副社長とわたし 奥様、お手をどうぞ 9

奥様、お手をどうぞ

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 今日は車で出勤したから帰りも孝一郎さんと一緒に帰ることにしてあった。残業をしたわたしに合わせて孝一郎さんも仕事を終えたから車で待っているというメールが入っていた。わたしがポットを片付けるために給湯室へ行くときに賀川さんはまだ副社長室で仕事をしていた。
 副社長の真鍋さんは定時で帰られたけれど賀川さんはまだ忙しそうだ。三光製薬の秘書室のほうは社長がいないせいか人も見えず、フロアは静まりかえっていた。
「あら、帰ったと思っていたわ」
 給湯室でゴミをまとめていたら賀川さんがコーヒーカップを片手に入ってきた。
「お疲れ様です。わたしはもう終わりましたけど、賀川さんはまだお仕事ですか」
「会社と話したいことがあるのだけど、時差があるからしかたないわね」
 賀川さんがそう言ってコーヒーカップを置いた。給湯室もこのフロアも明るい照明に照らされて、賀川さんも昼間と変わらずまだ仕事を続けるというふうに見えたけど、でももう夜だ。
「あの、さっきのインスタントコーヒーで良かったら飲みますか」
 思い切ってそう言ってみたら賀川さんが目を見張ったようにわたしを見た。
「いいえ、結構よ。でも、ありがとう」
 ごくあたりまえに断られたけど、お礼を言われて嫌な感じには聞こえなかった。要らないものは要らないとはっきりと言う人なんだ、賀川さんは。
「そうですか、ではお先に失礼します」
「瑞穂さん」
「はい」
 わたしが出ていこうとしたら呼び止められたので返事をしたら賀川さんがほほ笑んでわたしを見ていた。
「あなた、自分の仕事が馬鹿馬鹿しくなることって、ない?」

 いきなりそう聞かれてすぐに答えられるほどわたしは反応良くない。でも賀川さんがわたしをじっと見ている。ドアのない給湯室で話すようなことじゃないとは思うけど、廊下に出る手前で立ち止
まって賀川さんに向き直った。
「そんなふうに感じたことはありません。大変だとか、忙しいって思うことはありますが」
「そう。じゃあ現状に満足しているってわけかしら」
 満足か? そう言われても。
「あの、賀川さんのおっしゃる馬鹿馬鹿しいっていうのはどういうことですか」
「あなたを見ていると事務のほかは雑用ばかりみたいね。ひとりだからそうなるのでしょうけど、でもそんなことばかりで仕事だって言えるのかしら。あなたを見ていると主要な仕事はさせてもらえないっていう日本の女性社員の置かれている位置が見えてくるみたい」
「賀川さんにはそう見えるかもしれませんが、わたしは全然そんなふうに感じていません」
 賀川さんにとやかく言われるようなことじゃない。それにわたしは日本の女性社員代表じゃない。そんな気持ちで不愉快に感じた賀川さんの言葉に感情的になりそうだったけど、なんとかわたしは答えた。
「でもコマネズミみたいにあれこれ働かされているだけじゃもったいないって、あなたは思わない?」
 コマネズミ? それは……。
 賀川さんがコマネズミと言った言葉に急にわたしは笑い出したいような気持が込み上がってきてすっと気持が落ち着いた。かつて田舎のねずみちゃんと言われたことがある。くるくると良く働くねずみちゃん。そう言ったのは……。
「会社の中枢で仕事をする。確かにそれも仕事です。賀川さんが孝一郎さんにそういう仕事をして欲しいと思ってアメリカへ来て欲しいとおっしゃっているのだとわかります。でも彼は、孝一郎さんは今の仕事が三光製薬にとって重要ではないなんて考えてはいません。それはわたしの仕事も同じだと思います」
 賀川さんは黙って聞いていた。わたしよりも年上で、キャリアも違う賀川さんにこんなことを言っても生意気に聞こえるだけかもしれない。そう思ったけどわたしは言い切ってしまった。偉そうに言ってしまったけれど、それ以上は言えなくて賀川さんもなにも言わなくて、そしたらわたしの後ろで人の気配がした。はっとして廊下を振り返るとそこには稲葉さんが立っていた。
「瑞穂さん、仕事が終わられたようでしたら下までお送りします。常盤課長が待っておられますから」
 稲葉さんが静かにわたしに近づいてそう言った。この前、賀川さんとわたしが営業所で話しをしている途中で稲葉さんが入ってきてくれたように、稲葉さんはなんとなく気をつけていてくれているみたいだった。
「はい、営業所を閉めてきます」
 わたしが営業所に戻ろうとしたら稲葉さんはじっと賀川さんを見ていた。表情を変えないいつもの顔で稲葉さんは賀川さんを見ていて、稲葉さんの視線の先で賀川さんはちょっと肩をすくめただけだった。



「なにか言われましたか」
 下へ降りるエレベーターの中で稲葉さんが言ったけど、それは賀川さんのことだとわかった。
「いいえ、ちょっと仕事のことを聞かれただけです」
 わたしがそう言ったのを聞いて、珍しく稲葉さんがふっとため息をついた。
「すみません。賀川さんが常盤課長にアメリカに来てもらいたいと思っているのは仕事の上でのことで、個人的にどうだというわけではないと思うのですが。あの人はワーカーホリックですから」
「賀川さんもご自分の仕事に一生懸命なんですね。きっと他の人にわからないご苦労もあるんですね」 
 稲葉さんがどうして謝るのかわからないけれど、なるべくわたしは冷静に答えた。ともかく稲葉さんは心配してくれている。
 地下の駐車場では孝一郎さんが車で待っていたけれど、わたしと稲葉さんが近づくと気がついて孝一郎さんはドアを開けて車を降りた。
「申し訳ありません。瑞穂さんにいろいろご迷惑をかけているようです」
 稲葉さんは孝一郎さんの前へ行くと頭を下げた。え? どうしてまた稲葉さんが謝るの。
「おまえが謝ることはないよ。関係のない瑞穂に絡むなんて賀川さんらしくない。きっと彼女もままならない状況を抱えているんじゃないかな。稲葉もそう思うだろう」
「……はい」
 孝一郎さんは副社長だったころの口調に戻って稲葉さんに話していた。まるで稲葉さんを気遣うようだった。
「ですが」
「賀川さんには賀川さんの仕事がある。それはおまえも同じだ。同じ会社の社員としてやっていくまでだよ」



「あのう」
「うん? なに」
 車を運転する孝一郎さんの横顔に聞いてみると孝一郎さんはちらっとわたしを見た。
「あまり、というか全然話が見えないんですけど。どうして稲葉さんが謝るのか」
 ちょっと孝一郎さんは考えて、それから話しだした。
「プライベートな事だし、稲葉も浅川さんのことで大変な時期だから触れないでおこうと思っていたんだけど」
 なにに?
「だって賀川さんは稲葉の元カノだから」

「……ええーっ!」
「瑞穂、危ない」
 思い切り叫んでしまったわたしの声に孝一郎さんが苦笑いしてハンドルを持ち直した。驚かせてごめんなさい。でも、でも、でも。
「孝一郎さん、孝一郎さん、元カノって言葉の意味、わかって言ってます?」
「もちろん」
 えーっ、とまた声に出してしまいそうだったが、ここに稲葉さんがいなくてもそれはあまりに失礼だ、わたしって。
「俺に同行してアメリカにいた間のことだけどね。稲葉はあんな性格だけどアメリカではそういうことにオープンだから堂々とつきあっていたよ。お互いに独身だったし」
 稲葉さん、そういえば年齢的に賀川さんと近い。でもあの強面の稲葉さんが、賀川さんと。
「もちろんふたりはきっちり別れているよ。日本に戻ってから何年も経ってから稲葉は浅川さんと結婚したんだ。今はなにもない」
 はあーっとため息が出そうだった。それで稲葉さんの態度がわかった。でも稲葉さん、今は浅川さんが大変な時期で……って、浅川さんもしかしてこのことを知って?
「それはわからないけれど、稲葉と浅川さんのあいだのことだから。浅川さんなら大丈夫だと思うけどね」
 孝一郎さんたら他人事みたいに言っちゃって。浅川さんは今、大変なときなんですよ。
「わたし、賀川さんは孝一郎さんのことをって……思っていました」
「まだそんなことを言って。浅川さんじゃなくて瑞穂がそんなことを言ってどうするの。瑞穂だって大丈夫でしょ」
 にこりと孝一郎さんがほほ笑む。
 そうだったのか。そうだったのね……。
「なんか疲れた……」
 いろいろと。それが正直な気持ちだった。
「じゃあ、夕食はどこかで食べていこう。瑞穂はなにが食べたい?」
 このひと言で気分が上向く。単純だ、わたしって。いろいろあったけど、わたしも大丈夫だってことなのね……。


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