真冬のレプリカ 9

真冬のレプリカ

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「どうしても嫌だって言っても聞いてもらえないんでしょ」
 武見の体が離れて息が楽にできるようになったけれど、起き上れずにため息をつくようにそう
言ったら武見に両手を取られてぐいと引っ張り起こされた。
「逃げたって変わらない」
「月並み」
 ひと言、言い捨てた。だが、武見はわたしの手を持ったままだ。
 ほんとに月並みだ。徳永に会ってちゃんと話をして、そして気持ちにけじめをつけて前向きに
なれっていうのだろうか、この人は。
 涙腺が壊れてしまったかのようにまた涙が落ちる。泣いてどうなるものでもないのに。
 顔をそむけて涙を隠そうとしたら武見の片手が伸びてきて頬をなでられた。ひやりと自分の涙が冷たい。
「お母さんのことを考えたら会いたくないっていうあんたの気持ちはわかる。だけど」
 わたしは母に対して取り返しのつかないことをしてしまった。よりによってわたしが。
 今でも義父のことを思っただけで、顔を思い出しただけで苦しくなる。顔が涙でゆがむ。それなのにまだ武見はわたしの頬へ手を当てたままだ。
「どうして離してくれないのよ……」
「離したらあんたはもう戻ってこないだろう。でも、俺はあんたが好きだから」

 なにも言えなかった。頬から武見の手が離れたのに時間が止まったかのように動けなかった。
「わたしは……」
 立てた膝に顔をうずめてしまった。
義父ちちに会ったら自分がどうなるかわからない。わからないんだよ……」
 押し付けた膝に涙が浸み込む。こんなにみっともなく泣くなんて。
 そんなわたしを武見は立って黙って見ていたようだったが、やがて彼の声が聞こえた。
「そうなったら俺があんたを連れ帰るよ。担いででも連れて帰る」
 連れて帰るって……。
「言っとくが本気だよ」
 声だけ聞いていると武見の声は顔とは違って不機嫌でも怒っているようでもなかった。なんだかやさしいと言ってもいいくらいだった。やさしい声だった。
 しばらくして仕方なく顔を膝につけたまま息を吐いた。武見はもうスーツに着替えをしてきていた。顔を上げたわたしになぜかなにも言わない。あきらめて立ち上がるとわたしも着替えるために寝室へ行った。



 武見の運転する車で成田へ向かう間、武見はほとんどなにも話さなかった。空港近くのホテルで徳永と会うことになっていると説明してくれたが、それ以外は黙って運転していた。静かに運転する彼の沈黙は重苦しいものではなかったけれど、助手席に座るわたしはただ前を向いていた。話したくないというよりは話すことがなかった。今はなにを話してもこうして車に乗せられていればやがては着いてしまう。
 会うべきじゃない。
 会いたいかどうかじゃなくて、わたしは義父に会うべきではないのに。あの夜の後で、酔いから醒めたような後悔で翌朝わたしは家を飛び出してしまった。もう二度と徳永の顔は見られないと思ってなにも言わず家を出た。義父も、そして写真になってしまった母の顔も二度と見られない。
 そう思っていた。今もそう思っている。それなのに。
 わたしは歩いている。ホテルの廊下を歩きながら、義父のいる部屋に近づいていく。動悸で心臓が飛び出しそうだ。体が冷えて足が震えている。逃げ出したい。でも武見が脇を歩いている。彼の手がわたしの背を支えるようにされていたが、わたしが歩いているあいだは武見の手は触れようとはしなかった。やがて武見が一室のドアの前でわたしを振り返った。わたしはうなずくことも、なにを言うこともできなくて突っ立ったままだったが、やがて部屋のドアが中から静かに開けられた。



 義父はわたしを見ると驚いた顔をしていたが、ドアを開いて中へ入るように言った。応接セットのある広くて明るい室内へ足を踏み入れて、でも、わたしはそれ以上前へは進めない。徳永が近づいてきて、心配そうなその顔に思わず一歩、後ずさってしまったが、義父はわたしの前で立ち止った。
「どうしたんだ、こんなになって」
 義父の視線がわたしの様子を上から下へと見ているのがわかった。
 わたしは武見に見つけられたときに着ていたニットセーターにジーンズ、黒いコートだった。化粧もしていない。以前はゆるくカールさせていた髪も家を出てからは美容院にも行かず、武見の部屋ではなにもせずに過ごしていたからばさばさで、すっぴんの顔のままで来てしまっている。でもそんなことはどうでもよかった。義父の顔を見ただけでもう動けない。
 義父はネクタイを外した白いシャツに黒いスーツという、いかにも仕事先から帰って来たというような服だった。こういう姿をわたしは何度も見たことがある。手にはバッグやコートを持って出張から帰ってくるのを母が玄関で出迎え、コートを受け取る。笑顔で迎える母に義父は時折アメリカ人みたいに頬へキスしていた。離れたところでそれを見ているわたしに気がついた義父は笑ってわたしにもただいまと言った。そんな義父の少し白髪の混じった短く手入れされた髪と、引き締まった顔つきなのに穏やかな印象を与える目元は変わっていない。義父の顔はちっとも変っていなかった。
「佳澄」
 心配そうな義父の声。高校生だったわたしを母と結婚するまでは佳澄ちゃんと呼んでいたのに、籍は別でも家族になったのだからそう呼ぶよと言ったあのときのままに義父がわたしの名を呼ぶ。
 徳永は母と結婚するときにわたしも同じ籍に入ってほしいと言ったが、わたしは母の再婚には賛成だけど、事故で亡くなってしまった父のためにも自分は園田の姓でいたいと言い張って養子になることを拒んだ。法律上でも親子という関係になってしまうことをわたしは心のどこかで拒んでいた。養子縁組をしないことがわたしが母の再婚に出したたったひとつの条件だったが、徳永と母は何度も話しあった末に最終的にはそれを認めてくれた。
 親子になってしまったら。そんな気持ちがその頃からわたしにはあったのだ。でも法律も形式もあの夜のわたしを止めるのになんの役にも立たなかった。

「なにも言わずにいなくなって、会社も辞めてしまうし、心配するじゃないか。心配したんだ」
 自分でも気がつかないうちに目を閉じて首を振っていた。なにもいわないわたしに義父が話しかけてくる。それでも謝ることも、言い訳することもできない。
 ごめんなさいと言わなきゃならないのに言うことができない。こんなにも後悔しているのに、あの夜のことはわたしにとって真実だった。長い間抱き続けてきた気持ちがついに決壊してしまった夜だった。
「とにかく一度、家に戻りなさい。私のアメリカでの仕事が終わったら……」
 激しくかぶりを振った。家に戻ってふたりきりになるなんて、今のわたしにはできない。これ以上狂わせないで。
「徳永さん」
 見かねたような武見の声がした。
 わたしのうしろでずっと話しを聞いていた武見に徳永がやっと気がついたように目を向けた。
「いや、済まなかった。武見さんには世話をかけてしまったね。佳澄を探し出してくれてありがとう」
「いいえ、いいです。でも佳澄さんは家に戻るのは嫌のようですが」
 徳永の表情が少し変わったようだった。きびいしいような顔になって武見を見ている。なにかを問いたいような顔だった。
「だからといって君のところにいるわけにもいくまい」
「俺はかまいません。むしろそうしてくれたほうがいいと思っています。佳澄さんがそうしたいというのなら」
 義父の目の色が変わったようだった。驚いている。
「それは……、いや、それは考えなかった」
 迷うように義父は自分の額を触ったがすぐに手を降ろした。
「佳澄はどうなんだ」
 わたしに向き直ってそう問うた義父は冷静だった。静かな目でわたしを見ていた。
 でも戻れない。もう戻らないと決めてあの家を出た。
「戻れません……」
 やっとそれだけ言うことができた。
 あの家には。そして親子だったときにはもう戻れない。でも、もし、義父が親子でないわたしを望んでくれるのなら。母を裏切ったわたしを許してくれるのなら。もし……。
「そうだね。私も戻れない」
 目尻にしわを寄せてふっと義父が笑った。それはわたしを許してくれるの?
「アメリカに住むことにした。仕事で日本へ来ることがあってももうあの家には帰らない。佳代の言い残していたこととはいえ、佳澄を引き離せなかったのは私の弱さもあった。私の過ちだ」

 佳代の……。
 お母さんの言い残していたこと……?


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