副社長とわたし 24

副社長とわたし

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24


 もう仕事のミスなんてしたくない。今日も金田所長と三上さんは引き続き出張だ。ひとりだからと気を許してミスをしてしまえば取り返しのつかないことになりそうだった。
 その日、総務に行く用事がなくてよかったと思った。たとえ用があっても行くことができなかったかもしれない。小さな声でこっそりと、あるいは更衣室などで交わされる女性社員たちの会話が聞こえてくるような気がして営業所から出られなかった。

 なんだか失望しちゃって。
 みんなだってそう。なーんだって言っている。
 副社長の答えってこれなのかって。期待持たせておいて。
 …………



 総務には行かなかったが、わたしはきっちりと仕事を終えて会社を出た。常盤さんに食事に誘われていたから。

「明日は祝日だからね。ゆっくりできると思って」
 今回も落ちついた和食のお店だった。常盤さんはどちらかといえばレストランのようなところよりもこういったお店のほうが好きなようだった。それともわたしのためにあまり肩肘張らないところを選んでくれているのかもしれない。

 街はすでにきらめく光でいっぱい。お店のウィンドウや街のあちこちに飾り付けられたクリスマスツリーやリースも光っている。

 楽しいはずのクリスマスなのに。
 好きな人と一緒に過ごせるクリスマスが待っているはずなのに。

 わたしはいつのまにかぼうっとしていたらしい。少し心配そうに尋ねられた。
「なんだか元気がないね。疲れているのかな?」
 孝一郎さんわたしを見ている。どうしたの? と尋ねているような表情にはっとした。

 ……わたしったら。
 ここは会社じゃない。ふたりでいるのに不安な顔は見せたくない。そう思っていたのに。

「そんなことないです。大丈夫です」
「そう? 瑞穂が元気がないと僕も心配だ」

 すごく優しい言葉。思いやりのある言葉。
 この人はこういうことをさらりと言う。ただでさえ普通に礼儀正しくしているだけでも女性を舞い上がらせてしまうようなところがあるのに。その顔で、その容姿で、そして副社長というポジションで。
 ……だからきっとみんな期待してしまうんだ。雲の上の人、まるでそんなように。
 でも。


「……そうだ、クリスマスプレゼントは何がいいですか。孝一郎さんは素敵だから身につけるものだとすごく悩みます」
「プレゼント? いいよ、この前誕生日のプレゼントをもらったばかりだから、今度は僕から瑞穂にプレゼントをしたいな」
「え、わたしにですか」
「ほかに誰にあげるっていうの。瑞穂は時々信じられないことを言うね」
 孝一郎さんが笑っている。会社帰りでスーツのままだったけれど、彼の表情は三光製薬の副社長ではない。
「だって、そんなこと言われると……わたし、すごく甘えているみたいで」
「瑞穂にもっと甘えてもらえる自信はあるんだけれどな。いつもどうしたら瑞穂に喜んでもらえるか、そればかり考えているんだ。仕事が手に付かない」
 まるで甘い誘惑のような、いや、誘惑は言葉ではなく、孝一郎さん自身だ。彼の顔を近くで見て、そう言われて。でも、そんな彼を見ているのが今は苦しい。

「そんなこと言うと誤解されますよ……」
「誤解? 僕は瑞穂に何か誤解されるようなことをしたかなあ。瑞穂に誤解されるようなことはしていないよ」
 そういう意味で言ったんじゃないのに。
「本当は仕事だって孝一郎さんはちゃんとやっているのに、それなのに気まぐれだとか自分で言ったりして」
「ああ、そのこと。僕は社長の息子だからね。そういうことを言われているのも事実だよ」
 知っていたんだ……。
「僕は副社長だけど、瑞穂に会うまでは会社を継いでいくことに本気になっていなかった。どこかで醒めていた。だからまわりにそういう目で見られても仕方がなかったんだ」
「でも……」
 わたしはうつむいてしまった。もうそれ以上聞いていられなかった。

「だからって、そういうこと言って。だから、だから」
 誤解されるのに。
「瑞穂?」
 孝一郎さんの顔を見られないけれど、きっと驚いた顔をしている。わけがわからないって、きっとそういう顔をしている。

 でも、悔しくて。
 どうしてあんなこと言われなきゃならないんだろう。


「やっぱりなんだか元気がないね。今日は送っていこう」
 孝一郎さんが立ち上がった。お店を出て彼の車に乗ってもわたしは何も言えなかった。孝一郎さんが車へ乗って、ドアが閉じられたときだった。
「瑞穂、こっちをむいて」
 やさしく言われて手が頬にかかり、わたしの顔を上げさせた。孝一郎さんはわたしの頬に手を当てたままわたしを見ている。暗い車の中で見る彼の顔はやさしくて、でも心配そうだった。
「今日の瑞穂はなんだか変だね」
「ごめんなさい……」
「どうして謝るの? 瑞穂にだって疲れている時や調子が悪い時だってあるだろう。だけど、なにか理由があるのなら言って」




 ……わたし。
 島本さんから話を聞いて動揺していた。
 仕事でミスをしてしまうほどだった。情けなかった。

 みんな勝手なことを言っている。
 副社長がなにかをしてくれるって期待していたけど、期待外れだったって。
 だけどなぜ常盤さんが悪者にされているの? 島本さんは配置転換の書類を止めたのは総務部長か課長だと思っていたんじゃないの? だからわたしへ副社長に聞いて欲しいと言ってきたんじゃないの? 島本さんだってそれがルール違反だってわかっていたと思う。それなのに、まるで島本さんの希望を握りつぶしたのは孝一郎さんのようになっているなんて。

 そうしているのは総務部長か課長なのだと言ってしまいたい。
 証拠なんかない。
 でも、悔しくて、悔しくて。

 わたしは関連会社の社員に過ぎないから。
 三光製薬のことに口出しすることはできない。
 
 そんな常識にすがっている。すがってやっと、自分を抑えている。

 だけど、好きな人を貶められて言われるのが悔しい。
 孝一郎さんは真剣に仕事をしているのに、なのにどうしてそんなふうな言われかたをされなきゃならないの? 孝一郎さんが副社長だからってどうしてそんな誤解されたことを言われなきゃならないの? 三光製薬ってそんな会社なの?
 わたしはそんな気持ちを孝一郎さんへぶちまけてしまいそうで必死で我慢していた。
 我慢していたのに……。



「瑞穂、今から僕の部屋へ来る?」
 部屋へ?
 でも今、彼の部屋へ行ったら、わたしは……。

 じっとわたしを見ていた孝一郎さんの体が不意に乗り出してきた。
 あたたかい唇がふれて、もうそれだけで泣きたくなる。
「……っ……、いや……」
 わたしに体を押されて彼の唇が離れる。キスまでも拒否してしまった。
「瑞穂」
 孝一郎さんは驚いたようにわたしを見ている。彼の瞳が問うている。
「いったい、どうしたの……」


 わたしのアパートの前で孝一郎さんは黙って車を止めた。わたしはもう孝一郎さんの顔が見られなかった。
「瑞穂」
「……はい」
「あさってはクリスマス・イブだから、瑞穂がいいと言ってくれたら指輪を贈りたいと思っていた」

 指輪。
 それは……。
 …………

 うつむいて自分の手を見ているわたしに孝一郎さんはちょっとため息をついたようだった。
「わかった。やはり瑞穂は疲れているようだね。この話はまたにしよう。明日はゆっくりお休み」

 孝一郎さん……。
 車を出す前になにか言いたげな顔をして、でも何も言わなかった。


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