副社長とわたし 17

副社長とわたし

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17


「おはよう」
「おはようございます」
 常盤副社長が出社してきて、迎えた秘書の稲葉さんと朝の挨拶を交わしている。
 そんないつもと変わらない朝。
「おはよう、瑞穂さん」
「おはようございます」
 副社長は給湯室の前にいたわたしにも声をかけてくれた。それもいつものこと。
 でも、いつもと少し違うのは……。

 三上さんが来て、わたしも三上さんの後に続いて営業所の部屋へ向かった。副社長は稲葉さんと一緒に副社長室の中へ入ったところ。わたしが営業所へ入りながらガラス越しに見ると副社長は、いや、常盤さんはわたしを見ながらほんの少し笑った。
 それからいつもと同じ端正な姿でデスクにつくと稲葉さんとなにか話している。

「おはよう。三上君、瑞穂ちゃん。ふたりとも金曜日はご苦労様」
「おはようございます」
 金田所長が部屋へ入ってきた。
「さてと、今日は月末分の報告を急ぎでまとめなきゃならないな。本社は何と言っていた?」
「はい、最後の注文分を入れた集計を昼までに上げてくれればいいそうです」
 またいつもの仕事が始まっていた。自分のデスクで仕事をしながら、時々ちらっと向かいの副社長室を見る。ガラス越しに見えるそこはブラインドも閉じられてはいなくて副社長の姿が見える。部下らしい人が来ていたから副社長がわたしのほうへ手を振るわけもなく、昼前になると常盤さんが稲葉さんと一緒に部屋から出ていったのが見えた。

 昼休みに誰もいなくなった営業所の部屋の中でわたしはまた副社長室を見ていた。もちろん、向こうは誰もいないけど、そうでもなきゃ見ていられない。
 わたしは、その、常盤さんと。つまり……彼はわたしにとって先週とは違う人になってしまった。日曜日にはデートもした。スーツではない常盤さんも初めて見た。常盤さんの車にも乗せてもらった。ものすごい車だったらどうしよう、他人の振りをするしかないと思っていたけれど、迎えに来てくれた彼の車は意外と普通の国産車だった。 常盤さんの服装もシャツとセーターにジーンズという普通のものだったけれど、 でも、この人の場合着ているものよりも中身が、顔が問題なのであって、いや問題じゃないけど。その顔がデートの後で「キスしてもいい?」なんて聞くのだから。

「……っん……」
 思わず声が出てしまう。常盤さんは細身な体つきなのにこの人はやっぱり男だった。わたしの体に回された腕に肩がすくむ。でもそれは嫌だからじゃない。すっぽりと抱き締められたらそうなってしまうから。
「瑞穂の声、すてきだ」
 唇を離してそう言ってほほ笑む。いいえ、すてきなのは常盤さんです。会社で話しかけてくれた常盤さんを、歩く常盤さんを、副社長室にいた常盤さんをわたしが何度も見とれていたことをこの人は知っているのかな……。

 そして、副社長室。
 こうして間近に常盤さんがいて、彼の姿を見ることができる。わたしにとっては先週とは違う彼を。
 でも、これってある意味、拷問じゃないだろうか。こんなふうに常盤さんの姿が見えるなんて!
 冗談はさておき、今さらながら非常に微妙だってことだ。向かいの部屋ってことは……。

「あら、瑞穂さん、どうしたの? ぼーっとして」
「あ、なんでもありません」
 浅川さんが顔を出して「今日、仕事が終わったら食事へいきましょうよ」と言ってきた。常盤さんは月曜日以降は会える日に連絡をしてくれると言っていたけれど、どうしよう。忙しそうなのは常盤さんのほうだった。
 こういうことってメールで知らせるべきなのだろうか。と、思ったけれど午後は会議だと言っていた常盤さんからは今のところなにも言ってこないので浅川さんにつきあうことにした。わたしが定時に仕事を終えた時に副社長はまだ部屋へ戻ってきていなかった。



「新庄さん、どうぞ」
 座るように勧めると新庄由理が腰を降ろした。
 会議室の中。彼女のレビューということで人事部長も同席している。
「新庄さんも社長秘書になってからもう三年ですね。現在、社長秘書は秘書課課長と新庄さんのふたりですが、仕事はいかかがですか」
「とてもやりがいがあると思います」
「プライベートなことをうかがうつもりはありませんが、新庄さんのような優秀な女性社員が結婚されても続けて働いてもらえるように、会社としても引き続き考えていきたいと思っています」
「そこまでおっしゃっていただいて、ありがとうございます」
「配属についてなにか希望がありますか?」
「は?」
 配属という言葉に新庄由理が少し驚いたようだった。
「それは。秘書課以外の部署に、ということですか?」
「そうです。新庄さんを秘書で終わらせるにはいかにも惜しい。あなたが『漬け物』だとは思いませんが」
「あの、副社長がそんな言葉をご存じとは」
 となりにいる人事部長も驚いたような顔をしている。
「我が社の女性社員の間では、配置転換がなく同じ仕事を何年も続けさせられていることを『漬け物』というそうですね」

「秘書課内での配置も希望すれば変えていただけるのでしょうか」
「無条件で希望に添うことはできませんが、検討は必ずします。これは新庄さんに限らず、全社員に対しても同じです。今すぐここでとは言いませんので希望があったら申し出てください。新庄さんでレビューはすべて終了です。ご苦労様でした」




 浅川さんの連れて行ってくれたお店はわりと会社の近くだった。お酒も飲めるカジュアルレストランという感じで程よくお客が入っていた。
「後から秘書課からもうひとり来るのだけど、いいかしら」
「はい。いいですよ」
 秘書課の女性だろうと思ってわたしはそう答えていたのだが、わたしたちが食事を終える頃にやってきたのは、なんとあの稲葉さんだった。
「遅くなった。副社長が戻られるのを待っていたから」
「副社長は仕事、終わられました?」
 浅川さんがわたしの聞きたかったことを聞いてくれた。
「いや、社長と電話で話をされていた。私は先に帰ってよいと言われたので」
 そうなのか。やっぱり忙しいんだ……。

「なにか飲む?」
 席に着いた稲葉さんに浅川さんが気軽にそう聞いたけれど、なんだか会社にいるときと違うような感じがした。
「いや、先に山本さんに言っておきます」
 は? 何でしょうか。わたしは何かこの人に怒られるようなことをしたかな? 心当たりないけど、もしかしたら常盤さんのこと? ……稲葉さん、知っているの?
「初めて会った時に会議室では失礼なことを言ってしまいました。申し訳ない」
 そう言って稲葉さんは頭を下げた。
 ええっ、あのこと?
 
 まさか、稲葉さんにあのことを謝られるとは思っていなかった。正直言ってこの人、すごく厳しい感じだし、常盤さんがわたしへ手を振ったのもあきれた感じで見ていた。
 でも稲葉さんは頭を下げてくれた。わたしのほうがずっと年下なのに。
「いえ、いいんです。重役用の会議室へ入ってしまったわたしも不注意でした。申し訳ありませんでした」
 わたしも頭を下げた。

「あら、よかったわねえ。じゃあ、乾杯する?」
「俺にはビールをくれ」
「はいはい。わかってるわよ」
 …………え?
 浅川さん、なんだか、すごーく稲葉さんと親しいというか……。
「あのう……」
 わたしの言葉にふたりが一緒にわたしを見た。
「浅川さんと稲葉さんって、もしかして……」
 美人な浅川さんがにっこりとして答えた。
「そうよ。稲葉はわたしの旦那よ。わたし、会社では旧姓を使っているの」

 えーっ、浅川さん、わたしと同い年だよ? 稲葉さん、どう見ても三十代後半で、っていうことは十歳くらい歳が離れているってことで。
「知りませんでした……」
 歳が離れていることよりも、正統派美人な浅川さんと強面(こわもて)系の稲葉さんが夫婦だということのほうがちょっと信じられない。
 でも、目の前のふたりはなんだか自然な感じで飲んでいる。そうか、そうなんだ……。

 その時、わたしは後ろから降ってきた声に飛び上がりそうになった。
「稲葉、なんでおまえがここにいるんだ」
 副社長っ!
 コート姿の副社長がわたしの後ろに立っている。
「私が妻と一緒にいたらおかしいですか」
「浅川さんに瑞穂さんを誘ってもらったのに、どうしておまえまでいるんだ。また瑞穂さんに何か言っただろう」
「いいえ、そんなことは」
 わたしがそう言いかけたら稲葉さん、いつもの真面目な顔で、
「副社長ほどではありませんよ。では私たちはこれで失礼します」
 そう言って稲葉さんと浅川さんは立ち上がった。
「浅川さん、悪かったね、ご苦労様。ありがとう」
「いいえ、わたしも稲葉が終わるのを待てましたので。ではお先に失礼します」
 浅川さん、わたしを誘ってくれたのは、常盤さんに頼まれたからだったのね。


「メールもしなくて悪かったね。会議だったから」
「いいえ」
 浅川さんたちが帰ってしまった後でお店を出た。お店を出たところで常盤さんがわたしの手を握った。コートのかげでつながれた手があたたかい。
「浅川さんと一緒なら退屈しないだろうと思って」
「それって職権乱用じゃないですか」
 わたしはもっともらしくそんなことを言ってみた。
「そうかも。でも、会いたかった。会社で我慢するのに苦労した」

 わたしを見てくれている笑顔。
 会いたかったなんて、相変わらずさらりとそんなこと言ってしまうんですね、常盤さん。いつでも わたしを驚かせて。でも、わたしも会いたかったです……。


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