真冬のレプリカ 10

真冬のレプリカ

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10


 義父の言葉はわたしを凍りつかせた。
「お母さん……?」
 そうだと肯定するように義父が小さくうなずいた。わたしを見る義父の目の奥にある影がわたしの本能を揺さぶる。
 お母さんはなにを。お母さんはなにを言い残して――。
 言葉にならず心の中で繰り返す問いに、不意に自分の中で答えが浮き上がってきた。もしかしたら。でも聞きたくない。聞きたくないけど、お母さんはなんて言ったの……。
「佳澄がどうにもならなくなってしまったら助けてやってほしい。それができるのは私だけだからって、佳代は言ったんだ。亡くなる1週間前のことだよ」
 義父は静かに話していたが、わたしはまばたきひとつできない。
「佳澄が大学を卒業する頃だったか、佳澄はつきあう人が出来ても長続きしないようだってお母さんが言ったことがある。私はその時は佳澄はまだ若いんだし、恋愛にしてもほかのことにしても、いろいろなことを知りたい時期なんじゃないのかなと言ったんだが」

 ……そうね。佳澄はまだ若いから。だけどあの子、子どもの頃から強気なところがあってわたしにもあまり甘えようとしない。自分の考えを持っているのはいいことだけど、譲ることができなのは
やっぱり若いからだと思うけど。それに佳澄は以前のようには話しをしてくれなくなったわ……。

「そうやって大人になっていくんじゃないのかな。失敗することもあるかもしれないけれど、佳澄なら取り返しがつかないようなことにはならないと思う、と私は言ったんだが、お母さんはどこか悲しそうだった。佳澄は誰か好きな人がいるんじゃないかってお母さんは言っていたが、それでなぜそんな悲しい顔をするのか、そのときの私にはわからなかった」
 義父が言葉を切ったが、なにも言えず立っていた。自分でも不思議なほど動けない。
「佳澄」
 義父が静かに低い声でわたしの名を呼んだ。
「佳澄の視線は佳代とは全然違う。まっすぐにわたしを見ていて、まるで睨んでいるようだった。最初、私はもしかしたら佳澄に嫌われているのかと思ったことがある。お母さんと結婚して、お母さんを佳澄だけのものではなくしてしまったのは私だから。佳澄は私の養子にはならないと言って園田の姓のままでいることを望んだしね」
 そう言われてもわたしは肯定も否定もできない。
「家の中で視線を感じて見るといつも佳澄がいた。そして佳代を見ると佳代はあの悲しそうな顔をしていた。佳澄には見えないようにしているその顔がとても悲しそうで……、それで私にもわかった」

「お母さんは知っていたって言うんですか……」
 義父の言葉が聞いていられなくて絞り出すようにやっとそう言った。
 お母さんがわたしの気持ちに気がついていたなんて。気がつかれないようにしていたつもりなのにお母さんは知っていたなんて。わたしが一方的に気持ちを募らせていたのをお母さんは知っていた……。


 母の左手の薬指にはめられた結婚指輪を見るたびに苦しかった。義父の指にはめられた同じ指輪を見るよりも何倍も苦しかった。母はもとからきれいなひとだったけれど、徳永と結婚してから見違えるようにきれいになった母がわたしにはどこか妬ましかった。
 義父に愛されている母を見ているのが辛くて、母が自分だったらと何度妄想したことか。
 わたしは、わたしたち三人をうわべだけの家族にしてしまいかねないようなことを妄想していた。

 わたしだけが。
 わたしだけが一方的に気持ちを募らせていた。それをお母さんは知っていた。自分だけが叶わぬ恋に落ち込んでいると思い詰めて、まわりのことなど見えていなかった。
 そしてお母さんがいなくなってしまったことですべてが崩れてしまった。わたしが暴走してなにもかも崩してしまった。

 自分の体に腕をまわしてしまったが、体が震え出して止まらない。どんどん体が冷えていくようだ。
「佳澄」
 もう一度呼ばれた声にもわたしは顔を上げられなかった。
「どうすれば良かったのか私にもわからない。けれども佳澄がいなくなって、私のしたことが佳澄を突き離すだけのことだったと悟った。佳澄が責めるのは私ではなくて佳澄自身だとわかっていたのに」
 義父の手にはもうブリーフケースが握られていた。
「私は佳澄の体は満足させられても心までは満足させることはできない。佳澄が私の心まで満足させられないようにね。私はもう死ぬまで満たされないだろう。佳代が戻ってくることはない」
 義父が部屋のドアに向かっていたが、思い直したように武見の前で止まった。武見もまた硬直したようになにも言わず硬い表情で立っていた。
「アメリカへ戻るよ。あの家には帰らない。私にも、もう戻る家はないのだよ」
 わたしにではなく、義父は武見にそう言った。武見の返事を待つことなく義父はドアを開けて、そして出て行った。
 
 部屋のドアが閉められてもわたしは突っ立ったままだった。
 義父は、徳永信弥はわたしを突き離していった。それが仕方のないこと、それがわたしにとって一番いいことだとわかっていた。
 でも悲しい。
 この恋は終わっていたのに、でも悲しくて、悲しくて、涙さえも出ない。義父の前から姿を消すはずだったのはわたしなのに、義父はあっさりとそれを引き受けて出て行ってしまった。なんて不器用なのか、わたしは。

 崩れてしまったものはもう戻らない。独りよがりで恋をして、その恋をあきらめる勇気がなかったわたしが崩してしまったものはわたし自身だけじゃない。義父もまた。

「わたしにだって行くところはない……」
 義父のいなくなってしまった虚空を見つめて、やっと声が出た。もう母も義父もいない。誰も。
「俺のところに来ればいいじゃないか」
 後ろから聞こえた声にちょっと笑いそうになった。武見の顔は不機嫌そうなのにお人好しにそう言うなんて、笑いそうになるほど悲しい。
「わたしのこと好きになったってなんにもならないわよ」
「そんなこと俺が決める」
 腕に触れられて振り向くと武見は不機嫌にむっつりとわたしを見ていた。
「わたしにはなにもないのに……」
「変なもん、持っていられるよりなにもないほうがいい。もう帰ろう。それともこの部屋にいるか?」
 力なく首を振ったら武見の体が近づいてきた。
「一緒に帰ろう。俺に担がれて帰りたくないだろう?」

 真冬の夕暮れは早い。
 みるみるうちに暗くなっていく街のなかを走る車のなかでわたしはずっと外を見ていた。ついこのあいだまでは武見の部屋は他人の家だったのに、今はその家へ向かっている。家に着いて、武見がドアを開けて灯りのスイッチを押すのを黙って見ていた。寒い部屋が暖まっていくあいだもわたしはコートも脱がずにソファーに浅く座っていた。武見が手早く食事を用意してくれて、あたたかなご飯を食べているあいだもなにも話せなかった。片付けも武見がやってくれるのに任せて寝室へ入ると大きな島のようなベッドに服のまま横になった。
 ひとりのベッドは胸の中の硬く冷たい悲しさと同じように冷たく寒かった。寒くて、悲しくて、でも涙も出ない。しばらく転がっていたら静かに寝室のドアが開けられた。
 武見の大きな体が廊下の光を背に入って来た。ベッドがきしんで武見の体がわたしのとなりに横たわる。
「寒いから一緒に寝よう」
 髪に手が触れて一瞬体を硬くしたが、武見の大きくて温かな体がつけられると温かさにしがみつきたくなった。でもそれはできなくてうなずくと、さらに武見の体に包まれた。後ろから体を引き寄せられてそっと髪を撫でられて、背中へ武見の体温の温かさが沁みるように伝わってくる。
「仕事がないのなら俺の会社へ来いよ。ファームでは大勢の女の人が働いているんだ」
「わたしに農業しろっていうの……」
「それってすげー失礼な言いかただな。俺は農家の次男なんだぞ。もうちょっと言いかたをなんとかしてくれ」
 悪かったわね……。
 そう口に出しては言わないのに武見はわたしの考えていることがわかるらしく、話を続けた。
「でもそのほうがあんたらしいな。言いたいこと言って、俺のこと、わざと怒らせて。ほんとにあんたには腹が立った。こっちが心配しているのに関係ないって顔して」
「あなただってずうっと怒った顔していたじゃないの」
 思わずそう言ってしまったら武見が笑った。暗い部屋の中でもそれがわかった。
「あたりまえだ。好きな女が真冬の夜に公園に転がっていているのを見つけて怒らない男がいるか。それなのにあんたときたら言うこと、やること、投げやりであさってのほう向いていて。まったくなんて奴だと思ったよ」
 そう言うこの人は怒った顔で不機嫌そうで、でも、わたしの面倒みてくれた。頼まれたからそうしていたのだと思っていたけれど、それでも親切だった。甘いやさしさではなかったけれど、それがこの人のやさしさだった。それにわたしは今も甘えている。
「ごめんなさい……」
「謝るなんてあんたらしくないな。佳澄らしくない」
 もう武見は笑っていなかった。うしろから抱いている武見の腕に少し力が込められた。
「死のうとしていたんだろう?」

 あのときの公園と同じ、暗くてわたしにはなにもなくて。今も同じ、わたしはホームレスもどきで、でもここは冷たい地面の上じゃない。
「うん……」
 小さな声で応えると唇が震えた。涙がひとつ頬を伝っていく。
 それ以上なにも言えなかったが、武見はもういいよとでもいうようにわたしの頬を指で拭いて、また髪を撫でた。それでも涙の止まらないわたしは後ろにいる武見に抱かれながら何度もすすりあげた。
 武見という人はどこまでもやさしい人なんだ。見た目と違って。
 見た目と違ったのは多分わたしも同じ。本当の自分がどっちだったかなんて、もうどうでもいい。
 泣いたせいで体が中から温まっていく。そうして武見はなにもせず、ただわたしをいつまでも抱いていてくれた。


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