夜の雨 5


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 どこかでせみが鳴いている。
 家を出て電車の駅へ向かって歩く道の遠くから蝉の鳴き声が聞こえていた。小さな駅のまわりには商店や家があったが、八月とはいえ平日の早朝だからなのか人影もほとんどなく電車に乗る人もいなかったのに、電車を乗り換えて東京へ近付くにつれて急激に車内は込み合い、お決まりの人の波に囲まれてしまった。成田空港へ着き、搭乗までの待ち時間にやっと座ることができた。右も左も大きな荷物を持った観光客に囲まれていたが、まったく知らない他人なので話し声も気にならなかった。
 あまり眠っていなかったので頭の芯に疲労感があったが、飛行機に乗ったらあとは眠るだけだ。時計を見ようと腕をあげたとき上着の袖口からシャツのカフスが見えた。しわひとつなく希和がアイロンをかけてくれたシャツだった。



 京都から帰ってきた翌日は何の予定もなく、昼は希和の運転する車で出かけて、ふたりで蕎麦屋に入った。蕎麦屋のまだ新しい建物は和風のカフェのような雰囲気で、希和が言うにはこのあたりには蕎麦を食べさせる店が多いという。蕎麦を食べるのは久しぶりだ。大学生だったときに食べて以来だった。
「おいしい。このお店に来てよかった」
 希和もこの店に来るのは初めてだという。細い体の見た目の印象と違って希和はいつでもきちんと食べる。希和は控え目にあまり音をたてずに蕎麦を食べていたが、なんとなく明るい顔をしていた。蕎麦が好きなのか、と思うほど鈍感ではない。希和は俺と一緒にいるのがうれしいから、だからあんな顔をしているのだろう。

 希和は昨日の電話のことはあれからなにも言わなかった。俺に親のことを尋ねることもない。今日も何事もなかったかのように家事をしていた。家に帰り、希和にニューヨークへ戻ることを告げたときにも希和は俺のシャツにアイロンをかけていた。
「希和、明日ニューヨークへ帰る」
 アイロンを持つ希和の手が止まり俺を見ていた。いま言ったことが信じられないかのような顔つきでオウム返しに聞いてきた。
「あした、ニューヨークへ?」
「そう、明日だ」
 言い聞かせるようにそう言うと希和はやっとうなずいた。
「何時に出られますか」
「午前中に出るよ。昼食は要らない」
 わかりましたと希和は答えたが、下を向いてアイロンの続きをかけていても手があまり動かない。
「希和」
 呼んで立ち上がって傍へ行くと希和が俺を見上げた。泣いてはいない瞳だったが、その瞳を見なくてもいいように引き寄せて胸に抱いた。
「一週間て、短いですね」
 ぽつりと希和が言ったが、希和の顔は胸へつけさせたままだった。希和が俺を見ないように。
「すまない。向こうにも仕事がある」
 明日帰らなくても、もう何日か日本にいることはできる。希和といるのは嫌じゃない。それなのにたった数日いただけで日本にいることに嫌気がさしている。
「希和も一緒に来るか」
 そう言うと、え、というように希和が顔をあげたので手を離した。
「でも、わたし、パスポート持ってないから……」
「そうか。それなら無理だな」
 希和がパスポートを持っていないことは知っていた。だからすぐにはアメリカへ行くことはできないのだとわかっていて聞いた。
「ごめんなさい……」
 希和が謝ることではないのに、なぜか希和は謝る。それはもちろん俺が一緒に来るかなどと言ったからだ。希和がアメリカに住みたくないことは俺も承知しているのに。

 希和に結婚を申し込んで返事をもらう前に、結婚したらアメリカに住むことになるのかと聞かれたが、俺は希和には日本でもアメリカでも住みたいところに住んでくれていいと言った。仕事の拠点はニューヨークにあったし、この先日本へ戻る気もなかったから、希和が日本に住むことを選べば当然一緒には暮らせないことになるが、夫婦だから結婚したら一緒に住まなければならないという意識もなかった。
 希和はしばらく考えていたが、それでもはっきりと日本にいたいと言った。
「わたし、英語が話せないし、アメリカで暮らす自信がありません」
 日本に住むということが希和が結婚する際に出した唯一の希望だった。

 希和が夕食を作っているあいだに寝室で東京へ向かう電車の時間を調べ、荷物をまとめておいた。夕食が終ると先にシャワーを浴びてリビングへ戻ると希和はまだキッチンにいて、クッキング
ヒーターに乗せた湯気の出ているケトルをぼんやりと眺めていた。
「希和」
「あ、はい」
 俺が来たことに気がついてなかったのか、希和がはっとしたように振り返った。
「コーヒーでも淹れるのか」
「いえ、あした飲む麦茶を作っておこうと思って。あ、冷たいのもまだありますよ」
 そう言って希和が俺の脇を抜けて冷蔵庫の前へ行き、扉を開いて麦茶の入ったガラスのポットを取り出した。
「飲みますか」
「いや、いいよ」
 答えてからヒーターのスイッチを切って希和へ向き直ると、希和の顔に戸惑ったような、そんな表情が浮かんでいた。
「どうした」
 希和の体へ腕を伸ばすと手に持っていた透明なポットの中で麦茶の液体が揺れた。希和の手からポットを取り上げて調理台の上へ置くとまた希和の体を抱いた。
 腕の中へ抱いた希和がなにか言ったが良く聞こえず、かがみこんで顔を近づけると希和は顔をそむけたくてもできずに余計にうつむいてしまった。
「だって……」
 それ以上言おうとしないが、不満がましいことを言わない希和にしてみたらそれが精一杯の言葉なのだろう。もっといて欲しい。帰らないで。希和がそう言ってくれればうれしいかもしれないが、言われても困る。
「おいで」
 希和の腕を取って引いた。キッチンを振り返った希和の背を押す。麦茶のポットなど放っておけばいい。




 希和の吐息が聞こえる。
 希和の体には愛撫を受けることにまだ慣れていない固さが残っていたが、少しは慣れてきたのか反応がはっきりしてきた。胸のふくらみも、固い先端も、細い腰のしなりも、言葉の代わりに希和の反応のいちいちを確かめていく。
 一度、達せさせた希和の肌はエアコンをつけた部屋の中でもうっすらと汗を吹いていた。希和の両足の付け根の肌が重なっている部分の湿り気をなぞると、希和の吐息がまた吐き出された。手で触れている希和の肌が熱く感じられる。
 ベッドの脇に置いておいた避妊具をつけてから希和の内部へと入っていくと熱い締め付けに迎えられる。抵抗するかのような希和の締め付けを少しずつなだめるように動いていく。
 何度でも。
 そう思った通りに希和はまた昇りつめ、体を震わした。希和のされるがままの体が揺れ、息が乱れていく。固いのに柔らかな希和の内側に何度も自分の欲望をぶつけ、希和を追い上げた。一方的だとは思うが、そうせずにはいられない。
 こんなにも深く体を交わせながら明日は離れていく。
 いまはそうするしかない。

 くたりと動かなくなった希和の体を抱きながら、ほつれた髪をなでた。カーテンを引いた部屋の中は暗かったが、真夏の早い夜明けで空が薄青く明るくなりかけていた。抱いたままの希和の息が静かな寝息に変わっていた。
 しばらくしてから希和の体を離し、ベッドから出るとシャワーを浴びた。寝室へ戻り服を着てからベッドへ振り返ると希和が目を開けてぼうっとした顔で俺を見ていた。
「出かけるよ。希和は寝ていていい」
 腕時計をはめたほうの手を伸ばすと、希和が両手で俺の手をつかむようにして引き付けた。手に希和の頬が擦りつけられ、そして離れた。
「行ってくる」
 もう一度言い、ドアを開けて部屋を出る俺を希和はベッドの中から無言で見ていた。




 希和の頬の触れた手とシャツのカフスをじっと見下ろしていた。自分の手に希和の匂いが残っているような気がしたが、そんなわけもない。軽く手首を振り、腕時計で時間を見てから搭乗ゲートへ向かうために立ちあがった。

 アメリカに戻った俺が、次にまた日本に来たのは半年後のことだった。


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