白 椿 20


白 椿

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20


 翌日、礼郷は朝早く家を出て時沢へ向かった。そうせずにはいられなかった。

 宮原酒造には女性がひとり座って店番をしていた。
「久保田といいます。あの、久乃さんは」
「あ、久保田さん」
 その女性がすぐに礼郷に気がついた。
「前に横浜の日本酒フェアでお会いましたよね。わたし、久乃ちゃんのいとこの香織です。今日は和史くんの保育園の運動会なものですから、おじさんたちも一緒に保育園へ行っているんです」
「そうですか……」
 香織が言うのを聞いて礼郷はどうしたものか考えていたがどうしようもないだろう。
「あの! 久乃ちゃんに会いに来てくれたんですよね。よかったら保育園のほうへ行ってもらえませんか。久乃ちゃん、町の人にあなたとのことをいろいろ噂立てられて、お父さんにも反対されちゃって。保育園には近所の人達も見に来ているでしょうけど、でも久乃ちゃん、きっと……」
 香織が思い切ったように言う。
「ここからまっすぐ行ったところですからすぐにわかります。看板が出ていますから」

 言われたとおり道を行くと町立の保育園というのはすぐにわかった。にぎやかな声と音楽が聞こえている。

『うさぎ組の皆さん、おうちの人と並びましょう』
 後ろのほうから見ているとマイクの声を合図にしたようにちょうど久乃が和史と手をつないで園庭の中央へ出ていくのが見えた。そのまま礼郷は園庭を囲む人垣の外から目立たないように見ていた。
 小さな体に白い半袖の体操服を着て赤い布の帽子をかぶった和史の両手を久乃は腰をかがめて取り、お遊戯のような体操のようなものをしている。まわりの子どもたちも和史と同じ3、4歳くらいだったが一緒にいる親は父親がほとんどだった。
 父親との体操なのか……。
 やがて父親たちが子どもを抱きあげて高い高いのように持ち上げる。久乃も和史を高い高いしている。きゃっきゃっという子どもたちの甲高い声が音楽に混ざって響く。
 輝くような健康な笑顔で笑う和史。いつか見た薄いピンク色のトレーナーとジーンズの久乃。笑顔で和史を抱きあげている。ふっくらとした和史の頬へ頬を寄せてくるくると回るふたり。
 くるくる、くるくると……。

 その後に親子が一緒に走る競技が終わると大きな拍手で子どもと親たちが園庭の周りへ張られたテントのほうへ戻り始めた。
『次はヒツジ組さんの玉入れです。ヒツジ組さんは――』
 礼郷はそっと人垣から離れた。見慣れぬ礼郷の姿に町の人たちがちらちらと視線を投げ始めていた。
 何も言えない。

 久乃には久乃の生活がある。
 香織から聞いた久乃が会えないといったその理由。自分がその原因を招いたのだ。
礼郷にとっては気にならなかった小さな町の人の目。この町で暮らす久乃の立場。和史への責任。
 久乃が礼郷と一緒に暮らしたくないのではない。久乃がそうすることを望んでいてもできない事なのだ。たとえ今、ここで久乃へ話しかけてもこの町での久乃の立場をめちゃめちゃにするだけだ。
 声をかけることも、なにをすることもできない……。



 運動会を終えて帰って来た久乃へ香織がすばやく耳打ちした。
「ひさちゃん、久保田さんここへ来たんだよ。保育園へ行ってもらうように言ったんだけど。来た?」
 礼郷が。
 けれども礼郷が保育園へ来たのかどうかわからなかった。
「わかんない……」

 すれ違ってしまった。
 もう……もう、会えないかもしれない。
 礼郷……。


 久乃の父と一緒に風呂へ入ってさっぱりとした和史。運動会のごほうびで保育園からもらったジュースを飲んでいる。母の作ってくれた料理の並ぶ夕食。和史の好きなものが並んでいる。 夕食を食べておなかいっぱいになった和史は歯磨きをさせて布団へ連れていくと横になったかと思うとすぐに眠ってしまった。久乃がまた1階へ降りていくと母が尋ねる。
「和くん、寝た?」
「うん」
「あらあら、バタンキューねえ」

 にぎやかな夕食。温かい家。穏やかな眠り。
 そうしてわたしも育ててもらった。

「お父さん、お母さん、わたしここにいるよ」
「久乃」
「わたしには和史がいるもの。お父さん、お母さんがいるもの」
 黙って父が頷いた。母は何か言いたげな視線だったがやはり何も言わなかった。

 どんなに好きでも……
 どんなに恋しくても……

 わたしはここから出ていけない……
 


2009.05.13

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