副社長とわたし 8

副社長とわたし

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 わからない。あの副社長。
 仕事をしながらでも目に入ってしまう向かいの副社長室は、この二日ほど出張だったらしくブラインドは閉じられていたが、あの人がいる今日は開けられている。こっちのブラインドをぴっちり閉じておけばいいんだと、わたしは立ってブラインドを閉じようとしたのだが、その時に目が合ってしまった。
 大きなデスクの前でにっこりとする副社長がまた手を振っている。そばにいる稲葉さんが副社長をあきれたように見ているそのことのほうが恥ずかしく感じるのはなぜ?
 ビシッとブラインドを閉めてやろうか。
 そう思っても目の前でいかにもという感じで閉めるのは気が咎める。わたしってお人好し。いやいや、ここは波風立てないように会釈を返して自分のデスクへ戻った。わたしってほら、大人の社会人だから、と心の中で自分をちゃかして。

 副社長は何事もなく仕事を続けている。

 あの副社長のおかげで一段と総務や業務部に行くのが嫌になってしまって、でも行かなきゃならない、仕事だから。ありがた迷惑以外の何物でもないのだけれど、あの美形副社長、見かけも並はずれているけど中身も御曹司過ぎて下々のことがわからないんだよ、きっと。この部屋のこともわたしたちのためにしてくれたことだからと思うしかない。

 それでもわたしはいつも通りに仕事をしていた。あいかわらず所長の金田さんや三上さんは地方出張が続いていて、出社するのは週に二日くらい。これは東京へ来る以前も今も変わらない。ひとりで仕事して、ひとりでお弁当を食べて。毎日の連絡などで金田さんや三上さんへ電話をして、取引先のお客様からの電話も受けなければならない。そんなこんなで毎日は過ぎていく。そう思っていたんだけど……。


「あ……ら」
 昼休みに同じフロアのトイレへ入っていったら洗面所に知らない顔の女の人がいて振り向かれた。スーツを着ていたのでこちらから会釈をして、トイレから出てきたらまだその女性がいた。
「あなたね、噂の人は」
 鏡に向かいながらお化粧を直すその人が手を洗うわたしに目も向けないでそう言った。この人のほうがわたしや浅川さんよりも少し年上な感じだ。
「失礼します」
「あ、待って」
 きれいにカールされた髪を揺らしてこちらへ振り向いた。
「わたしは社長秘書をしている新庄由理よ。よろしくね、トーセイ飼料さん」
「初めまして、トーセイ飼料関東営業所の山本瑞穂です。よろしくお願いします」
「ね、あなた副社長になにか言われなかった?」

 唐突に聞かれた。でもなにかって?
 直通エレベーターのことかもしれないと思ったけれど、でもわたし、使ってない。どういうことでしょうかって顔をしていたら、新庄さんはなんでもない、というように手を振ってまた鏡へ向き直った。ちょっとそれは失礼だと思ったが、初対面の人なので黙っていた。
 それにこのフロアで浅川さんと稲葉さん以外の秘書の人に会うのは初めてだ。そもそもここへ来て以来、三光製薬の社長を見かけることもない。フロアの中央ホールでも、その向こうのすべてを占める広大な社長室と応接室のほうでも社長の存在を感じることがない。
 こういう大きな会社のことってわからない。そう思いながら営業所の部屋へ戻ってきたら、ちょうど副社長室のドアが開いて副社長ご本人が出てきた。

「こんにちは」
 お辞儀をして普通に挨拶した。 
「常盤副社長、社長からのご伝言をお持ちいたしました。先日の件で」 
 わたしの後ろからさっきの新庄さんが来て、しごく当然という感じでわたしと常盤副社長の間へ入ってきた。が、副社長は静かにドアを閉めながら、こう言った。

「午後はトーセイ飼料さんと先約がありますので」

 はいぃ? 先約?
 約束も何もしていませんけど?

「ですが」
 新庄さんがちらっとわたしを見てから、まるでわたしの存在を圧するように言う。
「それは困ります。社長からは必ず今日中に返事をもらってくるようにと」
「社長には私から言っておきますから。戻りなさい」
 少し声を低くして常盤副社長が言った。

 それは冷たい言い方だった。常盤副社長のきれいな顔に似合わない言い方で、思わず常盤副社長とそして新庄さんの顔を見てしまった。
 新庄さんはむっとしたような表情を隠そうともしなかった。秘書なのにそんな顔をするなんて。それでも一礼して新庄さんが引き下がり、秘書室へ入って行くのを見届けると副社長はすぐにわたしへ向きなおった。
「急にごめんね。でもちょっと聞きたいこともあってね」
「あの、今日は所長も営業も出かけていまして、あいにくわたしひとりですので、お話でしたら所長のほうに」
 言いかけたわたしに常盤副社長は自分の唇に人差し指をあてて、しっと言った。
「社長秘書の新庄さん、僕はあの人が苦手でね。頼むから仕事の話ってことにしてもらえないかな。ドアは開けたままにしておくから」




 いいのかな、こんなことして。
 わたしじゃなくて、常盤副社長。

 とりあえず座ってもらってお茶を淹れたけど、さっきの冷たい言い方が嘘のように今日も美形でわたしがお茶を淹れるのを見ている常盤副社長、いいのかなー。
「あ、これはエサの見本?」
 副社長がそばに置いてあった魚のエサの見本に気がついて覗き込んでいる。粒の大きさの違うエサの見本をガラスの容器に入れて並べてあるものだ。
「そうです。それはペレット状のエサです」
「これとこれ、大きさが違うのは魚の大きさに合わせて?」
「そうです。あと成分も違います」
「こっちの色の違うものは?」
「それは特徴が違います」

 秘書の新庄さんを避けるためだけあって、やはり「聞きたいこと」っていうのは口実だったのね。この副社長でも苦手な女性っているんだ。むこうはそうは思ってなかったみたいだけど。


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