白 椿 7


白 椿

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 父の病状は変わりがなかったが、8月の検診のときに来月には入院してもらってまた治療をしましょうという話があった。父もこのところの体調の良さにいつもほど嫌がらずに入院をしてくれた。9月になって父が入院して数日後、礼郷が土曜日に見舞いに来ていた。
「おととい、街道保存会の会長が見舞いに来てくれてね」
 地元の人が多いこの病院は受付と会計の前にあるロビーや待合室がまるで世間話の会場のようになっている。誰かが父を見かけたのだろう。遅かれ早かれ父が入院していることは地元の人たちへ知れてしまうだろうことは予想していた。
「おまえも会長に会ったら礼を言っといてくれよ。それからあと誰が来たと思う?」
「誰? 会長さんと一緒にですか?」
「いや、一緒じゃない。ほら、あの川上屋の娘さんだよ。あの子も東京での交流会へ来ていたそうじゃないか」
「ええ、そうですね」
 礼郷の返事にはっきりしないものを感じたのか父はおや? という顔をした。
「今、買い物を頼んでいる」
「え、誰に?」
「来ればわかるよ」

「失礼します」
 静かにノックがされてドアを開いて入ってきたのは久乃だった。手にはビニール袋を持っている。
「久乃さん……」
「こんにちは、おじゃましています」
「さっき久乃さんが見舞いに来てくれたので買い物を頼んでしまったんだよ」
 礼郷の驚いている顔をおもしろそうに父は見ている。
「これでいいでしょうか」
 久乃が礼郷の父へ買ってきたものを見せる。ウエットティッシュの箱。
「父さんたら久乃さんに頼んだりして、僕が行ったのに。ありがとう、久乃さん」
「いえ、わたし忙しくありませんので。ではこれで。お大事になさってください」
 礼郷が廊下へ出た久乃へ送ると言ったが久乃は車ですから、と言って行ってしまった。せめて病院の出口までと礼郷は思ったが久乃はちょうど開いたエレベーターの扉の前でお辞儀をするとさっと乗ってしまった。 礼郷が話しかける隙もなかった。

「ずるいよ、父さん」
 病室へ戻った礼郷がぼやき顔で言うのを見て父がわざと渋い顔で言う。
「何がずるいんだ。父さんは何も抜け駆けしてないぞ」
「抜け駆けするつもりだったんですか」
「かわいい子だからな。しかしかわいそうにな、他の人から聞いたんだが、去年の2月に婿さんを交通事故で亡くしたそうだ。子どもだって、あのいつか見た男の子だってまだ小さいだろうに」
「そのようですね」
 礼郷がそう答えると、知っていたのかと父が言った。
「ところでおまえ、いくつになった」
「歳ですか? 28だけど」
「久乃さんはおまえよりひとつ年下だそうだが、宮原酒造のひとり娘で跡継ぎの子どももいる。亡くなった婿さんも時沢の人間だ。むずかしいぞ」


 次の土曜日にまた礼郷が病院へ来ると父は来週には退院できそうだよと言った。それからまた久乃が見舞いに来てくれたことも。いったい父は久乃とどんなことを話しているのだろう。
「おまえが土曜日に来ると言っておいたから面会時間になったら来るんじゃないかな。覚悟しておけ」
 なんの覚悟だ、と礼郷は思ったが黙っていた。

 午後の面会時間になるとやはり久乃はやって来た。礼郷がいることを予想していたのだろう、父を見舞ってくれた後で礼郷が送りに部屋を出ると久乃がエレベーターではなく人気のない階段を降りていく。
「ありがとう、久乃さん。父も久乃さんが来てくれるのを喜んでいるよ」
「いいえ、こっちで入院されるのは大変だなと思って」
 階段の踊り場で礼郷が立ち止ると久乃も立ち止った。
「また電話してもいいかな?」
「……携帯、あ、でもここでは」
 病院の中だから携帯電話を使えない。久乃はバッグの中からパンフレットのような紙を取り出した。
「ここに書いてあるのが街道保存会のインターネットのサイトなんです。その中のブログを書いているのがわたしなので……」
「ああ、やっぱり」
 礼郷が言うと久乃の目にぱっと驚きが浮かぶ。
「知っていたんですか?」
「たぶんそうじゃないかと思っていた。前から」
「えー、嫌だわぁ」
 久乃の口調がくだけた。恥ずかしそうに笑う顔が年相応のかわいさに見える。

「よかったらそのブログを読んで下さいって言うつもりだったんだけど」
「これからも読むよ。じゃあ僕の携帯の番号、ここへ書いてもいい?」
 礼郷がパンフレットの余白に自分の携帯電話の番号を書き込むと久乃を見た。
「僕は浮ついた気持ちじゃないよ」
 差し出したパンフレットを受取ろうとした久乃の手が一瞬止まったようだった。けれども久乃はそのままパンフレットを受け取るとバッグへと入れた。
 


2009.02.27

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