副社長とわたし 奥様、お手をどうぞ 6

奥様、お手をどうぞ

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 大阪の本社から出張中の岡本さんへ連絡したい用件があるのだが携帯が繋がらない、そちらに連絡があったら本社へ連絡を入れてくれという電話があったのは、もう終業定時間近だった。岡本さんの携帯に電話をしてみたがやはり繋がらなかった。一緒にいる金田さんにかけてみたが、金田さんは電話中だった。 しばらく待っているあいだに終業時間になってしまったが、片付けをしながら金田さんか岡本さんから電話が入るのを待っていた。
 あれから孝一郎さんはなにも言ってこなかった。メールもない。でも、賀川さんはきっと孝一郎さんを夕食に誘うだろうな、とそんな感じがした。孝一郎さんだって会食に行くつもりらしかったし、簡単には断れないような気がする。相手が三光アメリカの賀川さんなら。
 孝一郎さんだって忙しいから連絡ができないこともあるだろうけど、結婚してから、ううん、それ以前も帰りが遅くなるときや夕食が要らないときは必ず連絡してくれた。連絡がないってことは行かないのだろうか。それとも今日じゃないのだろうか。夕食の都合もあるのに。
 はあっと息を吐いて首を回した。なんだかひとりであれこれ考えていると気分が滅入ってくる。こういうときにひとりっていうのはほんとに良くない。金田さんからの連絡はまだこないから、このままだと帰るのが遅くなりそう。連絡をしなきゃならないのはわたしのほうになってしまう。どうしようか。
 机の上に置いてあった自分の携帯電話を持ち上げたところで営業所の電話が鳴った。
『あー、瑞穂ちゃん、まだいてくれたんだ。なにかあった?』
 雑音の多い金田さんからの電話に本社から岡本さんへ用件があることを伝えると、ちょっと待っていてもらえるかと言われた。
『これから本社へ連絡するから待っていてもらっても、かまわない?』
「はい、大丈夫です」
 本社の用件の内容によってはまたこちらへの連絡が必要になるかもしれない。それは金田さんに言われなくてもわかったのでわたしはそう答えた。
 やはり帰るのが遅くなりそうだ。今のうちにちょっとメールさせてもらおう。そう思って携帯電話を開いたところでメールの着信があった。え、孝一郎さん?
『瑞穂は残業? 俺は今、会社を出たところだから夕食は俺が作るよ』 
 ……夕食は俺が作るよ。って、えー、孝一郎さん会食じゃなかったんだ。それにもう会社を出たって、いつもより早い!

 金田さんからの連絡は五分くらいして入った。本社の用件はこちらには直接関係がないのでもう帰っていいよ、お疲れさまと言われてすぐに営業所を出ると孝一郎さんに電話をした。
「もしもし、孝一郎さん、今日は会食だったんじゃ」
『会食?』
「あの……賀川さんが孝一郎さんを夕食に誘いたいって言ってたから」
『誘われたけど、断ったよ』
「えっ!」
 まだ三光製薬のビルの中だというのに声が大きくなってしまった。
「断った……って」
 わたしは賀川さんが孝一郎さんと会食をするだろうってほとんど思い込んでいた。
「あのう、断ってもいいの?」
 わたしったら、これじゃまるで断って欲しくないみたいな言いかたじゃないの。でも孝一郎さんに
とっては仕事の話でもあるし。
『断ったよ。必要のない会食はしたくないからね。賀川さんとの話は会社で済ませたから』
 そう言って電話の向こうで孝一郎さんが笑ったようだった。
『それよりも瑞穂はどこにいるの? まだ営業所?』
「あ、今、ビルを出るところ」
『そう。急がなくていいから気をつけて帰っておいで。待っているよ』
 わたしが返事だけをすると電話が切れた。

 会食を断った。……断ったんだ。孝一郎さんは。話も済んだって。
 そう聞いた時、本当に断ってもいいのかなと思ったのも事実。でも断ったって聞いて心の奥が軽くなるようだった。夜なのに三光製薬のビルの前の道がちょっとだけ明るくなったように感じるのは気のせい?
『待っているよ』
 孝一郎さんにそんなこと言われたら急がずにいられない。わたしって現金かなと思いながらそれでも夏の暑い夕方の道をできるだけ早足で駅へ向かった。

 マンションのドアを開けるといい匂いがして、あ、これはシチューだと思った。
「おかえり、瑞穂」
 わたしの紺色のエプロンをつけた孝一郎さんがキッチンで振り向いた。ネクタイを外し、白いワイシャツのカフスをゆるく折り上げてお玉を持っている。
「ごめんなさい。遅くなっちゃって」
「いいよ、たまには俺にも作らせて。ちょうど出来たところだよ」
 そう言って孝一郎さんが並べてくれたのは薄切り牛肉で作ったビーフストロガノフ風のシチュー
だった。レタスとトマトのサラダにパンも。バッグを置いてきて手を洗い、テーブルにつくと孝一郎さんが冷たい麦茶を出してくれた。
 たいしたものは作れないって前に言ってたけど、孝一郎さんの作る料理って丁寧だ。がーっと
作った男の料理って感じじゃない。このシチューだってルーじゃなくて缶詰のデミグラスソースを
使ってさらに手を加えてある。わたしの好きなマッシュルームだって入っている。
「おいしい」
「そう? よかった」
 袖のカフスを折り上げたままの孝一郎さんがにこっとほほ笑んだ。エアコンの効いた涼しい部屋の中で食べるあたたかいシチューはじんわりとお腹に沁み込むようだ。急いで帰ってきたのが嘘のよう。でも。
 わたしの中で今日あったことがすべてチャラになったわけじゃなかった。わたしがスプーンを置いたのに気がつくと孝一郎さんも食べるのをやめて顔を上げた。
「どうしてアメリカにいたことがあるのを話してくれなかったんですか」
「稲葉に聞いたんだね」
「そうです」
「アメリカにいたのは新人研修みたいなものだよ。大学を卒業して三光製薬に入ったけれど、本社にはいたくなかったからしばらくアメリカにいたんだ。本社は親父がうるさいからね。キャリアとして言えるようなものじゃない。お目付け役に稲葉までつけられたんだから」
 それにしたって新人研修で『社長付き』はないでしょう。
「孝一郎さん、もしかして英語ペラペラとか」
「まあ、不自由しない程度には話せるよ」
 ……それって。
「賀川さんはその時の、いわば俺の教育係だったんだ。でも、そういうことは先に話しておくべき
だったね。済まない」
「今日、賀川さんは孝一郎さんがアメリカへ来てくれるのを待っているって言ってました。だから
孝一郎さんを食事に誘って話がしたいって」
「賀川さんが俺にアメリカに来てもらいたがっているのは知っているよ。真鍋さんは副社長になる前は三光アメリカのCOOだったから、賀川さんの意向は俺も聞いている」
「COOって?」
 なんとなく意味はわかったけど、聞いてみた。孝一郎さんならきちんと教えてくれるはず。
「最高執行責任者。簡単に言えば三光アメリカの社長だよ」
 そうなんだ……。
 なんだか改めて三光製薬の会社としての組織の大きさを思い知らされるような話だ。
「俺が副社長のときからもう一度アメリカへ行く話は出ていたんだ。だからそれを期待してくれる賀川さんの気持ちもわかるけど、今の俺はアメリカへ行く気はない。三光アメリカのCOOからゆくゆくは本社の社長っていう、そういうコースが用意されていたみたいだけど、それは俺の実力じゃないからね」
 アメリカのCOOから本社の社長。孝一郎さんにそうする気がないとしても、あまりにスケールの大きいその話にわたしは絶句してしまった。やはり三光製薬の大きさはケタが違う。
「瑞穂」
 気がつくと孝一郎さんが立ち上がってそばに来ていた。
「話してなくてごめん。話さなかったことは俺が悪いけど、でも瑞穂に余計な心配かけたくなかったんだ」
 孝一郎さん?
「俺がもしアメリカへ行くことになったら瑞穂はどうするの」
「え……」
「俺としては絶対についてきてほしいけど、瑞穂の仕事や生活や、考えなきゃならないことはたくさんあるだろう?」
 孝一郎さんが海外赴任だなんて考えてみたこともなかった。しかも単なる海外赴任じゃない。もし彼が三光アメリカに行くとしたら重役としてか社長としての赴任だろう。思わぬ話にわたしはなにも答えられなかった。
「でも心配しなくていい。俺はアメリカには行かない。何十年後かにはそういうこともあるかもしれないけど、とにかく今は行かない。俺の総務課長としての仕事はまだ始まったばかりだからね」
「でも孝一郎さんは総務部長になるって決まっているんでしょう?」
 そのことだってわたしは聞いてない。思わず言ったわたしに孝一郎さんが苦笑した。
「どこで聞いたの。それは父が勝手に言ったことだ。あの人なりに心配してくれているのだろうけど、俺はまだ総務課長になって半年だ。やることがまだまだたくさんあるし、総務課長を腰掛けで済ます気はないよ。だから将来はそうなるかもしれないけれど、いまはまだそんな時期じゃない」
「じゃあ……」
「総務部長になるとしてもそれはまだ先の話。アメリカにも行かない。だから賀川さんとの会食は
断った。それに俺が言っていた会食の予定は賀川さんじゃなくて人事の部長とだよ」
「え、そうなんですか」
 わたしの前でにこっとまた孝一郎さんが笑った。
「でも人事のほうとは予定が合わなくなってしまったんだ。もしかしたら来週になるかもしれない。決
まったら必ず瑞穂に言うよ。瑞穂も金田さんの退職がもうすぐだから忙しいだろうし」
「うん……」
 孝一郎さんの仕事のことって、いろいろと難しい。それは孝一郎さんが三光製薬の御曹司だからだ。わたしが知らないことがまだまだあるに違いない。きっと……。
「瑞穂」
 あれこれ考えていたわたしが孝一郎さんの腕に引き寄せられて、同時に現実へ引き戻された。孝一郎さんに顔をのぞきこまれて、そうでした、ここは家でした。
「あ、すみません、ごちそうさまでした。後片付けはわたしがしますから」
「待って、瑞穂」
 立ち上がろうとしたわたしを孝一郎さんの腕が止めた。すとんとまた椅子に戻されて、わたしの前には孝一郎さんがいる。
「まだ怒っている?」
 怒っている? そう見えたのだろうか。いろいろ聞かされて、ちょっと頭の中が整理できていないようには感じるけど。でも、孝一郎さんの目がじっとわたしを見ている。
「怒ってない」
「でも、ここが」
 そう言って孝一郎さんがわたしの頬をつついた。
「少しふくれている」
「なっ」
 そんなはずない! って言おうとしたけど、やっぱりわたしはどこかで引っかかっていたのかもしれない。孝一郎さんがアメリカにいたことを話してくれなかったことだけじゃなくて、賀川さんとハグしていたのを見たときから、なにかが。
「瑞穂、言って。瑞穂が怒っていたわけを」
 言いながら孝一郎さんの指がわたしのあごを持ち上げていた。ああ、そうやってわたしを陥落させるんだ。孝一郎さんの目の中にわたしを離さない何かが光っている。
「言って」
 この人にそう言われて黙っていられるはずがない。こうやってわたしは白状させられてしまうんだ。
「……賀川さんとハグなんてしないで」
 こんなこと言ってしまうなんて。馬鹿だ、わたし。


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