夜の雨 8


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 寝室の隣の部屋から秋孝さんが電話で話している声がかすかに聞こえてくる。彼の声はほとんど聞き取れなかったが、英語で話しているようだった。秋孝さんのいる部屋は畳にすれば四畳半ほどの小さな部屋で、彼が帰ってきたときに書斎代りとして使ってもらえるように机と小さなサイドボードを入れておいた。
「秋孝さん、コーヒー飲みますか」
 部屋から出てきた秋孝さんにそう尋ねると「ありがとう。頼むよ」と言ったのでコーヒーを淹れて持っていくとソファーに座った秋孝さんは本を手にしていて、英語で書かれている本を広げながらマグカップへ手を伸ばしてひと口飲んだ。
「なに?」
 不意に秋孝さんが聞いてきた。コーヒーを飲む秋孝さんをわたしは知らないうちにじっと見てしまっていた。
「あ、いえ。お昼はなににしましょうか」
「なんでもいいよ」
 つまらないことを聞いてしまったわたしを秋孝さんは目だけ上げて答えてから向き直って付け加えるように言った。
「なにか手伝うことは?」
 秋孝さんの言いかたは一応そう聞くのが夫の役割だからという感じだったが、まじめに言っていたのでわたしもまじめに返した。
「いいえ、大丈夫です」
 わたしがそう言うと秋孝さんはまた本へ視線を戻した。でも、そう言ってくれただけでもなんとなくうれしい。ひとり暮らしの長い秋孝さんはもしかしたらわたしよりも家事や料理に慣れているのかもしれないが、彼が家事をするイメージはまったく湧かない。

 秋孝さんは帰ってきた翌日から一週間は完全にオフだと言ったのにときどき仕事をしていた。ひと月ほど日本にいるあいだに来週はまた京都へ行き、そしてその後は東京にも出かけると言っていた。休暇として帰ってきているわけではなく、日本にいるあいだにも仕事をするということはやはり忙しいんだなと思った。それでも帰って来てくれたことはうれしいし、秋孝さんとこんなに長く一緒に暮らすのも初めてのことだった。

「あれ……?」
 リビングのソファーで本を読んでいると思っていたのに昼ごはんができて呼ぼうとしたら秋孝さんの姿が見えなかった。キッチンからリビングへ出てみると玄関から直角に回り込んだ廊下に秋孝さんが立っているのが見えた。
 そこは廊下といっても玄関と区切る仕切りドアを閉めれば独立した部屋のようになる板敷きのスペースだった。家の南側にあり、雪もやんで明るくなっている空やまわりの木々が見える大きな窓のある部屋で、秋孝さんはそこで腕を組み右手をあごのところに当てて窓のほうを見ていた。じっと立っているその様子は窓から見える風景を見ているのか、それとも窓そのものを鑑賞でもしているかのようだった。秋孝さんは仕事で絵画を見るときはいつもこんなふうにしているのだろうか……。
 わたしの視線に気がついたのか、秋孝さんがゆっくりとこちらへ振り向いた。濃いグレーのセーターに黒いズボンという黒っぽい彼の姿は薄明るい部屋の中でもくっきりと際立っていた。
「希和、これは?」
 秋孝さんは窓のそばの壁に掛けてある小さな額を指差していた。
「あ、それは」
 木製のシンプルなフレームの額の中の白い台紙の中央に入れてあるのはわたしの祖母の織った布地だった。祖母は織り手で、反物を織っていた。ずっとそれを仕事にしていた。歳を取ってしまってからは織る数も少なくなっていたが、亡くなる半年ほど前までは仕事をしていた。家には祖母が織った反物の端が残されていて、それをわたしは額に入れて掛けておいた。祖母の形見として。
「祖母のものです。少しこちらへ持ってきたんです」
「おばあさんの?」
 秋孝さんは少し考えるような顔をしてまた額の中の小さな布地を見た。微妙に色の違う薄い青やごく淡い桜色に染めた絹で織られた模様が春の空のようにも見える布地で、わたしが一番好きな布だった。
 秋孝さんに結婚を申し込まれたのは祖母が亡くなった後だったから、彼は祖母と会ったことはない。祖母のしていた仕事のことを話したこともなかった。
「そうか。おもむきのある布地だ」
 秋孝さんがさらりと言った言葉にちょっと驚いた。古風な表現で、彼が言うとは思っていなかった言葉だった。アメリカでアートを扱う秋孝さんに祖母の織った布はどういうふうに見えているのだろうか。聞いてみたかったが、いまのわたしはまだそれを聞く勇気はなかった。

 それから昼食の後で来週秋孝さんが京都に行っているあいだにわたしも実家へ行くことを話しておいた。この前のように許可を求めるような言い方になってしまわないように気をつけて、行くことを伝えた。
「用事があるので東京の家へ行ってきます。夕方には戻ります」
「そう。気をつけて」
 なんのこだわりもない様子であっさりと秋孝さんは言った。あっけないくらいだった。秋孝さんは
いいと言っているのだから変に気を使う必要はないんだ、と思った。

 それからも秋孝さんはときどき電話をしたり、持ってきたノートパソコンで書き物をしたりしていた。あまり話さないが、もともと彼はおしゃべりな人ではない。必要なことは言うが、無駄にしゃべらない人なのだと思う。こちらから話しかければちゃんと答えてくれるのだから、無理に話題を見つけて話しかけたりしないでいいというのはわたしにとっても楽なことだった。

 そして秋孝さんが京都へ出かけるまでのあいだ、夜になると秋孝さんは必ずわたしを抱いた。昼間は甘い言葉はもとより、寄り添うようなそぶりも全然見せない秋孝さんなのに、わたしがお風呂を済ませてベッドへ入ると先に横になっている秋孝さんの腕が回されてくる。変わらず繰り返される愛撫にだんだんと慣れてきたとは思うが、でもやはり彼の肌が触れてくるときのどきどきする気持ちは変わらない。有無を言わせない強さを持っているけれど彼の手はわたしが痛がるようなことはしない。恥ずかしさでわたしはつい体を隠そうとしてしまったり、自分でもぎこちないと思ってしまうけれど、最後は必ずといっていいほど高められてしまう。固い体の内側を溶かされて、彼にそこを占められているなんて、こんなの以前のわたしじゃない。
「もう……」
 なんだ? というように秋孝さんが顔をあげた。もう、なんだというのか自分でもよくわからない。もう充分、なのか、もういかせて、なのか。言えないままに秋孝さんが黙って愛撫を続ける。秋孝さんの動きにつれて体が揺れてしまう。上体を起こした彼の指がわたしの胸の先端を擦る。体の動きにつれて何度も、何度も。そうされながら秋孝さんの体がわたしの開いたところに押しつけられてぶつかるたびに体がびくつくほど感じて上り詰めてしまう。こんなに快感を感じてしまう自分が恥ずかしい。恥ずかしいのにどうにもできないうちに秋孝さんに慣らされていく。

 これが結婚生活ということなのかもしれない。
 無口で目立たないわたしは結婚なんて無理なのかもしれないとあきらめに似た気持ちで考えていたときもあった。もっとまわりの人といろいろ話そう。そう思ってもなかなか話すことができなかった。でも秋孝さんはわたしに無理にしゃべらなくてもいいと言ってくれた人だった。その秋孝さんが求めてくれている。それがなによりわたしにはうれしかった。




 秋孝さんが京都へ出かけた次の日、わたしも電車で東京の実家へ向かった。秋孝さんは一週間は京都だけど、観光するつもりはないから金曜日までで帰れたら帰ってくると言っていた。わたしも実家には日帰りで行くつもりだったからかまわなかった。来月は祖母の命日だ。まず家に帰ってすることは掃除で、ほかにもしたいことがあった。お天気がよかったので窓を開けて空気を入れ換え、掃除機をかけてきれいになった家の中でひと休みしていたら玄関から人の声が聞こえた。年配の男の人の声になにかと思って玄関へ行くと中から鍵を掛けた玄関の戸の擦りガラス越しに背広を着た男の人の姿がうっすらと見えた。
「どちらさまでしょうか」
 中から尋ねるとガラス戸の向こうの人は静かな声で答えた。
「秋孝の父です」

 思ってもみなかった人の訪問だった。


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