夜の雨 4


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 京都に住む画家の自宅兼アトリエを訪ねるというのが今回の目的で、美術大学の教授をしている画家、野田慎二はニューヨークにも創作の拠点とするアトリエを構えていた。日本画の画家だったが海外で先に認められ、彼の作品はアメリカのいくつかの美術館にも納まっていた。 個人の収集家にも非常に人気のある画家で、キュレーターとして彼の仕事のいくつかに俺が関わったことから来年アメリカと日本で開く展覧会の企画のディレクターを任されていた。
 京都郊外にある画家の家へ行くと夫人が迎えてくれた。
「ようこそ、永瀬さん」
 白髪の混じったショートヘアの夫人は画家がニューヨークにいるときは必ず一緒に来ていた。夫人は六十代だったが、いつも快活で若々しかった。
「わざわざこちらまで来ていただいて申し訳ありませんね。永瀬さんはいつ日本へ来られたの?」
「三日前です」
「こちらのホテルに泊まっていらしたの?」
 広い庭と和風建築の外観を持つ家の中をアトリエへ案内してくれながら夫人は話しかけてきた。
「いいえ、日本にも家があるので」
「あら、東京ですか?」 
「東京の近くです」 
 結婚したことはこの人たちには話してない。家の場所も詳しく言う必要はないからぼかして言った。

「永瀬さん、今日はよろしくお願いします」
 アトリエで待っていたのはテレビ番組の制作会社のディレクターだった。今回の俺の訪問にはテレビクルーが入ることになっていた。日米双方で行われる展覧会までの経過をドキュメンタリー番組にする。主役はむろん野田だったが、俺も撮られる。なるべく顔は出したくはなかったが、断れなかったのはやはり野田の意向だった。
 俺自身が二年ほど前にアメリカで活動するアート関係者ということで30分のドキュメンタリー番組を撮られたことがあった。放映は日本だけで深夜の30分番組だったが、その番組に出たもこの画家の紹介というか推薦だった。
 俺がフリーランスのキュレーターとしてやっていけるようになったのは、この画家の仕事に関わったおかげだった。世界的に名の知れた日本人画家のアメリカでの展覧会の企画を無名の日本人キュレーターがする。それをさせてくれたのが画家野田慎二で、いまも野田とは仕事上のつながりが濃密にある。テレビクルーが入ることも断ることはできない。

 広いアトリエにはすでに画家の描いた絵が助手たちの手で何枚も並べられていた。回顧展にも匹敵する展覧会とするために野田の若い頃から今までの膨大なスケッチや下絵、日本に置いてある作品を見せてもらった。
 昼過ぎから始まった仕事は野田自身による作品への説明などでまたたくまに時間が過ぎていった。こういう仕事は時間がかかることがほとんどなので、今日は京都に一泊する予定でホテルを予約してあった。夜になってようやく終わり、テレビディレクターがホテルまで送るというのでスタッフの運転する車に同乗した。
「永瀬さん、今日は先生も永瀬さんも集中されていましたね。お疲れさまでした」
「いや、そちらこそ」
「よかったらこのあと一杯つきあってもらえませんか。それからホテルへ送りますよ」
 ディレクターは俺と同じくらいの年齢だったが、いままで一緒に酒を飲んだことはなかった。仕事以外での付き合いはする気はなかったが、ふと気が変わった。
「そうですね、では一杯だけ」
「えっ、永瀬さん、本当ですか」
 自分から誘っておきながらディレクターはそう言って、如才なくうれしそうに手を振って見せた。
「永瀬さんはそういうことは決してしない人だと聞いていたんですよ。いやー、でも言ってみて
良かったですよ」
 どうせ仕事の話をしたいのだろうが、ここは日本なので日本式の付き合いもたまにはいいだろうと思っただけだった。

 翌日は新幹線で東京へ戻って日本にいるアメリカ人画家と会う予定だった。夕方には希和のいる家へ帰るつもりだったが、遅くなりそうだった。こういうときにも希和に連絡することはしない。ひとりで行動することに慣れていたし、その習慣を変える気もなかった。希和からもメールも電話もない。
 結局、家に着いたのは深夜だった。道路から見ると家には灯りがともっていないようだった。家自体は見えるのだが、それは玄関のわきの地面に置かれた足元を照らす灯りが点いていたからだった。
 玄関のチャイムを押すか、それとも電話をするか、鍵のかかっているドアの前で迷ったが、持っている鍵でドアを開けて入ることにした。暗いリビングへ入ったが、やはりそこに希和はいなかった。リビングの灯りをつけてから静かに寝室のドアを開けると中は真っ暗だったが、希和の気配は感じられた。
 眠っていたのか。そう思ったが、なにか変だった。注文してあったダブルのベッドが寝室におかれているのはすぐにわかった。しかし希和が寝ていたのはベッドではなく、ベッドの横の床に敷いた布団だった。
「希和、ただいま」
 変だとは思いながら声をかけた。もしかしたら希和はベッドが苦手なのだろうか。日本人にはときどきそういう人がいる。それで希和はベッドを買わなかったのだろうか、と考えながら。
「秋孝さん?」
「そうだ。いま、帰ってきた」
「あ、おかえりなさい。すみません、寝ていて」
 希和があわてたように布団の上で起き上がった。
「いや、それはいいんだが。でも、なぜ布団で寝ているんだ」
「え?」
 希和が立ち上がって前に立った。いつも髪をひとつに束ねているゴムを取っていたので髪が肩へ垂れていた。寝入りばなを起こしてしまったらしく、見たことのない希和のぼおっとした表情が開けたドアのリビングから射す光で見えていた。
「布団のほうがよかったかな」
「いえ、そんなこと……」
 希和の言いかたも表情も、まだ思考が戻ってきていないようだった。するりと希和の体へ腕を回して引き寄せると希和は身を固くした。
「あき……」
 希和の声が途中で消えた。希和の唇を唇で塞いだからだ。まだ素直には開かない唇をあごをあげさせて開き、舌を絡めて吸うと希和の体からだんだん力が抜けてきたので、ベッドへ座らせた。
「起こしてしまって悪かった」
 そう言うと希和がかすかに首を振った。
「こっちへ寝てもいいか」
 ベッドを手で指しながら聞くと、希和はこくりと頷いた。
 希和を離すと立ち上がって着ていた上着を脱ぎ、シャツのボタンをはずした。服を脱いでいく俺を希和が目のやり場に困っているような顔をしながらも見ていた。
「秋孝さん、あの」
 シャツを脱ぎ捨て、また希和を引き寄せようとしたその前に希和は体をずらした。
「秋孝さん、夕方、お母さまから電話が」

 おかあさま。
 聞こえていたのに、聞き慣れないその単語の意味が一瞬わからなかった。

「それで、お母さまが」
「いや、言わなくていい」
 唐突に遮ると、希和は驚いたようだった。
「母がなにを言ってきたとしても、聞く気はない」
 声が怒り声になることもなく、冷静に言った。
「以前にも言ったが、俺はもう親とは関わりがない。大学に入った以後、両親とは会っていない。俺は養子で、両親は戸籍上の親だったということでしかない。今後も俺の両親には会うことも話をすることもないと言ったはずだ」
「でも」
 希和が話を続けようとしたが、立ち上がった。
「希和はなにも言うな」
 希和が口を開きかけたままで固まったように俺を見ている。が、腹の中の怒りはどうすることもできず、シャツを拾い上げるとシャワーを浴びてくると言って寝室のドアを開けた。ドアから出て行くときにちらっと振り返った寝室の中で、希和はまだベッドへ座ったままだった。




 ……腹立たしい。

 シャワーの水を頭から浴び、しぶきをあげて流れる水に打たれながらしばらくそうしていた。怒りにまかせて壁でも殴りつけたい気分だったが、そんなことをしても気持ちは晴れないことは経験で知っている。

 義両親の家を出たときから電話がかかってきたことなど一度としてなかったのに。
 いまさら、というよりもなぜ義母が電話などしてきたのか。婚姻届を出したことに気がついたからなのか。ほかに思いつく理由はなかった。
 だから日本にいるのは厭なんだ……。

 洗った体と髪をタオルで拭きながら浴室を出ると、洗面所に下着とパジャマが置いてあった。自分で置いたのではないから、置いたのは希和しかいない。
 パジャマを着て寝室のドアを開けると寝室の中で大きなベッドが黒々と影のように見えた。ドアを閉めベッドへ寄ると希和が端のほうに寝ているのに気がついたが、黙ってベッドへ横になった。
 希和は眠ってはいない。ほとんど聞こえないほどのかすかな呼吸の音は眠っているときのそれではない。

「希和」
 暗闇の中で呼んだ。
「さっきはすまなかった。希和のことを怒ったんじゃない」
「……はい」
 小さな声で返事があった。
「親のことは俺のことだから希和には関係ない。そういう気持ちで希和もいてくれたらいいんだ」
 希和は答えなかった。答えを求めたわけでもなかったが。
 ベッドの端で息を潜めている希和のほうへ手を伸ばすと希和の体に掛けてある薄いタオル
ケットに触れた。自分の体を希和のほうへ寄せてタオルケットごと希和の体へ腕を回した。
「秋孝さん」
 希和のどこか戸惑ったような声が聞こえたが、目を閉じていた。しばらくそのままでいるとやっと希和の顔が俺の胸につけられた。

 それでいい。それでいいんだ。
 希和に当たり散らす気など毛頭ない。けれども希和があれ以上義父母のことを言ったら冷静でいられる自信はない。希和がなにも聞かずにいてくれたほうがいい。
 胸のそばで繰り返される希和の呼吸を聞きながら、やり場のない冷たい感情を体の奥深くへ沈めさせた。


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