白 椿 8


白 椿

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『……こんばんは』
「あ、久乃さん?」
『電話……してしまいました』
「うん」
『……あの、ちょっとお願いがあるんですが』

 もしかしたらもう久乃から電話はもらえないのかと礼郷が思い始めた頃だった。夜遅くかかってきた久乃からの電話。礼郷は自分の部屋のリクライニングチェアに座っていた体を引き起こして座りなおした。あまり大きくない久乃の声を聞きもらすまいと耳を澄ます。

『寝ていました? ごめんなさい、夜遅くに』
「いや、寝ていないよ。寝ていたとしても久乃さんからの電話で起こされるのならいつでも歓迎だよ」
 礼郷の冗談めいた言葉に久乃が小さな声で笑ったようだった。

『この次に時沢へ来たときでいいんですけど……会えますか?』
 飾りのない久乃の言葉に礼郷の顔から笑顔が引っ込んだ。
「もちろん。僕も会いたい」
『あんまり長い時間は出かけられないけれど、それでいいのなら……』
「じゃあ、平日はどうだろう? 僕は休みが取れるから」
『すみません』
「いいんだ、謝らないで。僕が行きたいんだから」

 久乃のためらうような小さな声。電話することを何度か迷ったのだろうか。それとも家族に聞かれないところでこっそりと電話をしているのだろうか。それでも久乃は電話をしてくれた。彼女のほうから。


 礼郷が来てくれる日はあらかじめ外出の用事を作っておいて久乃は出かけた。とはいっても母へ和史を預けて出てきているからあまり長い時間は出かけられない。車で来た礼郷にもそれがわかっているらしく「遠くへ行かないほうがいいよね」と言って近くをドライブしてくれた。
 町を見下ろす高台へ行き、車を止める。ずっとむこうに広がる田んぼや畑と町の中心へ行くにしたがって増える家々。細く見える鉄道の線路や河川敷。10月の晴天に晴れ渡った午後の陽の光にどこまでも照らされている。
「いい天気だね」
「はい」
「こんなに陽の光を浴びたのは久しぶりだよ」
 礼郷の顔はやさしく久乃を見ている。電話で話していてもわかる、明るいのに穏やかな礼郷。

 都会の男の人ってみんなこんななのかな……。
 それともこの人だけかな……。

 遅くならないうちに送ろうとすると久乃が県道を西へ行ってくれと言う。10分ほどで時沢の町から隣市に繋がるバイパス道路へ出る。礼郷も通ったことのある道だった。
 しばらく走っていると久乃がパーキングエリアがあるからそこへ車を止めて欲しいと言った。車を止めると久乃が話し始めた。
「礼郷さん、わたしの夫が亡くなったこと……知っているでしょうけど」
「うん、前にお寺で偶然君を見かけて。住職さんから聞いた」
「お寺で……そうですか」
 少し迷っているような久乃の顔。

「こんなこと、本当は……言っちゃいけないのかもしれないけど……わたし、これからも礼郷さんと会いたい」
「言っちゃいけないって、どうして?」
 礼郷が聞き返した。久乃がじっと視線を合わせて礼郷を見ている。
「わたし……」

「わたし、忘れられないと思う」
 ふいにきっぱりと強い口調で言う。
「ここで、この道路であの人が亡くなったの」

「さっきの交差点の手前……反対車線を走っていた大型トレーラーのタイヤが外れて、それで
トレーラーが飛び出してきて。ぶつかったトレーラーが横転してあの人の乗った車が下敷きに
なって」
「久乃さん」
「あの人は酒造組合で研修を受けていて……この道はいつも通っていて、あの日も家へ帰ってくる途中だった」
 久乃の声がだんだん震えてくる。
「待っていたのに。和史が待っていたのに。わたしが待っていたのに」
「久乃さん」
「彼はいい人だった。わたしにやさしくしてくれた。宮原酒造を継いでくれるはずだった。それなのに……」

 ぽろりと久乃の頬へ涙が落ちる。しずくだけが落ちるように。
 でも久乃は泣いていなかった。涙が落ちていても泣こうとしないような顔だった。そんな久乃を抱きしめることもできず礼郷はそっと久乃の肩へ手を乗せた。
「まだ2年も経ってないのに……礼郷さんにこんなこと……忘れられないのに……」

 方向を変えて時沢の町へ今来た道を戻る。久乃が交差点の手前、と言ったところを通り過ぎる時に久乃は横を向いてじっと窓の外を見つめていた。
 礼郷からは見えない久乃の顔。礼郷は何の言葉もかけられなかった。

 言わずにいればそうすることもできたのに。
 久乃の夫が生きていれば決して告げるはずはなかった礼郷の気持ち、それが久乃を揺らしている。
 礼郷は久乃から会いたいと言われて自分の思いが通じたと思って来ていたのに礼郷はまた打ちのめされるような思いだった。東京へ来た久乃を思わず抱きしめてしまった時のように。

 今、久乃の心を揺らしているのは自分なのに。
 これからも礼郷に会いたいと言ってくれた久乃。それなのに久乃が、久乃が抱えているものが礼郷を打ちのめす。

「久乃さん」
 車を降りようとした久乃を礼郷は呼びとめた。
「忘れなくてもいい。無理に忘れろなんて言わないよ。和くんのお父さんだもの。忘れられるはずがない」
「礼郷さん……」

 久乃はもう目をそらすこともうつむくこともせず礼郷を見つめていた。
「僕が久乃さんを好きでいてもいい? これからも」
 また長く待つことになっても。
「電話、待っている」
「はい……」
 


2009.03.08

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