副社長とわたし わたしの総務課長様 10

わたしの総務課長様

目次


10


 昼休み終了のぎりぎりの時間にデスクへ戻ると佐伯がすぐに前へ来た。
「袴田さん、だいぶ落ち着いたようなので昼前に病院へ行ったそうです」
 佐伯は袴田を心配して昼休みに医務室へ行ってくれたのだろう。
「わかりました。入社式の準備をするグループを打ち合わせ室へ集めてください」

 佐伯のグループ、そして倉内のグループの総勢十五人ほどが打ち合わせ室へ入る。その社員達の前へ行く。
「これから会議場で入社式の準備です。リーダーの佐伯さんの指示に従って準備を進めてください。それから」
 倉内を見たが倉内は目を合わせようとしなかった。
「倉内さん、袴田さんが病院へ行ったことは聞きましたか」
 倉内は答えなかった。

「倉内さん」
 もう一度呼ぶと倉内がのろのろと顔を上げた。
「あなたが今、しなければならないことがわかっていますか。どうするかを決めるのはあなたがたで私がどうこう言うことではないが、一刻も早くきちんとした責任の取り方を決めなさい。今日はもう仕事をしなくていい。帰って袴田さんと話し合いなさい」
「ですが、仕事が」
「まだそんなことを言っているのですか。倉内さん、逃げないでください。プライベートなことに踏み込むなど私もしたくない。だが、あなたも三光製薬の社員だが、袴田さんだって大事な社員だ」

 誰もなにも言わずに聞いていたが、まわりの社員達の目が倉内へ集まっている。倉内がどうするのか。
「しかし、課長」
 倉内の言葉にまわりの社員たちの固まったような空気。倉内に対して何人かの女性が非難するような目を向けている。
「どういった経緯があったのかは知りませんが、人として優先するべきことがあるのではないのですか」
 視線を下げた倉内の目がまわりを落ち着かなげに見ている。
「倉内さん」
「は、はい」
 倉内が打ち合わせ室から自分の席へ戻った。そそくさと出ていく。


「常盤課長」
 しんとして見ていたまわりの社員達の中から声をかけてきたのは佐伯だった。
「そうでした、入社式の準備ですね。倉内さんの抜けたぶんは私がフォローに入ります。さあ、始めましょう」
 総務を出ると入社式のセッティングを担当する社員たちが一斉についてくる。会議場に着くと佐伯にセッティングの手順の指示を出すように言った。
「最初にテーブルを片付けて人数分の椅子を出します。それを並べて……あの、でも本当に課長もおやりになるのですか?」
「もちろん」
 そう言うと佐伯が少し驚いたようだった。
「ありがとうございます」
「礼を言われることではないと思うけど」
「前の課長はいつも指示だけだったので。あの、それと袴田さんのことも、ありがとうございました。まだどうなるかわからないですけど、とりあえず」
「そうですね。袴田さんにとって良い結果になるかどうかはわかりませんが、私にできることはこれくらいしかない。でも佐伯さんも心配してくれてありがとう」
「いいえ」
 そう言った佐伯はいつものような素っ気ない返事ではなかった。

 会議場に並べてあった会議用のテーブルを後方の壁面パネルを開けて収納するとともにそこにある椅子を運び出す。若い男性社員たちが率先してそれを行い、椅子を手分けして並べる。必要な備品は運び込まれていて、一段高くなった壇上に演台やテーブルなどを準備すると社旗を飾り、照明をチェックした。その他の細かいことも社員たちによって次々と用意されていく。どの社員たちもてきぱきと動く。
「飾る花は明日の朝、届きます。あとはマイクのテストをしてそれで終了です」
 佐伯が壇上のマイクを示した。
「課長、お願いします」

『テスト。いいですか』
「課長、音量を調節しますのでなにか話していてください」
 社員が後ろから言う。自然と皆の視線が壇上へ集まる。
『……皆さん』

『袴田さんが会社を辞めなければならなくなった理由は個人的なことだと言ってしまえばそうなのですが、できればそんな理由で辞めて欲しくなかった。倉内さんにはああ言ったが、上司としてそういう事にどこまで踏み込んでいいのか私には自信がない。だが、これが袴田さんや倉内さんに今できることだと思っています。 これからもなにかあるかもしれませんが、その都度精一杯やっていくしかありません。皆さんと力を合わせてやっていきたい。準備、ご苦労様でした』






 三光製薬のビルの最上階の広い廊下。
 夕方の暗くなり始めた窓の外の景色の中に無数に光るさまざまな光。室内の明るい灯りがガラスに映る。
 社長室へ行ったが、俺が行くことをさっき伝えておいたのに姿の見えない社長はどこかと問うと秘書が社長はトーセイ飼料だと言う。
 トーセイ飼料の部屋では社長である父親と真鍋副社長がのんびりと茶をすすっていた。そばでは瑞穂が茶菓子らしいものを皿に乗せている。

「……なにをしているんですか」
「なにって、おまえは見てわからんのか」
「社長、ここはトーセイ飼料さんですよ」
「そんなことはわかっている」
「瑞穂さんの仕事の邪魔をしないでいただけますか」
「まったく話しの通じないやつだな」
 父が憤然と答える。
「まあまあ、孝一郎君。瑞穂さんの淹れてくれたお茶はおいしいですよ。君もいただいたらどうですか」
「副社長、あなたまで」

「おふたかたとも茶が飲みたいのでしたらご自分の秘書に頼んだらいいじゃないですか。どうしてここで」
「瑞穂さんの淹れてくれた茶が飲みたいからに決まっているだろう。孝一郎、うるさいぞ。ぎゃあぎゃあ言うなら戻れ。瑞穂さんに迷惑だ」
「あの、孝一郎さん」
 瑞穂が言いかけた。が、親父がそれをさえぎる。
「いいんだ、瑞穂さん。こんな余裕のないやつの相手をするな。それよりこの菓子はうまいなあ。もうひとつもらえるかね」
 少し困ったような表情の瑞穂。そしてまったくの自分たちのペースで茶を飲んでいる社長と副社長。小さく息をして気持ちを落ち着ける。
「おっしゃる通り余裕がなくて申し訳ありませんでした。では用件のみお伝えします。入社式の翌日の研修所で話をしていただく件ですが、社長に話していただく時間を一時間取りました。連絡が遅くなって申し訳ありませんが、よろしくお願いします」
 そう言って頭を下げた。

「ほう」
 真鍋副社長がそう言った。
「孝一郎君も苦労したと見える」
「なに、こいつの苦労などまだ序の口だ。なあ、瑞穂さん」
「えっ」
 急に振られて瑞穂が驚いている。
「大事な婚約者をほったらかしにして仕事をしているくせになにが苦労だ。瑞穂さん、こんなやつはさっさと忘れていつでも他の男に乗り換えてもいいからな」
 瑞穂が目を見張っている。
「あの、それはあんまり」
「瑞穂、本気にしなくていいんだ。この人たちはわざと言ってるんだから」
「わざと?」
 瑞穂が今度は俺に驚いた目を向けた。

「そんなに俺をからかって面白いですか? 谷崎さんのことで俺をあおったのもおふたりの共謀でしょう?」
「おや、気がついていましたか。孝一郎君」
 にこにこしながらそう言う真鍋副社長と、答えなくてもふてぶてしい表情の父。思わず我慢していたため息が出る。

「あ、あの、谷崎さんのことって?」
 怪訝そうな瑞穂の声に真鍋福社長がなんでもありませんよ、と瑞穂へ言って笑う。
「ここに谷崎さんという人が来ていたでしょう? あの人のことをちょっと孝一郎君に匂わせたまでですよ。もちろん瑞穂さんには関わりのないことですが、若い人をかまうと楽しいものですから、ついね。瑞穂さん、許して下さい」
 瑞穂はまだあまりよくわかっていないという顔。
「おふたりの酔狂に瑞穂さんまで巻き込まないでください。なんだってあなたがたは」
「なぜ? 孝一郎君、なぜ私や社長が君をかまったのか、その理由まではわかっていないようですね」


「孝一郎君、君は瑞穂さんと結婚の約束をして婚約もした。しかし仕事だからといってそのままにして式のことも決めてないそうじゃないですか。女性にとってこんなに不安なことはない。しかし瑞穂さんはそんな不安は言わないでしょう。精一杯君のことを考えている。君は瑞穂さんという女性を手に入れながら彼女に甘えるばかりだ。 副社長を辞めて総務課長になったのも、社長が君の考えを尊重して降格を認めたのはわかりますが、私からすれば自分勝手も甚だしいと言いたい。そしてなにより君は瑞穂さんの気持ちを後回しにしていませんか。待たされる瑞穂さんの身になってみなさい」

 返す言葉もなかった。
 真鍋副社長にも、父にも。そして瑞穂にも。
 見下ろす瑞穂の肩が強張っているように見える。ああ、今、瑞穂に泣かれたら……。

「……お言葉ですが」
 口を開いたのは瑞穂だった。

「わたし、待たされているなんて思っていません。孝一郎さんはとってもがんばっていると思います。慣れない仕事でも。孝一郎さんは総務課長になってまだ二ヶ月です。これからだんだんとその結果が出てくるんじゃないんですか? おふたりとも本当は孝一郎さんに期待なさっているんでしょう? だったらそんなことはおっしゃらないでください。そんなことをおっしゃる人に出すお茶なんてありません!」

 瑞穂がさっと湯呑を下げた。言葉だけではないその行動にあっけにとられたような父と真鍋副社長の顔。まさか瑞穂がそんなことをするとは思っていなかったのだろう。三光製薬の社長と副社長を前にそんなことをするのはきっと瑞穂しかいない。おとなしそうに見えても瑞穂が思わぬ反撃に出ることがあるのをこの人たちは知らない。

「瑞穂さん、怒らんでくれ。これは孝一郎がだらしがないから」
「孝一郎さんはだらしなくなんてありません。いくらなんでもそれは孝一郎さんに失礼です」
 ……親父、瑞穂の火に油を注いだな。
 怒って父を見ている瑞穂の顔。しかしさすがにこっちのほうがたまらなくなってきた。相手が父だということよりも瑞穂の声が震えていることに。

 その時。
「それでこそ孝一郎君の婚約者だ。瑞穂さん、私たちが悪かった。許して下さい」
 副社長が立ち上がると瑞穂へ向かって頭を下げた。
「あ、あの」
「瑞穂さんは孝一郎君より仕事がわかっていますね。それに孝一郎君のなによりも強い味方だ」

 真鍋副社長が俺に向き直った。
「孝一郎君が瑞穂さんに惚れた理由はこれだったのですね」
「はい。初めて会った時に秘書の稲葉に食ってかかっているところを見たその時から、ぞっこんです」
「なるほど」
 真鍋副社長の大きな笑い声に瑞穂の顔が一気に真っ赤になった。

「ではこれで失礼します。社長、副社長、ありがとうございました。明日の入社式はよろしくお願いします」
 姿勢を正し、ふたりに向かって一礼した。
「瑞穂さん、そこまで孝一郎君を送ってあげなさい」
「はい。ありがとうございます」
 真鍋さんにそう言われてまだ顔の赤い瑞穂がとなりで同じように一礼した。




「瑞穂」
 エレベーターホールまで来るとついてきていた瑞穂の手を握った。
「すまなかった、瑞穂。真鍋さんの言う通り俺は瑞穂の気持ちを後回しにしていた。すぐに結婚式を挙げられるようにしよう。瑞穂のお父さんとお母さんにもお詫びしなきゃならない」
「いいんです。わたし、本当に待たされているなんて思ってない。孝一郎さんはきっと今は仕事をしなければならない時期なんだと思います。男の人ってそういう時期があるって金田所長も言ってました」
「金田所長が」
「そうです。男にはそういう時期が必要だって、若い時にそういう時がないとだめなんだって言ってました。あ、なんだかわたしがお説教しているみたい」
 思わず笑った。瑞穂もほっとしたように笑っている。
「瑞穂はなかなか僕の手を抜かせてくれない」
「手を抜く気なんてないのに、なに言ってるんですか」

「じゃあ、仕事が終わったら迎えに来る」
「え、でも孝一郎さん、今日は早く終わるんですか?」
「前日に準備が終わらないようでは仕事じゃない。だろう? それに今日の一日を瑞穂抜きで締めくくるつもりはないよ」
 瑞穂の顔がエレベーターホールの灯りに明るく照らされている。
「あのう……」
「うん。なに?」
「ううん、なんでも。じゃあ、待ってます」

 エレベーターへ乗ると向きなおった孝一郎さんにわたしは思い切って手を振った。孝一郎さんがほほ笑む。扉が閉まるまでわたしを見ていた孝一郎さんの顔はいつもの笑顔だった。やさしいほほ笑みを浮かべている、わたしだけの……。
 扉が閉まり、下降するエレベーターのランプが消えるまでわたしは見送っていた。


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