真冬のレプリカ 8

真冬のレプリカ

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 ……ここにいたら。

 ぱっとドアへ向かって出ようとしたわたしを武見はぶつかるようにして止めた。伸ばした手はドアには届かず武見に引き戻された。手を振り回し逃れようとしたけれど手首が武見につかまれていた。
「離して……、離してよ!」
「どこに行こうっていうんだ」
 なんとか武見の手を振りほどこうとしても離れない。男の手だ。
「どこだっていいでしょ!」
 武見の手がどうしてもはずれない。両方の手首が武見につかまれたまま壊れた操り人形のようにがくがく動くだけ。
「あなたには関係ない。どうしようとわたしの勝手だわ。いいからこの手を離してよ!」
「関係なくない」
「なっ……」
 髪が顔にかかり、息が切れてくる。闇雲に振り払おうとしても武見は離してくれない。
「関係なくない。あんたを捜して欲しいって徳永さんに頼まれたんだから」
 ああ、うるさい。なんだってこの人は。
「そんなに義父ちちの依頼に従うの。出資してもらっているから? 真っ当そうなことを言って、どうしてもわたしを義父に引き渡したいのね。自分の利益のことしか考えてないんでしょ」
 さすがに武見の顔が怒ったように歪められた。
「図星? 図星でしょ。でもあなたの言うなりになんてならない。手を離して!」
「離さない!」
 髪を振り乱してわめきたてるわたしに武見は怒鳴り返した。
 失礼なことをがなり立てて、侮辱するようなことを言って。それなのにこの人はどうしてわたしを突き離さないの。こんなにもわたしに怒っているのに。
 もがき暴れるわたしの足がなにかにぶつかる。体を持ち上げられて浮いた足が武見を蹴っている。なんだってこの人はこんなに背が高いのよ!
「きゃあ!」
 どさっとソファーへ倒されて悲鳴を上げてしまったが、武見の体が押さえつけるようにかぶさってきた。
「そんなに徳永さんに会うのが嫌なのか」
 間近で聞こえる武見の声は疑念を抱き始めたような怪訝そうな声だった。
「そうよ。そう言ってるでしょ!」
 押さえられながら、なおもわたしは暴れた。もう感情をコントロールできない。
「会いたくない! 義父にもあなたにも会いたくない! 世界中の誰にも会いたくない!」
 みんな、みんな、わたしを忘れて。
 わたしは忘れることができなくても、みんながわたしを忘れてくれればいい。わたしを知るすべての人がわたしを忘れて。
  
 いつのまにか涙が流れて唇がわなないた。泣きたくないのに顔がぐちゃぐちゃに濡れて、もがいても、もがいても体重をかけて押さえつけている武見の体はびくともしない。両腕も胴も押さえられて涙だけが落ちていく。
「離してよ……」
「離さない」
 動けないまますすり泣くわたしを武見はじっと見ていた。
「そうまでして徳永さんと会いたくないのか。いったいあんたと徳永さんになにがあるんだ」
 無理やり平静にしたような声で武見は言った。
「徳永さんがわざわざアメリカから帰って来ることだって尋常じゃない。あんたを心配しているからだろうけど、でもあんたがそこまで嫌がるのはなぜだ。どうして徳永さんに会いたくないんだ?」
 追及する武見は明らかに疑念を抱いている。武見が聞こうとしていることが本能的にわかって
目を見開いて武見を見てしまった。
「なぜだ」
 武見の視線がくい込むようだ。わたしはなにも言えずにいるのに武見は迫るように切り込んできた。
「まさかとは思うけど……徳永さんになにかされたのか」
 なにか、というのは男と女としてという意味で武見が言っているとわかったけれど、でも否定も肯定もしないわたしに武見は険しい目を向けたままだった。今まで武見が徳永を尊敬しているらしいことが言葉の端々に感じられたのに、今はすごく怒っているのが感じられる。
 でも、徳永がそんな人ではないことはわたしが良くわかっていた。まだ高校生だった頃から、母の次に身近に暮らしていたのだから。あの人を見ながらわたしは大人になった。あの人に、徳永に恥じさせることのない娘になりたくて勉強もがんばった。就職も義父には頼らなかった。母のために、義父のために、自分の相応以上にがんばって良い子になってきていた。
「違うよ……、義父はそんな人じゃない。なにかしたのは……義父じゃなくて……わたしのほう」
 驚いたようにはっと武見の息が詰められた。その音がわたしの感情に突き刺さる。
「ずっと好きだった。あの人が好きだった。でも、それだけでもよかった。一生、思うだけでいようって決めていた。母が生きている限り、わたしはそうすることができたのに……」
 母は死んでしまった。
「義理の娘だからなんていう足枷はわたしは自分で越えてしまった。わたしのほうから越えてしまったんだよ」





 母の死後、義父は仕事が忙しいからと遅くに帰ってくることが多かったが、でも休日などの様子は普段と変わらなかった。でもある日、昼間は変わりがなくても義父が夜遅くなると自室で母のはめていた結婚指輪を前にしてじっと座っているのだということに気がついてしまった。お酒を飲んでいることもあった。普段は決してそんな飲み方はしないのに、黙って強い酒を水のように流し込んでいた。その姿を見てしまった。わたしには以前と変わらずあれこれと労わってくれるのに、義父が決してわたしには見せなかった顔だった。そんな義父と同じ家にふたりきりでいたのだ。母のいなくなってしまった広い大きな家の中にふたりきりで。

 母が亡くなってからすぐに義父はお手伝いさんを雇うと言ってくれたが、わたしは母の入院中から母に代わって家事をしていたし、会社勤めをしていても大丈夫だからと家事を続けていた。まだ仕事から戻らない義父の寝室に掃除のために入ったこともあった。ごみ箱の中身を捨てようとしてふと目に付いたもの。それは丸めたティッシュだったが、母との寝室であったベッドのある部屋でそれが連想させるものがわたしを立ち竦ませた。
 義父は母を愛している。そんなこと、わかりきっている。まだ母が亡くなって二カ月も経ってはいないときだった。でもわたしはまだ母の匂いが残っている義父の寝室で自分がここに横たわることを夢想している。
 こんなこと考えちゃいけない。わたしたちは血が繋がらなくても義理の親子だ。どんなにあの人が好きでも徳永は義父なんだ……。
 心の中で言い訳を繰り返せば繰り返すほど、わたしの心がどうしようもないほどに追いつめられていくようだった。
 今までどんなに良い娘になりたくても義父のいないところではなりきれなかった。レプリカのように精巧に偽っても、わたしは完全には良い娘にはなりきれなかった。大学生になってから何人かの人とつきあって抱かれもした。でも、この人ならとつきあった人なのにどこか熱が上がらない。上がるわけがない。いつもいつでもわたしは義父を見ていた。同じ家に住むあの人を。義父が母と話すときの話し声や笑顔。そしてときには母の手を握るなにげないしぐさ。そういうものを見ながらわたしは暮らしていたんだ……。

 あの夜、義父が酒を飲んでいたかどうかはわからない。わたしが義父の部屋のドアをノックしたとき、義父はいつもの義父だった。
「どうしたの。こんな時間に」
 やさしく問う義父にわたしはやめようと思った。自分の部屋へ戻ろうと思った。でも。
 服を脱ぎ捨てて裸になって見上げたわたしを義父は哀しいような目で見ていた。けれどもわたしが伸ばした手に触れた彼の手のあたたかな生気を感じて、わたしの中にわずかながら残っていたなにかが完全に消えた。そして彼の手を自分の胸へ導き、吐息を漏らした。体を押し付けて抱いて欲しいと口走ったわたしの体に義父の腕が回されたとき、義父の、徳永信弥の目に哀しい色が
あったのか、なかったのか、もうわたしにはわからなかった。
 彼の唇が強く押しあてられ、そして堰を切ったように這いまわるのを体中の肌が待っていた。どんなにかこの時を夢想したことか。胸の頂点を強く吸われ、痛いような快感に体の中がもろく崩れていった。崩れ落ちたものから沁み出て滴る液がわたしを溶かしていく。理性も自分への言い訳も
すべて溶けた。押し込まれる彼のものに一気に体が絞り上げられるようだった。快感に痺れながらもさらに自分から動いて彼を煽った。彼がわたしの上で表情を歪め、耐えるように息を詰めていた。父親でもなんでもない、ひとりの男の顔だった。それがなによりも快感だった……。





「わたしは昨夜みたいなことをする女なんだよ。あなただってわたしがどんな女かわかったでしょう。もうほっといて」
 またもがき始めたわたしの腕を握る武見の手に力がこもった。痛い。
「だめだ。ほっとけない」
「な……」
 武見の顔が近づいて唇が触れた。言いかけたわたしの声を吸いこんで言えなくさせる。舌が絡んで息をもつれさせる。意外と言っていいほどの強引で巧みなキスに抗えない。応じないわたしにそれでもあごを上げさせて、やっと武見の唇が離れた。
「そういうことならあんたは徳永さんに会わなきゃならない。そうでないと俺の気持ちのほうが収まりがつかない」
 え……、この人、なにを言って……。
 茫然と見返しているわたしの目の前で武見はちらっと笑顔を浮かべた。苦笑いのような、半分
怒っているような笑顔だった。その意味がわからない。
「悪いけど俺は途中で投げ出すことが嫌いなんだ。さあ、立って着替えて」


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