真冬のレプリカ 12

真冬のレプリカ

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12


 年末に武見の部屋に戻ってからもわたしは眠って食べてということを繰り返して数日過ごしていた。やっと朝、起きることができるようになったのは年が明けて武見の仕事が始ってからだった。
 武見は正月休みのあいだはずっと寝正月だと言ってわたしと同じようにごろごろと過ごしていた。外出することもあったが、それは食べ物や日用品を買ってくるためで、それ以外はどこにも出かけなかった。そして誰も来なかった。ふたりきりでいて、夜は同じベッドで眠ったけれど武見はなにもしなかった。いや、なにもしないというよりは、わたしがまたおかしなことをしてしまわないように彼なりに気を付けているらしかった。
 夜、ふと目が覚めてとなりを見ると武見がこちらを向いて眠っている。起き上って彼を見ると、大きくて長い体がわたしのとなりでこんもりと壁みたいだ。壁は壁でも生きている壁で、あたりまえだけど温かい。大きなベッドはふたりが寝ても余裕で、武見もソファーに寝ていたときのように足がはみ出したりしていない。暗い部屋の中で、ああ、そうかとわたしはその時納得した。このベッドは武見の長い身長に合わせたものなんだ。189センチだと言った武見の身長でも足がはみ出ないこのベッドはたぶん欧米仕様で、まさに彼のベッドという感じだった。この人には日本のベッドは合わないなと妙に納得して思わず笑いが込み上げてきたけど、武見の体が動いたのでまたそっと横に
なった。

「別に。要らないよ」
 居候というか、ここに住まわせてもらっているなら食費くらいは出さないと、と思ってそう言ったら、武見に素っ気なく断られてしまった。
「そういうわけには」
「俺がここに居ればって言ったんだし、俺もいまのところは生活に困ってないから」
「でもやっぱり悪いです」
「料理とかやってもらっているから、それでいいよ」
 わざと渋い顔で武見が答えた。わたしにできることは家事くらいで、べつに武見にやって欲しいと言われたわけではないけれど、年が明けて武見が仕事へ行くようになるとほかにすることもなくて、なんとなく家事をするようになっていた。武見が仕事へ行ってしまうと冷蔵庫の中身をあれこれと調べてから、まあカレーなら大丈夫だろうと思って作ったカレーを武見は無言で食べ、おかわりをして続けて食べながら
「うまい。うまいよ」
 と、皿から目も上げずに言った。
 この人は社長という肩書は持っていても中身は独身男のひとり暮らしで、ご多分にもれず食事は外食や買ってきたもので済ませることがほとんどだったらしい。
「でも、武見さんだって料理ができないわけじゃないよね」
 正月休みが明けるまでは武見が食事を作ってくれた。例のベビーリーフのサラダとか、目玉焼きとか、レパートリーは少なかったけど。
「店で食べるカレーと、こういう家で作ってくれたカレーは別物だよ。こういうの食べたの久しぶりだ。うん、これだよな」
 三杯目を食べ終わってやっと武見が満足したように言った。うまいとは言ったけれど、そのときになってやっと武見が喜んでいるのだとわかった。それにしても普通の市販のルーで作ったカレーをこんなに喜んで食べるなんて。わたしにはそのほうが驚きだった。
 料理をするようになると買い物にも行かなければならない。買い物に行くからというと武見は眉を寄せた顔でちょっと考えていたけれど、でも店のある場所を教えてくれた。
「なあんだ、近くにスーパーあるじゃないですか。コンビニもスーパーも近くにないって言ってたから」
「ごめん」
 ちょっとだけ本当の不機嫌になって武見が答えた。でもその不機嫌顔もすぐに消えた。
「俺も一緒に行こうか。仕事から帰ってきてからなら行けるから」
「いいですよ。大丈夫です」
 もう逃げたりしないから。
 そうは言わなかったけれど、武見に信じてもらえたらしく彼もそれ以上なにも言わなかった。

 もう逃げたりしない。
 胸の痛みが消えてしまったわけではないけれど、この痛みに効く薬はたぶん時間なんだと、頭ではわかっている。ただ時間を速くすることはできないから、痛みから目をそむけ、考えないように、思い出さないようにして毎日をやり過ごすしかない。
 毎日家事をして、わたしも料理のレパートリーを増やすためにいろいろ作ってみた。武見はたいてい美味しいと言ってくれる。まるでこれじゃ新婚家庭みたいだけれど、家事をするのはここに置いてもらっているせめてものお礼みたいなものだ。休みの日になると武見も一緒に出かけて買い物したりした。日曜日のショッピングセンターは家族連れやカップルでいっぱいだ。武見と歩いていると自分たちもまわりのカップルや夫婦のように見えるのだろうか。
「なに?」
 ちょっと立ち止ったわたしに人混みの中でも頭ひとつ分飛び抜けて背の高い武見の背中が振り返る。こんなわたしたちは他人から見たらきっとカップルだろう。
「ううん、なんでもない。買い物済んだから、もう帰ろうよ」
「そうだな」
 武見が手を出してひょいと荷物を持ってくれる。まるでカップルだ。でも。

 わたしたちはずっと同じベッドに寝ていた。大きなベッドだから体が触れ合うわけじゃないけれど、同じベッドで寝ていることには変わりはない。もうわたしは逃げないのに、武見もそれがわかっているようなのに、夜になると同じベッドで眠る。武見にとってはこのベッドのほうがいいに決まっている。彼のベッドだから。わたしのほうがいわば闖入者だから、わたしが他の部屋で寝るべきなのだろうけど、でもわたしにはそれができなかった。だって寒い。
 一月の真冬の夜は暗くて寒い。マンションの部屋の中のベッドでもやっぱり寒い。でも武見が一緒に寝るようになってわたしは武見の体がいつも温かいことに気がついた。わたしがなんとなく眠れなくていると、となりで寝ていた武見の体が動いてこちらを向いた。
「寒いのか?」
 今夜はなぜか足先が冷たい。思い切って武見の足に自分の足を寄せてみた。武見の足に暖められたシーツやまわりの布団がじんわりとあたたかい。それだけ自分の足が冷たいということで、武見には悪いけど彼の足にわたしのつま先をくっつけてしまった。
「冷たい足だなあ」
 暗闇の中で武見がぼやく。でも怒っているようでも不機嫌でもなく、わたしの足が付けやすいように足を少しずらすと彼は静かに呼吸を繰り返して、やがて眠ってしまった。
 翌朝、目が覚めた時、体に緩く回された腕を見て驚いてしまった。顔を離そうとすると横には武見の顔があり、わたしは背の高い彼の長い体の懐(ふところ)に丸まって眠っていたのだ。わたしが動いたからか、武見も目を覚ました。
「あー……」
 眠そうに言いながら寝返りを打った武見が急にはっとしたように起き上った。わたしと目が合う。自然、見つめ合うかたちでベッドの上に居る。お互いに目が覚めたばかりだったが、妙な一瞬だった。が、すぐに武見はベッドから出た。なにも言わず寝室を出ていく。なんと言ったらいいのだろう。わたしが布団にくるまったまま考えていると、ドアの向こうから武見の声が聞こえた。
「佳澄」
 思わず起き上って耳を澄ました。
「俺は待つから。佳澄がここにいたくないのなら止めないけど、でも、いてくれるのなら待っているから。無理することない」
 そして朝食は要らないと言うと武見は仕事に行ってしまった。

 わたしを部屋に住まわせて、でも武見はなにもしようとしない。
 それは同情? いたわり? それとも。
 好きだと言われたのに、いまの武見がわからなかった。それを考えるのが怖いような気がしていままで直視できないでいた。
 大きな島のようなベッドでひとりで考えることは堂々巡りでなにも変わらない。たぶん百年考えていても変わらないような気がしてきた。百年間このベッドで眠っていたら武見は起こしに来てくれるだろうか……。

 その日、仕事から帰ってきた武見はいつもと同じだった。わたしが作ったごはんを食べている武見の表情は渋かったが、それはいつものことで特に変わった様子ではなかったが、ほとんど話しをしない。
「あの」
 思い切って話しかけると武見が箸を休めて目を上げた。
「仕事、探そうと思うんです。このままでいるわけにいかないし」
「俺の会社で働けばいいよ」
 ファームには女の人がたくさん働いている。武見はそう言っていたけど。
「でもファームって東京じゃないんですよね。たしか山梨や静岡って言ってましたよね」
 ここから通うってわけにはいかない。
「ファームでもいいけど、柳井さんが仕事を手伝ってくれる人を欲しがっているんだ。でも良かったらファームも見てくれよ。あさっての土曜日ならちょうど柳井さんもその日にファームに行くことに
なっているから見に行こうか。ドライブしながらさ」
 ドライブって言われて、デートみたいだなって思った。一緒に暮らしていても武見がわたしに一定の距離を置いているのは気がついていたけれど、その距離を武見は変えようとはしないのだろうか。それともわたしが変えるのを武見は待っているのだろうか……。



 山梨から戻りマンションに着くともう夕方だった。車を止めて武見がエンジンを切った。
「どうした?」
 車から降りようとせず座ったままのわたしに武見がドアを開けかけて尋ねた。
「わたし、部屋を借ります。仕事も見つけて、……悪いけど武見さんの会社では働けない」
「気にしているのか。兄貴が言ったこと」
 彼女なのかって言われたことを気にしているんじゃない。武見が中途半端に答えられなかったことがなんだか悲しく思えた。この人に一方的に良くしてもらっているだけっていう事が。
「わたし、このままじゃなにもできない。良くしてもらうばかりで」
「俺は待つって言っただろ」
「そんなの変です」
 武見の唇がぐっと引き締められた。なにかを言いたいのを我慢しているような唇だった。
「待たれるだけが辛いなんてわたしから言えない。ここから出ていきたくない、ここに居たいって
思っているのに……」
 不意に武見の長い腕が伸ばされたかと思うと肩を抱かれた。武見のほうを向かされて唇がぶつかった。ぐいぐいと貪るように武見の唇が押し付けられた。まるでずっと我慢していたかのような、強引なキスだった。
「どっちなんだ」
 キスの合間に武見が叫ぶように言う。
「ここに居たいのか。居たくないのか。言ってくれなきゃわからない」
 息ができないほどに唇が押し付けられて答えることなんかできない。武見の長い体が覆いかぶさるように乗り出して身動きさえできない。でも夢中でキスに応えていた。物分かり良く待つだけじゃなくて、武見がこうしてくれるのを心のどこかで待っていた。
「答えてくれよ……」
 ようやく唇を離して、武見がうめくように言った。でも息が弾んで、すぐにはわたしも答えられな
かった。
「ここに居たい」
 切羽詰まったような武見の目が驚きに見開かれた。わたしの言ったことの意味がわかるとまた武見の唇が近づいてきた。
「でも、このまま車でって意味じゃないよ」

 ここって笑うところだと思うんだけど。
 武見は大真面目な顔で車から降りるとわたしの側のドアを開けた。ひょいと本気で抱き上げられそうな気がして急いで車から降りると、武見は黙ってわたしの手をつかんでエレベーターへ引っ
張って行った。
 武見の部屋のドアを閉めた瞬間にまた抱きしめられた。武見が顔を下げて屈み込むようにキスを繰り返す。
「ほんとうにいいんだな」
 それでもまだ武見は聞いてきた。馬鹿なことばかりやってきたわたしに。
「好き」
 それは素顔もみっともないことも武見にはさんざんに晒してきたわたしが言った言葉だった。こんなことが言えるなんて自分でも思わなかった。
「好き。だからわたしを本物の恋人にして」

 武見の指の長い手がどこかぎごちなく上着の裾を探っている。遠慮がちに入ってきた手が素肌に触れてなでるように動く。その手が上に移動して胸のふくらみを少しだけかすめた。彼の手のへ入ってそっと腹をなでた。柔らかくなでる彼の手に吐息が漏れそうになって体が動いてしまったけど、武見の手はわたしから離れない。
「……わざと?」
 そう思ってしまうほど武見の手はゆるゆると動く。わたしの上にある武見の顔はやけに生真面目な、以前のわたしには不機嫌にしか見えなかった表情だった。
「こっちだって緊張するんだ。今までずうっとこうしたくてもできなくて我慢していたんだから」
 やっぱり我慢していたんだ……。
 なんだか武見の表情が限界過ぎて、悪いけれど少しだけ笑ってしまった。
「そんな顔して笑ったりして。どうなっても知らないからな」
「うん」
 わたしがそう言うと武見はちょっと驚いたようだった。お互いがまるで初めてみたいにほんの少しだけためらっている。好きと言う代わりにわたしから顔を近づけてキスをした。武見の唇に触れて、小さく舌を差し出せばすぐに武見の舌がわたしの唇を開いた。
「好きだ」
 キスをしながら武見が言う。唇がだんだんと胸のほうへ降りていってわたしの胸を吸いながら武見が何度も繰り返す。好きだ、好きだ、好きだ……。





 背の高い人は手のひらも大きいって初めて知った。
 横幅は太くない武見でも手のひらは大きくて、わたしの胸をすっぽりと覆う。胸どころかお尻の丸みだって彼の手の中に納まってしまいそうだ。
 その大きな手がわたしを開いていく。両足も簡単に広げられてしまう。そして熱い彼のものに押し開かれても、完全に武見の体の下に敷かれてわたしは身動きもできない。でもそのかわりに彼が動いてくれる。
 武見が動くたびにわたしとの接点が熱くぶつかる。わたしは動けないのにどんどん高まって声が出そうになるのにそれもできない。体が揺れるたびにはあはあと息を吐くわたしを、顔を下げた武見が間近で見ている。
「あ、あ……」
 どんどん武見の動きが速くなる。突き上げるような衝撃に体を揺らされてなにも考えられない。お互いの快感に任せるだけ。びくんと反るわたしの体を引き付けながら武見の体も押し付けられて動きを止めていた。

 こんなにもあっけなく終わってしまうなんて。
 武見の激しさに揺さぶられて、あっというまのことだった。
「ごめん。もうちょっと余裕があるつもりだったんだけど」
 武見の腕の中でぐったりと伸びてしまったわたしに武見が謝った。
「いまさら謝られても遅いよ……」
 そう言うと武見は本当に困ったような顔をした。全然似合わない、彼らしくない顔だった。
「でも、好き」
 そう言うと武見の顔がふっと明るくなった。もう武見も渋い顔をしていない。
「ありがとう」
 見つけてくれて、ありがとう。
 今までお礼も言ったことなかったけど、今なら言える。雪の降りだした夜、公園で転がっていたわたしを見つけてくれた。
 武見から返された答えは今度は余裕のあるキスだった。

終わり

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