白 椿 18


白 椿

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18


 礼郷が1月の年明けにアメリカへ向かうまでにもう2か月もない。
 会いたい。会いたい。
 思いは募るのに、でも会えない。
 礼郷も久乃の家へ来てくれるつもりで予定を調整してくれていた。宮原酒造では例年1月から酒の仕込みが始まるので今はすでにその準備が行われていたが、仕込みが始まってからの気の抜けない忙しさに比べたら久乃の父もまだ余裕があって、来週行われる和史の保育園へ
入って初めての運動会をとても楽しみにしてくれている。 礼郷が両親に会ってもらうのなら今が一番いい時期だろう。
 久乃は運動会が終わったら礼郷に来てもらうことにして、自分からも礼郷のことを父へ話しておかなければと思っていた。

「久乃、ちょっと来なさい」
 父に呼ばれて久乃は工場の事務所から家へ戻った。父は商工会の会合へ出かけていたが、もう帰って来たらしい。家のほうで呼ぶなんてなんだろう。
 父は腕を組んで座り、母は部屋へ入ってきた久乃を困ったように見ている。
「おまえ、男と会っているのか」
「え……」
「お父さん、そんな言い方って」
 母の言葉を父は抑える。
「どこの誰だ? おまえは自分のことがわかっているのか。和史がいるのに」

「お父さん、わたし、話そうと思っていたの。その人は……」
「この間、出かけたきりなかなか帰ってこなかったときに会っていたんだな。こそこそ電話ばかりしていると思ったら……。おまえは和史がいるのに男と会ったりして、まわりの人にどう言われているか知っているのか。お父さんは広田屋さんから聞かされた。おまえが男と会って車で送り迎えさせているって」
 
 まわりの……人って?
 それは……?

「久乃、ちょっと会っただけよね。友達かなんかよね。そうよね、久乃」
「お母さんはそう言うけれど、どうなんだ久乃。お父さんは町の商工会の人たちがいる前で広田屋さんに言われたんだ。圭吾が亡くなっているからかまわないと思っているのだろうが、あんまり圭吾の家の人たちの気持ちを逆なでしてくれるなってな」
 
 広田屋さん……商工会の人たちのいるところで……圭吾の家の人の……

 手足から血の引いていくような冷たい感覚。

 広田屋は宮原の酒のほとんどを卸している町一番の大きな酒屋で町の顔役でもあった。そしてなによりも広田屋の主人は圭吾の親戚だった。

「お父さん、違うの。彼と会っているけどわたしは……」
「会っているんだな。おまえはどういうつもりなんだ。どういうつもりでその男と会っているんだ」
「お父さん、聞いて。わたしも彼も真剣に結婚を考えているの。だけど彼は仕事でアメリカへ行かなきゃならなくて、でもその前にお父さんが許してくれるなら……」
「結婚? そんな話までしているのか。まったくおまえは」
 父が顔をゆがめて吐き捨てるように言うその言葉に久乃は息を呑んだ。
「お父さんは反対だ。お母さんもだ」

「何のために圭吾にうちの墓へ入ってもらったと思う。圭吾の家だって同じ町なのに。向こうはいくら婿養子だといってもまだ若いおまえに供養を背負わせてしまうのは悪いからと言ってくれたのに、それを遠慮してもらってうちの墓へ入ってもらったんだ。それもみんな和史のためだ。 和史がこの宮原酒造を継ぐときにちゃんとした跡継ぎだって言えるようにだ。それをおまえ
は……」

「誰だ? どこの男なんだ。言いなさい」
 きつく唇を噛んでいる久乃に父が痺れを切らしたように声を上げた。
「おまえが黙っていても調べればわかる。お父さんが話をつけてくる。どこの男だろうと、どんなことをしてもおまえと別れさせる。圭吾の家に顔が立たん」
「お父さん!」
 立ち上がった父を母が止めようとする。
「久乃、お父さんに謝りなさい。ね、謝りなさい。その人は友達だって。もう会わないって。お父さん、久乃もちょっとそんな気になっただけよ。気の迷いよ。だから」
「黙りなさい!」

 お父さん……。
 町の人たちに礼郷とのことがとやかく言われているなんて。お父さんが商工会の人たちの前で恥をかかされることになったなんて ……。

「和泉屋さんの息子さんだよ……」
 座ったままの久乃の言った言葉に父と母の動きが止まった。ぎょっとしたようにふたりが立ちつくす。
「和泉屋さん? 和泉屋さんだって……?」

 昔は時沢の宿場の本陣だったという家の家系がすでに途絶えている今、時沢にとどまっていれば久保田家が一番の旧家だった。資産家というほどではなかったが久乃の家、宮原家よりも広田屋よりも古い家柄だ。その旧家の名が出て驚いて父も母も黙りこんだ。

「じゃあ、この間亡くなった和泉屋さんの総領(跡取り、長男)か……。それでおまえ、東京の葬式に」
「気の迷いなんかじゃない。わたしは……」
「久乃!」
 母の悲鳴のような声に久乃は涙が落ちた。
「結婚したいって思っている。彼だって」
「だが東京の人間だぞ。この町から出て行った家の人間だぞ。この町を出て東京なんかに行った……この町へ戻ってくるはずがない」

 この町から出て行った人間。
 父の静かに押し殺したような声。父がそんなふうに考えているとは思わなかった。人一倍、町を、ここでの家業を誇りにしている父だとしても。

「彼は和史が立派な跡継ぎになれるように一緒に育てようって言ってくれたのよ。たとえ籍を入れなくても一緒に住めるならって」
「結婚もしていないのに一緒に住むなんて、そんなふしだらなことは許さない」
「お父さん……!」

「じゃあおまえが久保田の姓になるのか。そして和史と3人で暮すのか。そんな不自然なことをおまえは和史にできるのか」
「形じゃないわ。血がつながらなくても久保田さんならきっといい父親になってくれる」
「……おまえ、本気でそう思っているのか。和史は圭吾の親にとっても孫なんだぞ。圭吾の両親が何と思うかおまえにはわからないのか」
 そんな……。

「言うまでもないが和史はこの家の跡継ぎだ。おまえが久保田さんと結婚して、たとえ久保田さんが婿養子になってくれても、宮原酒造を久保田さんに継がせる気はない。久保田さんがこの宮原酒造を継いでおまえとの子どもがいたらどうなると思う? 和史ではなく自分の子どもへ継がせたいと言ったらおまえはどうする?」
「久保田さんはそんなこと……」
「結婚しても子どもは作らないとおまえは久保田さんへ言えるのか」
「どうしてそんなことにこだわるの。久保田さんの子どもができたならその子は久保田さんの家を継げばいいじゃないの。そうすることだってできる。わたしが誰と結婚しても和史とわたしが親子だってことは変わらないんだから。そうでしょう?」
「だったらおまえだけがこの家を出て行きなさい。和史はなにがあってもこの家で育てる」

 ……どうして、どうして。
 和史はわたしの子だ。圭吾さんが亡くなってしまった今は和史はわたしの、わたしだけの子だ。お父さんのものじゃない……。お父さんなんかのものじゃ……。

 父は不意に手を伸ばすと久乃が仕事の時もいつも持っている小さな手提げの布袋をつかんだ。中には久乃の携帯電話が入れてある。
「やめて! お父さん……!」
 久乃の携帯電話が床へ叩きつけられた。音をたてて跳ね返っていく。

 何を言っても父は受け入れてくれない。礼郷の心も、久乃の気持ちも受け入れてはくれない。今となっては……。

 なにもかもが駄目なの……?
 なにもかも……

「久乃……」
 父が黙って出て行ってしまった後、母がおろおろと久乃を見ていた。けれども久乃は立ちあがった。2階の部屋へ行くしかなかった。
 


2009.05.06

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