副社長とわたし 32

副社長とわたし

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32


 その日も用事があって三光製薬の総務部へ行くと、備品の担当者が島本さんから別の女性に変わっていた。わたしが目で探すと島本さんはずっと離れたところに席が移っていて、では島本さんは部内で担当が変わったのだろうか。少しでも島本さんの希望が叶えられたのだろうか。わたしは思い切って島本さんを呼んでもらった。
「島本さん、担当変わられたんですね」
「ええ、まあ、なんとか。トーセイ飼料さんにはお世話になりました」
 説明のような振りをして島本さんは小さな声で言った。
「総務部長が変わって、ここにも少しずつ変化がでてきたみたい」
「そうなんですか」

「見られているわよ」
 不意に近くを通った女性社員に小さな声で言われた。近くのデスクから立ち上がったその女性はむこうに仕事があるという感じでわたしたちが話していたカウンターのそばを通り過ぎて
行った。
「…っあ、じゃあ、トーセイ飼料さん、これからもよろしくお願いします」
 島本さんがちょっとあわてた様子でそう言った。わたしもそれに合わせたが、奥の課長席から総務課長がこちらを見ていた。

 なんだろう。

 それから最上階のフロアへ戻ると秘書室の前に孝一郎さんがいるのが見えた。わたしに気がついて近寄ってきた。
「来月から社長がこのビルへ移ってくることになったんだ。これから準備もあるけれど、瑞穂さんもよろしく頼むね」
 孝一郎さんのお父さんが。
「社長と一緒に秘書や他の人たちもこちらへ来るけれど、それ以外のことは基本的には変わらないから。なにかあったら言ってね」
 秘書っていうと、あの新庄さんも?
 そう思ったけれど、孝一郎さんは新庄さんはあくまでも秘書のひとりと思っているらしかったから余計なことは考えないようにしよう。

 わたしの顔を見ていた孝一郎さんがにこっとした。
 このフロアには今は秘書の稲葉さんと浅川さん、わたしたちトーセイ飼料しかいないから話をしていても不安はないけれど、でも孝一郎さんは声を落としてわたしにしか聞き取れないように言った。
「今日は一緒に帰れる?」

 最近は一緒に帰れる時はいつも孝一郎さんの車で帰っている。孝一郎さんが社外へ出かけてしまったり、お互いの仕事の都合で会えないこともあったけれど、今日のように一緒に帰れる時もある。わたしはそれがうれしかった。

 直通エレベーターで降りて地下駐車場の孝一郎さんの車に乗る。乗ってしまえば、会社を出てしまえば、わたしたちは普通の恋人同士だ。その時だけはそう思うことができる。そして彼の部屋へ入ってしまえばもうどんなことも気にならない。部屋へ入ると同時に笑顔になる孝一郎さんに今はこのマンションの部屋を買った理由がわたしにも素直に受け取れた。やっぱり彼は会社でも世間でも三光製薬の副社長なのだから。

「瑞穂がそうしたいのなら婚約したことを社内に公表してもいいけれど」
 孝一郎さんからそう言われたこともある。
「えっと、でも、それはそれで大変なことになってしまうような気がしますけど」
「そうだね。僕のほうはどちらでもかまわないけれど、瑞穂がそうしたくないのなら」
 この孝一郎さんのことだもの。公表なんてされたらわたしはその日からビルの中を歩けないよ。それにプライベートなことだから公表とかじゃなくて仕事で近い人たちだけに知っていてもらえればいいと思うんだけどな。

 わたしたちは結婚式のことも話し合っていたけれど、孝一郎さんは仕事関係、つまり三光製薬の関係の人たちへは結婚披露はするにしても式や披露宴とは別にすればいいと言う。
「会社や関係先の人たちへの披露は対外的なことだ。どうせそっちは会社のためのものだから、式と披露宴は身内や親しい人たちに集まってもらってやればいいと思うよ」
「あの、孝一郎さんのご両親はそれでいいの?」
 一番気にかかるのはそこ。
「いいって言っているよ。あの人たちが結婚したときもそうしたそうだから」
 そうなの? なんだか意外。あのお父さんとお母さんならホテルの大広間のようなところで会社関係も含めた華々しい豪華な披露宴をやりそうな気がするけど。
 でも、会社関係を別にするってことは、そっちはいったいどんなふうになるのだろうか。ものすごいことになりはしないだろうか。うちの両親、大丈夫だろうか。

 とはいえ、どんな結婚式にするにしても決めることがきっと山ほどあるに違いない。あー、わたし、東京の結婚式ってまるで知識ない。
 それなのにふたりでいると会話はすぐにキスになってしまう。リビングで、ソファーで、彼はいつもやさしくわたしを抱き寄せるからちっとも話が進まない。
「こら、孝一郎」
 わたしがわざとそう言うと彼は笑う。
「だって無理だ。そばにいるのに」
 抱かずにはいられない、っていう意味だろうか。
 結婚するまではきちんとけじめをつけていたいと思うけれど、わたしが彼のマンションへ泊まることも多くなってしまった。でも、彼はわたしの都合の悪い時などはちゃんとわたしをアパートまで送ってくれた。あたりまえにそういうことをしてくれる。そんな孝一郎さんのやさしさがすごく幸せだった。


 その日は金田所長や三上さんも出張へ出かけていた。しばらく出張のなかった孝一郎さんだったけど、今日からお父さんと一緒に関西方面の支社へ出張と視察だった。でも明日の夜には帰ってくる。そんないつもと同じような日だったけれど、昼休みになってガラスの壁のむこうに誰かいた。あれは島本さん?
「来ちゃった。お邪魔してもいい?」
「どうぞ、どうぞ。今日はわたししかいませんから」
 わたしが招き入れると島本さんは打ち合わせ用のテーブルの椅子に座って営業所の中を珍しそうに見回していた。
「秘書の浅川さんに聞いたら、山本さんいつも昼休みもここにいるって言ってたから。帰りも見かけないけど、残業多いの?」
「いいえ、それほどでもないですけど、いろいろあって」
 この頃、帰りはほとんど直通エレベーターだったから。でもそれは内緒。 
「そういえば島本さんの新しい担当ってなんですか」
「福利厚生関係の事務。そのほかに残業時間の軽減とか、各種休暇の取得促進を行うチームにも入ったの。これは総務だけじゃなくていろいろな部署にまたがったチームなんだよ」
「わー、すごい。よかったですねえ」
 わたしがそう言うと島本さんがすまなそうな顔をして笑った。
「副社長が検討してくれたおかげです。副社長にはがっかりだとか、わたしも言っちゃったけれど、今はそう思ってない。副社長は副社長でいろいろ考えてやっているのよね。わたしたちって副社長のような人ならあざやかにすべての問題をいっぺんに解決してくれるって、つい思ってしまうけど、そんなこと難しいよね。 でもこの前、副社長室に呼ばれた時に副社長が約束してくれたの。必ず総務をなんとかするって。だから協力して下さいって」
 孝一郎さんが。
「早くそうなるといいですね」
「うん。だからわたしも考え方を変えて働いてみることにしたんだ。総務の女性たちはあとはあの課長をどうにかして欲しいってみんな思っている。でも総務の男性は課長の意に添う人たちばかりだから、そこらへんがね」


 翌日、昼休みに金田さんが会社の用で銀行へ出かけてしまった後だった。営業所のドアをわたしが閉めようとしたら外に誰かいた。また島本さんかな? と思ったけれど、それは男性だった。
「ふーん、副社長室の向かいね。なるほどね」
 総務課長が営業所のドアの前に立っている。ズボンのポケットへ両手を突っ込んで。

「あの、なにかご用でしょうか」
「いや、別に。山本さんだっけ? あんた」
「そうですが」
「どんな人かと思ってねえ」
 そう言ってじろじろとわたしを見ている。

「あんたたちトーセイ飼料が来てから、なんだか副社長が総務へ突っかかってくる。年末の荷物の時もそうだ。魚なんてものを社内へ持ち込んでもらっちゃ困るんだ」
「申し訳ありません」
 わたしはあの鯛(タイ)のことがまずかったかと思って謝った。課長はそれを言いに来たのかと思って。
「なのに、わざわざ副社長があんたと一緒に来たりする」
「それは、あの時は」
「あんたが来てから総務はすっかり目の敵だ。なんでかなあ」
 え……?
「島本のことを副社長に言ったのはあんただろう」

 総務課長はわたしを見下ろすようにそのまま続けた。
「変だと思った。島本がなんと言ったのか知らないけど、やってくれるね。おとなしそうに見えて」
「わたし、そんなことしていません」
 総務課長は怒るというよりは、なぜか薄ら笑いをしているようだった。課長の目はわたしを好奇の目で見ているような……。

「とぼけたってあんたらのこと、こっちは知っているんだ。直通エレベーターなら気がつかれないと思った? 甘いなあ。以前は社用車で送り迎えさせていた副社長が自分の車での通勤に変えたでしょう? あいにくと駐車場の使用者は総務でも把握しているのでね」

「なんて言って口説かれたの? あの顔で迫られたらそりゃ落ちるよね。さすが親子二代で手が早い」
 親子二代って……。
「なんてことを」
「じゃあ、君のほうからお持ち帰りして欲しいって頼んだのかな? あの副社長ならわかるよ。総務の女たちもあの副社長が来ると目の色が変わる。仕事も満足にできないくせにそういうことだけはやる。どの女も」

 総務課長は戻るような素振りで横眼で見るようにして言った。
「あんたもうちの女子社員を出し抜けていい気分だろうけど、あの副社長も女子社員を味方につけておくことくらいしかできないんだろう。プライベートというのなら、どうぞご自由に。あんたもせいぜいあの副社長を満足させてやってよ。総務部長は飛ばせても私は飛ばせられないか
らってこっちに不満の矛先を向けられても困るから」


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