまま実家に泊っても差し支えなかったのだが、やはり日帰りで帰ると秋孝さんに言ってあったので家に帰ることにした。
 電車に乗って帰り、降りた駅の近くのスーパーマーケットで買い物をして店を出ると、時間はまだ夕方だったのにあたりは完全な夜のように暗かった。冷たい道路を歩いて家に着いたときは家の中はやはり真っ暗だった。きのう出かけたばかりの秋孝さんが帰ってきているはずがない。
 リビングにあるストーブの前へ座ってコートも脱がず、じっと青い炎を見つめていた。かすかに音を立てるストーブの前でどのくらいそうしていたのか。
 辛いことに触れたくないかのように頭の中が痺れているような気がする。こうしていたってお義父さんから言われたことが消えてしまうわけでもないのに。

 あの時――。
 わたしの両親が亡くなっていることを話したときのお義父さんの言葉。
 秋孝さんのお父さんだから、聞かれた以上は話さなければならないと思ってわたしの両親のことを話したのに、あんなふうに言われるとは思わなかった。
 お義父さんに挨拶もしないで結婚したと非難されてもしかたがないとは思う。でも秋孝さんがご両親に会うつもりがないと言っても、いつかはわたしも会わなければならないだろうと思っていた。

 思ってはいたけれど……。


   目次     前頁 / 次頁

Copyright(c) 2014 Minari Shizuhara all rights reserved.