夜の雨 6


6  希 和

 目次



 ここの冬はとても寒い。
 外から家の中へ入るときに手袋をはずしてドアの取っ手を持ったら氷並みの冷たさで指が張りつきそうだった。
 わたしがいままで住んでいたところは東京都の端のほうの市で、東京とはいっても自然が身近にあるところだったが、ここよりは寒さが厳しくはなかった。ここでは雪はそれほど降らないけれど冷え込みがきつくて、真冬は家のまわりも木々もみな凍っているような寒さだ。
 家の中は秋孝さんがこの家を買ってからキッチンや水回りといっしょに暖房設備も新しいものにリフォームしてあったので不自由なく過ごせたけれど、雪の降る夜などになんとなく背中が寒いように感じてしまうのはひとりでいるせいかもしれない。ひとりでいるのは苦にならないし、慣れているつもりだったけれど、実際ひとりでいると寒々しいものなのだと今年の冬に初めて知った。

 八月に秋孝さんがニューヨークへ帰ってしまってからひと月後にメールが来た。変わりはないかという短いメールで、すぐに返事を返したがその後はメールが来ることはなかった。でも十月になると今度は電話がかかってきた。秋孝さんはメールも電話も仕事以外では使わないと言っていたので少し驚いた。
『元気か』
 電話での秋孝さんの声は何度か聞いたことがあるのに彼と話しているという実感がわかない。なんだかテレビの中の人と話しているようだ。でも、テレビではない。携帯電話を握り締めて耳を澄ました。彼の背後は雑音もなく、夜ひとりでいるかのようになんの音も聞こえなかった。
「元気です」
 そう答えると秋孝さんは『そうか』とひと言答えただけだった。黙っている彼になにか話さねば、なんでもいいからと思ったがそんなときは焦ってもなにも頭に浮かばない。結局はわたしもほとんど話せないまま電話が切れて、後から話せなかったことにがっくりと後悔したが、彼が電話してくれたことはうれしかった。結婚前からほとんど電話をしてこない秋孝さんが電話をしてきてくれたのだ。電話越しに感じた彼の気配を憶えておこうと思った。

 十二月になっても秋孝さんは帰国についてはなにも言ってこなかった。
 クリスマスになっても、年末がきてもなんの連絡もなかった。わたしから連絡してみようかと思ったが、携帯電話で何度も何度もメールの下書きをしてもとうとう送れないままだった。
 いま、なにをしていますか。いつ帰ってきますか。
 そう聞いてみたいのに、彼にメールを送ることにも、妻という立場にも不慣れで、ためらってしまう自分にため息が出た。

 年が明けてお正月にはわたしの親戚にだけ、ひとりでお年始に行った。旦那様はどうしたのかと聞かれて仕事でアメリカにいると言うと、お正月も帰ってこられないなんて大変だねと言われたが、秋孝さんがどんな仕事をしているのか詳しいことを知らないわたしにはそれ以上なにも言えなかった。
 実家の近くにある親戚の家から車を運転して帰る途中で、お正月は実家に帰っていればよかったかもと思ったが、わたしの実家には今は誰も住んでいないからそれならば同じことだと思い直した。
 秋孝さんは自分がいないあいだはわたしが元気でいればどこにいようが気にしないと思う。仕事でもなんでも好きなことをしてもいいと言っていた。でも、それはわたしがしたいことをさせてもらえるかわりに、夫婦ではあってもお互いの距離を保っていたいのではないかと思い始めていた。




 大きなベッドはひとりで寝るには寒々しい。それでも寒さの厳しいこの土地ではベッドのほうが板敷きの床へ敷く布団よりずっといいのかもしれない。秋孝さんそれを知っていてベッドを買うように言ったのだろうか。それともアメリカでの暮らしが長い彼の単なる好みだったのだろうか。
 結婚して初めて彼とこの家で一夜を過ごしたけれど、翌日には秋孝さんはニューヨークへ戻ってしまった。越してきたばかりでまだ見慣れない家の中で秋孝さんの持ち物もなく、残されていたのは夜を過ごした布団とわたしの体に残された鈍い痛みだけだった。
 二十九にもなって処女だなんて秋孝さんはあきれたかもしれない。いままで男の人と付き合ったこともなく、そういう機会もなかった。男の人が怖いとか嫌だとかそういうふうには思わなかったが、地味で無口なわたしはきっと男の人の興味など引かないのだと思っていた。
 初めての夜のことは思い出すたびに恥ずかしくてどうしようもない気持ちになる。
 緊張で強張るわたしに秋孝さんはほとんど口をきかなかったけれど躊躇なく抱き寄せられていた。なにもかも秋孝さんにされるままにするしかなく、声が出てしまわないように必死で耐えることしかできなかった。
 でも、彼は終わった後でなにも言わずわたしの肩を抱いていてくれた。恥ずかしさですぐにでも服を着たかったのに動かせてもらえなかったが、痛みと緊張でガチガチになっていたわたしの肩を撫でる彼の手のあたたかさに、確かに彼に抱かれたのだと思えた。。

 この家でひと晩だけ過ごした秋孝さんがニューヨークへ帰る前に玄関で見送るわたしに「行ってくる」とだけ言って出て行った。わたしはまだ初めての痛みに疲れきっていて目が覚めたときには秋孝さんはもう出かける支度をしていた。彼を見送ってはいたが体は痛く、もう少しだけ横にならせてもらおうと布団に戻ってからしばらくして彼が本当に行ってしまったのだと思った。布団に残る彼の寝た跡を撫で、彼の使った枕に顔をうずめながら。

 布団には彼の匂いが残っているような気がしてすぐにはベッドを買う気にはなれず、しばらくはこの布団を使うことにした。子供っぽいと思われるかもしれなかったが、秋孝さんの物はこの家になにもなかった。結婚指輪の交換さえわたしたちはしていなかった。
 秋孝さんは自分のスタイルを通す人なのだ。それに彼がこうしたいということは話してくれて、わたしの意思も確かめて希望を聞き入れてくれた。無駄なことをしゃべるような人ではないけれど、人の言うことを聞かない人でもない。そう思えたから結婚したのに、ベッドを買ってなかったことを聞かれたときにもうまく言えなかった。わたしはいつも話すことよりも黙っていることを選んでしまう。自分でもわかっている。
 別居結婚でもいい、仕事で海外に行っているご主人を持つ人だってたくさんいる。そう思ったのに、アメリカには住みたくないと言ったのはわたしなのに、ひとりで秋孝さんの匂いの残っている布団で眠るたびにいろいろなことを考えてしまう。
 秋孝さんはいつ帰ってくるのだろう。帰って来るときは連絡をくれると言っていたのだから待っていればいいだけのことだろうか。彼はほんとうに帰ってくるだろうか。わたしには結婚したっていう実感がちっともわかない……。
 それでもシーツを何回洗濯しても布団を陽に当てて干しても、やはり彼を思う物はこの布団しかなかった。この布団の上で秋孝さんはわたしを抱いた。たったひと夜の交わりだけだったけれど、この布団の上での記憶が彼と結婚したことなだと自分に何度も言い聞かせながら眠りについた。




「寒い」
 手袋とコートを掛けてリビングに入るとストーブに手をかざした。道路から家の前へ入ってくる道には積もった落ち葉が霜で真っ白になっていた。日陰の地面は凍りついたままで昼になっても溶けそうにない。今日はもう何度も外へ出て道路を歩いてくる人がいないか見に行った。お湯はポットにいっぱいに入っているし、食材も買ってある。秋孝さんから今日帰るとメールで連絡を受けてからずっと落ち着かない。何度も外に出てみて、何度も窓から外を見ている。落ち着け、と心の中で言ってみてもうろうろする自分を落ちるかせることができない。
 午後になってコーヒーを淹れる準備をしておいたが、自分はインスタントで済ますことにして熱いお湯を注いだ。そういえば昼食も食べてなかったと、こちらで見つけた美味しいパン屋さんで買っておいたパンを少し食べた。熱いコーヒーと食べ物を口にしてやっと落ち着いたが、同時にまだ午後三時なのに暗くなってきた外を見て今日はもう来ないかもしれないと思い始めたとき、玄関の
チャイムが鳴った。
「ただいま」
 まるで変わらない、いつもの秋孝さんだった。背の高い体に着た黒いコートの肩に細かなしずくが散らばっている。玄関のドアを閉めて向き直った彼の顔は笑いも怒りもしていない、ごく普通の表情だった。


   目次     前頁 / 次頁

Copyright(c) 2014 Minari Shizuhara all rights reserved.