白 椿 13


白 椿

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13


 礼郷の車で連れてこられたホテルへは30分もかからずに着いてしまったけれども、久乃には「連れて行く」と言った礼郷の言葉通りだと思った。どこを走っているのかわからない夜の都会の街の中。さまざまな光や道路の灯りで広い湾岸道路のようなところを 走っていることはわかったが、今、放り出されれば久乃は完全に見知らぬ都会で迷子になってしまうだろう。
 でも迷子になることなどない。ここがどこであっても、ここがどこかを知らなくても。礼郷に握られた久乃の手。もう礼郷は久乃の手を離さなかった。

「やっと来てくれた」
 礼郷の言葉にほほ笑もうとするのに久乃はうまく笑えなかった。
「ずっと待っていたよ」
 それでも礼郷はほほ笑んでくれるのね……。
「ずっと、ずっと待っていたんだ……」

 暗くした部屋の窓辺に立つふたり。夜の星とは違う窓の下に散らばる光たち。久乃よりは背の高い礼郷が向きあった久乃の両肩を柔らかくつかむようにしながら顔を下げてキスをする。あごをあげている久乃の白い首筋。
 繰り返されるキスとともに礼郷の手が自分の素肌にふれるのを感じていた。肩をなでる手が同時に着ているものを肩から落としていく。
「好きだ、久乃。ずっと、ずっと思っていたんだ。……初めて会った時から」
 視線が合う。熱っぽさをたたえた礼郷の瞳。

 初めて会った時から。

 それは時沢のあの和泉屋で会った時から。
 久乃の夫の圭吾が生きていたら決して久乃へは告げられるはずのなかった思い。でも礼郷が久乃へ思いを告げてからも長い時間を礼郷は待っていてくれた。

 ……圭吾が亡くなってからの日々。
 通夜も葬儀もまるで作りごとのように感じていた。泣いても泣いても信じられない気持のほうが強かった。宙に放り出されて地に足がついていないようなそんな気持ちのままだった。それでも変わらずにいる和史を抱きしめて、ひとときも目が離せなくなっていた 和史の世話に追われるうちにそれが平静な日常を思い出させてくれた。むしろそんな日常にまかせてしまったほうが楽
だった。
 人は嫌でも暮らしていくのだから……。

「……わたし」
「いいんだ。言わなくても」
 唇が絡んで久乃の声を封じる。

 言わなくてもいいよ……
 言葉にしなくてもいいよ……

 礼郷が好きになっても圭吾のことを忘れるはずはない。和史のことも、家のことからも離れられない。

 それでも今は何もかも……。
 捨てたわけではないけれど、逃げたわけではないけれど、今夜だけは置いてきてしまった。すべて。

「何も言わなくていいんだ」
 今は何も ……


 またふれ合う唇。
 ベッドへ横たわったふたりの素肌がお互いを抱きしめ合う。腕を回し、確かめ合うように何度もお互いの体をなでる。胸の頂点を口へ含まれると緊張と刺激で張り詰めているそれが礼郷の唇の中で痛いほどに感じる。
「久乃……」
 礼郷の唇がつぶやきとともに胸のふくらみから下へと降りていく。両足が開かれて、そこへふれられた瞬間に自分でもわかるほどの潤み。もう足を閉じ合わせることもできないまま礼郷に開かれている。
 横たわったまま見る礼郷の体、その体は思ったほど細身ではなかったが引き締まった上半身。避妊具をつけている、そんな動作の間もまるで目で愛撫するように久乃から目を離さない。

「う……」
 小さくうめいたのは久乃のほうだった。体は充分に潤っているのにすんなりとそれを受け入れてはくれない。

 どうして、ここまできて。
 そんな思いが湧き上がってきて久乃は首を振った。
 だめ、そんなことを考えては……

「久乃、目を開けて」
 そっと額にかかった髪を払うようになでてくれる礼郷と目が合う。久乃を見下ろしている礼郷の顔は翳ったように暗いけれど彼の目も表情もやさしい。

 いつだってやさしい礼郷。
 あなたのそのやさしさが……

 久乃から伸ばされた手。
 礼郷の頬へ指が触れると礼郷は久乃の手を握って自分の唇へ押しつけた。そしてお互いの指を絡め合いながら唇が唇へ、胸が胸へ……何度もキスが繰り返されて、やがてふたりの体がひとつの形へと組み合わさっていく。
「久乃……久乃……」
 揺れるような礼郷のつぶやき。何度も久乃の名を呼ぶ。

 何も言えないけれど……あなたの元へ来ないではいられなかった……。

 礼郷に翻弄されているような、それでいて自分は横たわってすべての力が抜けて彼の動きだけを感じている。久乃の深みが礼郷の熱さに占められてしまっても、そして礼郷の動きが激しさを帯びたものに変わっていっても動けないままだった。 体のすべてが礼郷を感じることだけを求めている。 彼の息遣いも、揺れる体も、耳に聞こえるふたりのたてる音も。押し寄せるような体の感覚も。
「んあっ……、あ……」
 痺れるような甘い震え。
 久乃の震えと礼郷の震えと……。

「れ……い……」
 息の落ち着かないまま久乃は礼郷の名を呼ぼうとしたが、体が痺れたように動かない。
まだ礼郷がそこにいる。
「久乃」
「……あっ、動かないで……」
 彼がほんの少し動くだけでさっきの震えが戻ってきてしまう。
「かわいい。久乃」
 上半身を起こした礼郷が久乃を見ている。
 そのまま礼郷がキスを繰り返す。何度も、何度も。


 ふっと眠りから覚めて久乃は礼郷に抱かれたままだと気がついた。裸で抱き合い、そのまま眠りこんで礼郷の匂いがする彼の腕の中でまどろんでいた。
 あたたかく上下する礼郷の胸。ゆるやかに抱かれている久乃の体。少し顔を上げて礼郷の顔を見ると久乃の気配に気がついたのか、目を閉じたまま久乃を抱いている礼郷の手に力が
こもった。

 ……ずっとこのままでいられたら。
 言葉にできなくてもそう思うだけなら許される。

 今だけは……。

 久乃は目を閉じた。礼郷も目を閉じている。
 

 願うだけなら。
 祈りのように心の中でつぶやく。

 このひと時が永遠でありますように……

 今だけ、今だけは……
    


2009.04.19

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