白 椿 16


白 椿

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16


「亡くなられた……」
 街道保存会の会長が久乃のところへ電話で知らせてくれた。あれから何度か病院へ行くようにして礼郷の父を見舞っていたが、礼郷とはなかなか会うことはできなかった。昼間に付き添っている礼郷の姉という人とは話もできて、その人はやさしく久乃を迎えてくれた。 土日には礼郷も来るからと言われたが、和史を連れて日曜日の午後に見舞いに行けたのが1度だけだった。疲れている礼郷の顔を見ても何もできなかった。
 葬儀は東京で行われると聞いて久乃はすぐに街道保存会の会長のところへ行った。
「会長さん、お願いします。わたしもお悔やみに行けるように父へ声をかけてもらえませんか」
「そりゃいいけど、でもわざわざ東京まで」
「お願いします。わたしも和泉屋さんにお別れをしたいんです」
「あんた、わたしらと一緒に行った後も見舞いに行ってたもんなあ。まあ2、3人くらいで行こうと思っていたからいいだろう。お父さんへも言っておくよ」
「ありがとうございます。お願いします」
 会長は久乃が見舞いに行っていたことを思い出すと急に訳知り顔になったようだった。会長は副会長も一緒に行くつもりだったが、あの人は仕事でどうしても行けないから代わりに久乃をと言ってくれた。
「俺らは東京の電車とか不慣れだからねえ、若い人が一緒のほうが安心だから」
 久乃の父にもそう言ってくれた。

 久保田家の自宅近くの葬祭ホールで行われた葬儀では葬儀の始まる前に礼郷と言葉を交わすことができた。街道保存会の会長と一緒に来た久乃へ礼郷は礼を言った。
「ありがとう、久乃さん。父も久乃さんの見舞いを喜んでいたよ」
「礼郷さん……」
 それだけしか話せなかった。


 数日の喪の休みを取った後、会社へ出社するようになってほどなく礼郷には部長から改めてアメリカでの研修勤務の話があった。
「君のアメリカ研修は本当ならもっと早くてもよかったはずだ。これ以上先延ばしにしては君の今後に関わる。来年から2年間の予定でどうだろう」
 もう断れないことは礼郷にもわかっていた。父が亡くなった今、延び延びにしていたアメリカ行きをこれ以上延ばすことはできなかった。


 久保田家の時沢での早めの四十九日の法事と合わせて納骨も行われるという日に久乃は当番ではなかったが時間を見計らって和泉屋へと行った。しばらく待っていると街道保存会の会長もやって来て、当番でいたおばさんや久乃と一緒に和泉屋の前に立った。
 やがて旧街道を寺へ向かう喪服姿の礼郷や孝子たち家族と親戚の人たちが歩いてきた。礼郷が和泉屋の前まで来ると一礼する。
「父が大変お世話になりました。父も時沢へ戻ってこられて喜んでいると思います。街道保存会の皆さん、ありがとうございました」

「当主さんの代が変わってもこの建物は変わらないんでしょう?」
「そうだろうさあ。文化財になっているから今さらどうもこうもしないだろう」
 当番のおばさんが尋ねると会長はそう答えていた。

 夕方のまだ明るいうちに久乃はもう一度和泉屋へ行った。久乃は以前からこの家の鍵を街道保存会の会長から預かっていたが、鍵はかかっていないことはわかっていた。
 家の中は外よりは暗く、物音もしない。久乃が座敷へ上がっていくと奥の座敷の縁側の廊下の柱へ寄りかかるようにして礼郷が立っていた。もう喪服ではなかったが礼郷はこの家の中の影のように立っていた。
 久乃の手がふれるとやっと礼郷が振り向く。抱きついた久乃の肩へ顔をつけるようにして久乃をきつく抱き寄せる。
「れ……い」
 あえぐように久乃の声が途切れる。礼郷のきつく抱きしめる腕、口づけ。
「礼郷……」
 久乃が腕を回して礼郷の顔を抱いて、彼の頬にキスしながらつぶやくと礼郷はやっと腕をゆるめた。
 それでもむさぼるように抱き締め合う間、礼郷は黙ったままだった。それが久乃を余計に悲しい気持ちにさせる。礼郷の胸に抱きしめられて唇の震えてしまいそうになる久乃を礼郷はキスでなだめる。

 慰められているのはわたしのほうだわ……。

 悲しくて、でも礼郷はもっと悲しいのに違いないのに。
 父親が亡くなったことで今後の久保田家の当主は礼郷だ。この家は礼郷の住まいではないけれど、父の死によって礼郷へ引き継がれるこの家の中で彼は何を思っていたのだろう。

 ……わたしは何もできなかった。礼郷のお父さんはいつでも穏やかにわたしへ話しかけてくれた。それなのに看病の手伝いも、一緒にいることすらも……。
 礼郷はそれでもわたしを慰めてくれるの……?

 礼郷の手で体がなでられてキスが激しくなるとうまく息が継げなくなって久乃が礼郷の唇を逃れた。
「……ごめん、大丈夫?」
「うん……」
 壁へ寄りかかるようにした久乃の額に礼郷は自分の額をつけてそっと言った。
「久乃……好きと言って」
「好き」
「愛していると言って」
「愛している」
 子どものように礼郷が繰り返す。言葉をふたりの拠りどころにするように。
「愛している。僕も久乃を愛している」

 もう一度ふれあわせた唇が何度もキスをする。お互いを離そうとしないように抱きしめ合う腕。それでも礼郷は顔を離した。
「今日はありがとう。もう帰るけど……今度は僕から電話するから」
「いや……」
「久乃」
「まだ帰らないで……まだ、お願いだから……」

 そのまま礼郷は久乃を連れ出した。久乃は母へ「ちょっと用があって、出かけてくるから」と短い電話をしただけだった。
  


2009.04.29

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