副社長とわたし 奥様、お手をどうぞ 3

奥様、お手をどうぞ

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 ただいまと言って孝一郎さんが帰って来たときにちょうど電子レンジが鳴って蒸し野菜ができたところだった。最近の孝一郎さんはハードな残業も少なくなって午後七時頃には帰ってくることもある。それは総務課長になってからずっと忙しかった孝一郎さんにとっては良いことだと思う。わたしはといえば終業時間になると脇目も振らずに会社を飛び出し、夕食の買い物をして帰ってくる。
「お帰りなさい。お夕飯、もうちょっと待っていてね。先にお風呂に入る?」
「今日はなに?」
 孝一郎さんがキッチンへ入って来てわたしの手元をのぞきこんだ。
「鶏のからあげと蒸し野菜。卵スープ」
「もっと簡単なのでいいよ。瑞穂だって忙しいんだから」
 いいえ、からあげは買ってきたもので、わたしが作ったんじゃありません。チキン南蛮風に甘酢たれでちょっとアレンジしただけ。蒸し野菜はシリコンスチーマーに入れてチンするだけですから。
そう言ったら孝一郎さんが手伝うよと言って上着を脱いできて、手を洗ってお皿を並べてくれた。
一緒に住み始めたときに知ったけど、大学生の時にひとり暮らしをしていた孝一郎さんは料理もそこそこできる。 都内の大学を卒業している孝一郎さんは自宅も都内だからひとり暮らしする必要はなかったのに、親元を離れたくてひとり暮らしをしたって言ってた。
「あっと、卵」
 中華スープが煮立ってきた。孝一郎さんが卵を冷蔵庫から出してくれたので、溶き卵にしてスープへ入れた。中華スープはスープの素を使えば簡単だけど、卵スープにするときは水溶き片栗粉で軽くとろみをつけてから卵を流し入れると卵がふわっと広がってきれいにできる、っていうのが母から教わったコツで、孝一郎さんもこれが好きだと言ってくれる。
「はい、できましたよー。孝一郎さん、座って」
 ダイニングテーブルで差し向いに座って、孝一郎さんが「いただきます」と言って箸を取った。わたしもいただきますと言って自分の作った料理を口に運んだ。作ったといっても全部作ったわけじゃないけど、どうも料理って苦手というか、自分で作ると味付けが決まらないというか。やっぱり今までたいして料理なんてしたことなかったから。家にいるときはお母さんを手伝うこともあまりなかった。 それよりも明日はなににしよう。うーん、こんなに毎日の献立に悩むとは思わなかったわ。料理のレパートリーってどうしたら増えるんだろう。あ、孝一郎さんは今日のお昼はなに食べたんだろう。聞いてなかった。
「あの、孝一郎」
「はい」
 孝一郎さんが手を止めた。
「えっと、孝一郎は今日のお昼、なに食べた?」
 わたしには結婚してからお弁当を作る余裕なんてまるでなくて、孝一郎さんは昼食はほとんど社員食堂で食べている。三光製薬ビルの社員食堂はテーブルが100以上もある広い食堂で、しかも社員食堂らしからぬダイニングカフェのような渋い色の木のテーブルに白い布張りの椅子という、さすが新しいビルだけあって超イマドキの社食。カフェのコーナーもあって来客者との打ち合わせに使うことができるほどのレベルだ。こちらは椅子が赤くておしゃれな感じ。 食堂の外には売店や自動販売機コーナーがあるテーブルの並んだオープンスペースがあって、このビルで働く人たちのくつろぎの場所になっている。
「今日のランチは鶏のからあげ定食」
「えっ」
「うそだよ。冗談」
「えー」
 一瞬あせったよ。今、食べているものと同じじゃん、って。わたしの驚いた顔が可笑しかったのか、孝一郎さんがにこっと笑った。
 今日は午後に出かけてしまう金田さんたちとやっておかなければならない仕事があって、結局お昼は金田さんたちが出かけてしまった後で買ってきたパンを自分の机で食べた。ひとりで留守番だし、手早く済ませられるし。だから食堂には行けなかった。
 八月になればすぐに金田さんが退職してしまう。トーセイ飼料の定年退職は六十三歳の誕生日と決められていて、金田さんの誕生日は八月三日だ。定年退職を一年早めた金田さんは六十二歳の誕生日ということになる。定年退職後も再雇用を望む人は多いけれど、金田さんは自分のお店を持ちたいという夢をかなえるために再雇用も再就職もなしで辞めていく。
「今日は後任の所長になる人が来て引き継ぎが始まりました。あと金田さんも一緒に挨拶回りをしなければならないので大変そうなんです」
 そして忘れずに新しい所長のことを孝一郎さんに話しておいた。
「そう。俺から挨拶に伺うようにするから瑞穂もそのつもりでいてくれる? 都合の良い時を知らせてくれれば、それに合わせるから」
「え、でも」
「いいんだよ。お世話になった金田さんと新しい所長にはぜひとも挨拶させてもらいたいしね。あ、親父がもしかしたら行くかもしれないけれど、悪いけどそのときはよろしく」
 孝一郎さんのお父さんは金田さんと気が合って、ときどき金田さんと釣り談義をしにくる。でもお義父さんも忙しい人だし、なにしろ三光製薬の社長だ。来られるかどうかはわからないけれど、お義父さん特有のワンマンな感じで時間を割いて顔を出してくれるかもしれない。相手が三光製薬の社長でも変にへりくだったりせずに節度を守っていながら気さくな金田さんをお義父さんも好きなんだ。 そして孝一郎さんもわたしの上司である金田さんをいつでも大切に思ってくれている。
 孝一郎さんはいつものように夕食の後片付けも手伝ってくれたけど、わたしは今朝寝坊してできなかった洗濯をしなくては。ふたりだけで洗濯物が少ないからいいけど。あ、それと明日の夕食とか考えておかないと。わたしって家事になると要領悪い。料理だって行きあたりばったりでやろうとすると絶対にうまくいかない。ネットで短時間で作れる夕食っていうのを調べてみよう。

「瑞穂、終わった?」
 洗濯やらインターネットやらやっていたら孝一郎さんから声がかかった。あ、もうこんな時間。
「あ、うん。もう終る」
「風呂へ入ったら。待っているから」
 半袖Tシャツのパジャマの孝一郎さんが寝室のドアの前で振り返るようにしてにこっとわたしに笑いかけた。この笑顔って何度見ても。さらりと言われた「待っている」という言葉とともにわたしの胸を落ち着かなくさせる。
 待っていると彼が言ったのは、寝室で待っているということだ。入浴を済ませ、肌の手入れをして寝室のドアを開ければ柔らかな光がひとつ灯されていた。孝一郎さんはベッドの上で本を読んでいたけれど、わたしが入っていくと本を脇へ置いて腕を広げた。
「やっとだね」
 そんなに待たせていないのに。膝の上に座らされるようにして抱きしめられるとすぐに唇が触れ合った。馴染んで自然に絡むように交わされるキス。毎日、毎晩、こうして交わされるキスだけど、わたしはまだ恥ずかしいような感じがしてしまう。恋人だったときとは違う、夫婦のキスだから。
「ん……」
 やっと唇が離れて頬へつけられながら孝一郎さんの手はわたしの体をなでている。パジャマの上着の裾から入った手がわたしの肌へやさしく触れてきたけれど、胸のほうへ上がってきた手にほんの少し体を固くした。
「大丈夫だよ」
 なにが? そう聞く間もなくすっと手が離れ、かわりに肩を抱かれた。顔をあげたら笑っている孝一郎さんと目が合った。
「今日はこうしているだけでいいんだ。瑞穂、明日も忙しいんだろう」
 まあ、そうなんですけど。
「今日も忙しそうだった。だから今日は食堂へ行けなかったんだね」
 孝一郎さん、わたしが食堂へ行けなかったこと、察していた。
「瑞穂も働いているのに悪いね。瑞穂にばかり忙しい思いをさせているみたいだ」
「そんなことないよ。孝一郎だって忙しいのにいつも手伝ってくれるし」
 それにわたしは恵まれている。このマンションだってわたし達くらいの年代の夫婦にはおいそれと手が出せないものだ。都心に近いし、間取りだってゆったりしている。それもこれも孝一郎さんが三光製薬の副社長だったからだ。それにマンションだけでなくて孝一郎さんはいつでもわたしを見ていてくれる。
「忙しくても幸せ。孝一郎と結婚して、すごく幸せ」
「瑞穂」
 孝一郎さんのきれいな笑顔が少し歪められた。
「そんなことを言われると我慢できなくなる。今日はゆっくり寝かせてあげようと思っていたのに」
 ああ、また孝一郎さんのスイッチが入ってしまったようだ。でもわたしだって同じ。またキスが繰り返されて体が寄り添う。恥ずかしいけれど、体の芯が熱くなる。ちょっと疲れているかもって思ったけれど、やっぱり孝一郎さんとくっつきたい。
 いつもにも増してやさしく、いたわるような孝一郎さんの愛撫に心も体も溶けていく。どうしようもない。孝一郎が好きだから。好きで好きで、どうしようもないから……。


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