副社長とわたし 奥様、お手をどうぞ 11

奥様、お手をどうぞ

目次


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「わたしのことでしょうか」
「そうよ。あなた以外に誰がいるの」
 三光製薬の副社長室の前の廊下で賀川さんが華やかな笑顔で笑った。けど、目はしっかりわたしを捕えている。
「どうしてそんなことをわたしにおっしゃるのでしょう。よくわかりません」
「あなたの仕事振りは見させてもらいました。そのうえで言っています。ぜひ三光アメリカに来てわたしの元で働いてもらいたいの」
 わたしの仕事振り? じゃあ賀川さんがわたしにいろいろ言ってきたのは。
 一瞬そんなことが頭をかすめたけれど、でもそのことを考えている時間はなかった。
「すみません、お断りします」
「なぜ? 条件は良くするわよ」
 賀川さんはわたしが断ることは織り込み済みという感じで答えた。
「わたし、英語が話せません」
「アメリカに来れば嫌でも話せるようになるわよ」
「でもわたし、短大卒ですよ」
「アメリカには働きながら受講できる大学のカリキュラムもいろいろあるわ。勉強したい意志があれば何歳でもスキルアップは可能よ。同じ仕事をするのなら、そういうことにチャレンジしてみたいとは思わない?」
「でも……」
 賀川さんはわたしを見据えていて、やはり簡単には納得してくれないようだ。
「わたしは三光製薬の社員じゃありません。そんなことをおっしゃられても」
「スカウトと言ったでしょう。そちらの会社を辞めて三光アメリカに来てくれればいいのよ」
 ……会社を辞めて。
 簡単にそう言ってのける賀川さんにあっけにとられてしまった。



「あれ、瑞穂ちゃん」
 急に後ろからかけられた声にびっくりした。
「どうしたの。こんなところで」
 不意にかかった三上さんの声にびっくりしてお茶をこぼしてしまうかと思った。いつのまにか廊下には三上さんが立っていて、三上さんの後ろには金田所長と岡本さんがいた。たった今、帰ってきたところだというように三人ともカバンや紙袋を持っている。三人が来たことに全然気がついていなかった。というよりもわたしには気がつく余裕がなかった。
「お帰りなさい。あの……」
 副社長室とトーセイ飼料の営業所の間の廊下にはわたしと賀川さん、孝一郎さんと真鍋副社長、そして稲葉さん。それに加えて金田さんたち三人というなんとも変な状況になってしまった。三上さんのうしろで金田さんがわけがわからないといった顔でこっちを見ている。
「瑞穂ちゃん、もしかしてヘッドハンティングされてるの」
「三上さん! 違います。どうしてわたしがヘッドなんですか」
 話していたことが聞こえていたのだろうか。三上さんがへえーという顔で言うものだから思わず大きな声で言ってしまった。
「ゆくゆくはヘッドも夢じゃないわよ。あなた、良い事言うわ」
「お褒めに預かり光栄です」
 賀川さんに言われてすかさず三上さんが大真面目に答えたけど、今、ここでそんなこと言わないでください、三上さんてば!
「瑞穂ちゃん、いったいどうしたの。こんな廊下で」
 心配するように言った金田さんの声にはっと我に返った。
「申し訳ありません、所長」
 慌てて金田さんに言ってから賀川さんに向き直った。
「もう答えは言いました。この話は終わりでいいですよね」
「そういうわけにはいかないわ」
「常盤課長」
 話を続けようとした賀川さんにわたしはわざと孝一郎さんをそう呼んだ。そう呼んだことでわたしに集まっていたまわりの人たちの目が一斉に孝一郎さんを見た。
「わたしはちゃんとお答えしました。後のことは三光製薬さんのことですから常盤課長にお任せします。よろしくお願いします」
 もう丸投げでもなんでもいい。とにかく今はこんなこと話したくない。そう思って言ったわたしの精一杯の仕事口調に孝一郎さんはわかってくれたのか、厳しい表情のまま営業所の前から退いた。
「わかりました。金田所長、こんなところでお騒がせして申し訳ありませんでした。どうぞ、営業所へお入りください」
「所長、常盤社長がさきほどから所長が帰られるのをお待ちくださっています」
 わたしはすぐに営業所のドアを開けた。中には常盤社長が待っている。
「金田所長、待たせてもらっていたよ」
「常盤社長」
 金田さんが立ち上がった常盤社長の前へ行くと、常盤社長は廊下でのことを見ていたのに、そのことはまったく気に留めていない様子で鷹揚に金田さんへ手を差し出した。
「所長の定年退職に際してひと言ご挨拶したく待っていました。釣りの話しができなくなるのは惜しいが、仕方がありませんな。これまでご苦労でした」
「とんでもありません」
 金田さんもすぐに常盤社長と握手をした。
「私こそ身に余るご厚誼をいただきました。ありがとうございました」
 お礼を言ってお辞儀をした金田さんに常盤社長はしっかりと手を握った握手を続けていたが、今まで待っていてくださったのにそれ以上の話はせずに常盤社長はわたしに向き直った。
「瑞穂さん」
「はい」
 わたしを見るお義父さんは意外にもやさしい顔つきだった。
「孝一郎には後で言っておく。あいつもわかっているだろうが、三光アメリカの人間に振り回されるようではまだまだだ。忙しいところを悪かったね。では金田所長、私は失礼する」
 それだけ言うとお義父さんは自分でドアを開けて廊下へ出た。わたしたちは慌ててお辞儀をしたけれど廊下には秘書の岡崎さんがすでに控えていて、そして岡崎さんの横には孝一郎さんもいた。お義父さんがなにごとか孝一郎さんへ言うと孝一郎さんは頭をさげた。そして中にいるわたしを孝一郎さんは見たけれど、ガラスに隔てられて言葉を交わすことはできない。彼の視線に背を向けてわたしは金田さんたちへ向き直り、頭を下げた。
「先程は申し訳ありませんでした。でももう大丈夫です」
 岡本さん、三上さんがわたしを見て、それから金田さんを見た。なにか問いたげな二人だったが、わたしは黙っていた。
「瑞穂ちゃんがそう言うなら大丈夫だろう。さあ、じゃあ始めようか」
 金田さんの言葉を合図にわたしたちは仕事に取り掛かった。

 金田さんたちが出張に出ていたあいだの仕事と通常の月末の仕事。わたしがやっておいた集計や報告書はいずれも金田さんの確認や承認が必要なものばかりだ。出張中の取引先からの用件のうち事務に関する用事はわたしに戻されて指示が出された。三上さんも営業の月末の仕事を片付けにかかっている。これだけでも忙しいのに金田さんには岡本さんへの引き継ぎもある。 金田さんたちは予定よりも少し早く帰ってきたけれど、とにかく今日中にこれらの仕事を片付けなければならない。途中でわたしは昼食を食べていないことに気がついたけれど、金田さんたちも昼食に出ることはできなさそうだった。金田さんたちの帰社を待っていたかのように次々に電話がかかってきて金田さんがずっと電話で話している。
「三上さん、わたし、なにか昼食代わりになるようなものを買ってきます。あとで食べられるように」
「うん、そうだね。ちょっと今は食べるひま、なさそうだからね。俺のも頼むよ」
「はい、じゃあ」
 三上さんに言い置いて下の階の売店へ行くために営業所を出た。副社長室にはもう孝一郎さんはいなかったけれど賀川さんはいた。デスクに向かいこちらを見ていたけれど、でも賀川さんのことを気にするのはやめた。賀川さんがなにを言っても今のわたしは自分の仕事をするしかないから。



 出張中に溜まっていた仕事と月末の仕事、そして岡本さんへの引き継ぎなどで金田さんは息つく暇もなく仕事をしていた。本当ならもっと余裕を持って仕事をしてもらいたかったが、今日はいつも以上の忙しさになってしまっている。
「瑞穂ちゃん、集計のうち本社へ送る分が揃ったら見せて」
「はい、これです」
「所長、出張報告ができましたので見てください。瑞穂ちゃん、月報と一緒に回して」
「はい」
 全部を今日中に片付けなければならないということを除けば、やっていることはいつもと変わらない。いつもと同じ月末の仕事だった。でも。
 ひと通りいつもの仕事が終わったが、わたしの手元には金田さんの勤務日数を本社へ報告する書類がある。いつもは20日が締めの社員の勤務状況の報告書だったけれど、退職する金田さんの分は21日から来週月曜日の退職日までを締めなければならない。わたしが日数などを記入して金田さんに確認を貰う、金田さんの最後の勤務状況報告だった。

「瑞穂ちゃん?」
 となりにデスクを並べている三上さんのいぶかしげな声。
「す……すみません。なんでもありません」
 目にちょっと指を当ててすぐに書類の続きを書こうとしたが、文字がぼやけた。
「瑞穂ちゃん」
 今度は心配そうな三上さんの声。でもわたしは無理に涙を拭いた。

 泣くな。仕事中だ。
 心の中でそう言って涙を押さえた。

「瑞穂ちゃん」
 涙が落ちないように目を手で押さえてしまったわたしの耳に聞こえたのは金田さんの声だった。金田さんが席から立ってわたしのそばに来ている。
「すみません。大丈夫です。所長、こちらの書類をお願いします。提出は月曜日です」
 立ち上がって精一杯、普通の声で言って書類を金田さんへ渡した。受け取って書類へ目を落とした金田さんがそうか、と言ってまたわたしを見た。
「瑞穂ちゃん、今週はいつもにも増して出張ばかりで済まなかったね」
 金田さん……。
「瑞穂ちゃんに留守が任せられたから、私たちも安心して出張ができたんだ」
 安心だなんて。わたしは留守の間、賀川さんのことでごたごたしてばかりだったような気がするのに。
「おかげで私も今日という日が迎えられた。瑞穂ちゃんや三上君たちのおかげだよ。だけど、私の仕事は今日までだけど、でもこれでみんな終わりってわけじゃない。わかるね」
「はい」
「所長」
 いつのまにか三上さんも立ち上がっている。

 金田さんは新入社員で入社したわたしにとってずっと上司だった。わたしが入社したときには前任の事務の人は辞めてしまった後だったので、事務の仕事のほとんどは金田さんに教えてもらった。短大を出ていてもわたしは伝票や請求書の書き方も、入力の仕方も知らなかった。事務だけ
じゃない、お客様や取引先の人たちへの接客や対応の仕方だって、みんな金田さんに教わった。わたしの父親よりも年配の金田さんには同じ失敗を繰り返してしまったときは厳しく叱られたけど、でも金田さんはいつもやさしく穏やかにわたしに接してくれた。ほかの会社で働いている友人たちから上司への愚痴を聞かされても金田さんには当てはまらないっていつも思っていた。営業所が東京に移転になってしまってもついて行こうって思ったのは金田さんが一緒だったからだ。
 思いはあとからあとから湧いてきたけれど、でも今はそんなことを思い出している場合じゃない。わたしはなんとか涙を押さえて仕事を続けた。仕事中に泣いてしまうなんてどうしようもない。せめてしっかりと今日の仕事を終えさせよう。それがわたしにできる金田さんへの感謝なのだから……。


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