白 椿 9


白 椿

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 何事もなく時は過ぎてゆく。
 和史と一緒に過ごす日々。忙しく同じような日常。そうして日々が過ぎても久乃は礼郷へ電話をしていなかった。礼郷からも電話はなかった。

       ……年が明けて和泉屋の裏庭にも椿の花が咲き始めました。
       ここには赤と白の椿が植えられていますが、赤い椿のほうが先に
       咲き始めます。お天気の良い日にはメジロがやってきます。(乃)

 あの後、何回か更新した街道保存会のブログに久乃は記事の最後に「乃」という文字を書き入れていた。この記事を書いた署名代わりのつもりだった。

 和史にはまだ手がかかったが、久乃は少しずつ家業を手伝っていた。今は結婚前から手伝っていた事務や地元への小口の配達の仕事が主だったが、いずれ営業関係も手伝うつもりだった。久乃の父は職人気質で杜氏としての腕は良かったが販売や営業は苦手で、これまで地元だけで売っていた宮原酒造の酒はたいして知名度がなかった。 そういうことを補う意味でも久乃の婿へ次代を担ってもらうつもりでいたのだが、圭吾のいなくなってしまった今、久乃はできる限り自分が仕事として家業を手伝っていこうと思っていた。
 久乃は女だったから男の仕事である酒造に関することは知識として知っているだけだったが、工場のほうは杜氏たちを率いる父もいるし若い杜氏も育てていた。酒は同じ町内の大きな酒屋へほとんどは卸し、販売のほうは安定していることはしていたがこんな小さな町の蔵元だ。なにもしなければやがては先細りになってしまうだろう。

 そして以前から予定していたことだったが、2月に久乃は夫の三回忌を行っていた。実質には亡くなって2年の法事だった。圭吾の実家の両親や親戚の人にも集まってもらい法事をとりおこない皆が故人を偲んでくれたが、それよりも小さな和史の成長を誰もが喜んでくれた。人はやはり小さな子どもの成長を喜ぶものだ。 それが久乃へのいたわりというように、久乃と和史が元気に過ごしているのが何よりだと思わせてくれた。

 2年。
 圭吾が亡くなってからの2年、それが長いのか短いのか。

 久乃は夜、眠ってしまった和史の横で携帯電話を握って考えていた。法事も終りまた戻ってきているいつもの日常。毎日、泣いたり笑ったりの和史がやっと寝て静かになる家の中。

 今、この携帯電話が震えたら……わたしは……。
 彼は……。

 コートを着てそっと家の裏口から外へ出る。和泉屋へ行くと音をたてないように鍵を開けて静かに中へ入った。暗く静かに冷え切っている家の中。灯りをつけずに座敷の上がり端をたどるように土間の奥へ入り一番奥の座敷へ上がった。裏庭の縁側のガラス戸からは小さな庭が見える。
 
 礼郷さん……。

 久乃はコートの襟をかき寄せてガラス戸から庭を見ていた。冷え切ったガラスに額をつけると久乃の息でガラスが曇る。
 この夜は久乃に、礼郷に、同じように広がる夜。同じ夜のもと、でもこんなにも離れている。

 庭は家の中ほど暗くはなく、月明かりにわずかに照らされている。低木のしげみ、置かれた石の輪郭。紅色と白色のそれぞれの花をつけている椿の木々。
 その時、夜の空気の中で椿の枝がふっと揺れて、音もなくただ葉が揺れた。葉の揺れる気配がしてもすぐには花が落ちたのだとは気がつかなかった。闇に目を凝らしてやっと花が落ちたのだと悟る。一瞬の落花。

 ……なぜ。
 なぜ椿の花は花ごと落ちるのだろう。ほかの花は花びらが散っていくのに。椿の花はふいに前触れもなく音もなく、抜け落ちるように花ごと落ちていく。

 礼郷さん。
 今、あなたは……?

 久乃は持ってきた携帯電話を開いた。

『……久乃さん?』
 礼郷の少し驚いたような声。
「はい」
『電話してくれたんだね』
「はい。今……和泉屋さんにいるんです」
『和泉屋に。そう……』
「礼郷さんのことを考えるときはいつもここへ来るんです。もう何度も来ました」
『そして電話してくれたんだね』
「はい」
『僕も、いつも久乃さんの書いたブログを見ながら久乃さんのことを考えている。いつも』
 やはり彼は見ていてくれた……。
「礼郷さん」
『うん』
「また……電話してもいい?」
『うん、待っているよ。……久乃さん』
「はい」
『好きだ』

 静かな家の中で久乃には自分の呼吸の音だけが聞こえている。
「……わたしも」


 運命のように。
 咲いて落ちる運命のように。

 ……わたしも……
 


2009.03.15

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