副社長とわたし 6

副社長とわたし

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 今朝もいつも通り出社してエレベーターへ乗ろうと待っていた。出社時間だからエレベーターの前には大勢の社員が待っていた。
 まわりの人たちはおはようと言ったり話をしたりていたが、ふと話し声がやんで空気がじわっと動いたような気がしたんだ。それで何気なく横を見たら。
 わたしのすぐとなりにいるのは、背の高い三つ揃いスーツだった。にこっと笑ったその顔は……常盤副社長!

「おはよう。やっと一緒になれたね」
 は、はい?
「副社長、お先にどうぞ」
 すかさず誰かがそう言ってまわりの社員たちが脇へ退いた。一緒にいた秘書の稲葉さんがさっと先にエレベーターへ乗り込み、ドアの開ボタンを押している。わたしも脇へ退こうと思ったのに常盤副社長の次の行動がわたしを硬直させた。

「どうぞ」
 
 わたしの前に差し出された手。右手の手のひら。スーツの袖、肩、そして続く顔。
 にこやかな顔の、常盤副社長の顔があったがすぐに視線を顔から袖、手のひらへとさっきとは逆にたどった。差し出された手のひら。わたしの前にあるその手はどう見てもわたしへ差し出されているような。
「……とんでもありません! どうぞ、副社長、お先にどうぞ!」
「でも行先は同じでしょう? ほかの人も待っていてくれるんだし。ね、どうぞ」
 にこやかさを崩さない副社長の言葉にわたしと副社長を取り囲むようにしている社員たちからは集約されるように視線が集まっている。ものすごく痛い視線が。

 あ、ありがたいですけど。ご親切は痛み入るんですけど。
 分不相応です、一緒にエレベーターへ乗れなどと。しかも手を引かれてですか? どこの世界に子会社のそのまた下っ端の会社の事務の女子社員をエスコートしてエレベーターへ乗る企業準トップがいますか?

 そりゃ、一般社員だって社長や重役とエレベーターへ乗り合わせることもないとは限らない。だけど問題なのはこの差し出されている手だ。手を差し出されてなんて、わたしの会社員人生の中で見たことも聞いたこともない。どうしたらいいのかわからなくて動けないって自分でもわかったよ。そんなわたしに、ほら、とでもいうように差し出され続けている常盤副社長の手のひら。
 それはもう、後にも先にも引けないって感じで。

「山本さん、副社長もお急ぎです。乗りなさい」
 そこへ突き刺すように発せられた稲葉さんの声。この人、最初っから話し方が怖い。厳しい。
「はいっ!」
 上司から怒られた新入社員さながらにわたしは反応してしまった。ぎく、ぎくと音がするんじゃないかと思いながら「失礼します」と一礼してエレベーターの中へ入った。一礼することで常盤副社長から差し出された手を遠慮するのが精一杯。
 わたしの後ろから常盤副社長がエレベーターへ乗る。そして、それを遠巻きに見ていた社員たちの目の前で常盤副社長と顔面蒼白なわたしを乗せたエレベーターの扉が静かに閉じて
いった。



「まあ、そう固くならずに」
 相変わらずのにこやかフェイスでそんなこと言われても。いえ、おっしゃられても。
「いつもこっちのエレベーターを使っていたんだね」
 は……い?
「よかったらこっちのエレベーターとは別に最上階へ直通のエレベーターがあるから、これからはそれを使ってもらえないかな。トーセイ飼料さんのほかの社員の人も」
 ……直通エレベーター?
「あの、それは、でも、お客様や副社長がお使いになるのでは」
「そうだけど、別にかまいませんよ」
「そんなことできません!」
 わたしは叫んだ。社長や副社長が使う直通エレベーターをわたしが使うだなんて! そんなのあり得ない。
「でも、いつもため息つきながらエレベーターが来るのを待っているでしょ?」
 ……は? え?
 にこやかな顔で副社長は言ったが、この人、どうしてそんなことを言うの?

「じゃ、そういうことでね」
「あ、あのっ」
 エレベーターの扉が開き、そこはもう最上階だった。さっと出ていく常盤副社長にわたしもエレベーターから出ながら必死で食い下がった。
「あの、お気持ちはありがたいのですが、それはどう考えてもおかしいです」
「おや、そうなの。そうなんだ」
 わっ! 急に立ち止まらないで!
 はからずもぐっと近づいた常盤副社長の顔。わあっ!
「瑞穂さんはさっき稲葉の言ったことは聞いたのに、僕の言うことは聞けないっていうの?」

 え? え? えーっ?
 だって、だって、わたしの言ってること間違ってないよね? 社会人として間違ってないよね?

 けれどもその言葉は言えなかった。目の前でふっとほほ笑んだ副社長の顔はとてもきれいで、透明感のある瞳と肌理(きめ)の整った肌はまるでファンデーションを塗っているかのよう。そんな顔を前にしてなにかを言えるかって? 言えるわけないじゃない。ああ、静まれ! わたしの心臓。

「エレベーターの件は、僕の言うとおりにしてください。では」
 なにも言えないわたしの沈黙を了承と取ったらしく、常盤副社長は稲葉さんを従えて副社長室へと向かって行った。わたしはぼーっとその後ろ姿を見送るしかない。


 ……お願い。
 誰か、わたしは間違ってないって、言って。


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