白 椿 5


白 椿

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 講演会も終り、街道保存会の会長たちは近くのホテルに宿を取っているのでそのホテルでお茶でもと誘われて礼郷も一緒について行った。最上階にあるレストランを兼ねたスカイラウンジでは久乃のとなりにさりげなく腰を下ろした。
「みんな、今日はご苦労様でした。久保田さんにも見にきてもらって発表も無事に終ってよかった。まあ明日もあるけど、あとは気楽なもんだし」
「今日は大勢人が来てたなぁ」
 街道保存会の人たちが話し始めると久乃もとなりでコーヒーを飲んでいる。
「久乃さんもお疲れ様でした。良い発表でしたね」
「いえ、わたしはお手伝いしただけなので」
「あの写真は誰が撮ったんですか? もしかして久乃さん?」
「はい。素人ですけど、ああいうの好きなんです」
「そうですか。会長さんたちは今日は東京に泊まるみたいですね」
「明日、街道つながりで他県の人たちと親交会があるそうなんです」
「久乃さんもそれに出るの?」
「いいえ、わたしは帰ります。そのつもりで来ましたから。これが終わって帰れば遅くならずに帰れるし」
「そうですか」
 話しながら何度か久乃が下を見ている。足を気にしているようだ。
「どうかしましたか」
「いえ、何でも……」
「足をどうかした?」
「靴ずれ」
 そう言って久乃は恥ずかしそうに笑った。
「さっきから痛くて。スーツなんてめったに着ないからこういう靴も履くのが久しぶりで。いつも
スニーカーだし。恥ずかしいわあ」
「じゃあ東京駅まで送っていきましょう。僕は車だから」
「え! いいです、悪いです」
 しかし礼郷は久乃の言葉を無視するようにさっと立ち上がると会長のところへ行って話し始めた。久乃もあわててそばへ寄って来た。
「そういうわけで僕も失礼しますので、ついでに久乃さんを東京駅へ送っていきます。そうすれば夕方の急行に乗れるでしょう」
「ああ、そりゃ済まんです。ひさちゃん、そうする?」
「え、あの、久保田さんのご迷惑でなければ……」
「送るくらいなんでもありませんよ」

 スカイラウンジを出てエレベーターへ乗る。
 エレベーターの箱の中はふたりだけで礼郷は扉のほうを向いて立ち、久乃はその後ろで立っている。下降するエレベーターの階を示す表示の点滅だけが動いている。
「久乃さん」
「はい」
「時沢へ……帰るんですよね」
 礼郷は振り向いて向き直ると久乃の手を握った。一瞬の戸惑いに久乃の手が強張る。
「久乃さん、このままあなたを帰したくない」

 驚いたように久乃の目が見開かれる。手を礼郷にとられたまま。
 小さな音がしてエレベーターの扉が開く。前を向いてすっと出る礼郷の手に引かれるままに久乃もエレベーターから出た。エレベーターの前は廊下でロビーのある1階ではなかった。
 久乃が久保田さん、と言った言葉をさえぎるように言う。
「好きだ。初めて会った時から」
 初めて会った時から……。

 そのまま久乃の体を引き寄せた。久乃は嫌がりも抵抗もしなかった。礼郷は久乃の体へ回した腕に力を入れてようとしてふと気がつく。反応のない久乃。
 抵抗がないのではなく、反応をなくしてしまったような久乃。突っ立ったまま、ただ抱きしめられている。久乃の目を覗き込むようにすると思いがけず暗く見える瞳。その瞳に礼郷は思わず腕を緩めた。
「……ごめん、君の気持ちも聞かないで」
 久乃はじっとうつむいている。
「怒った?」
 久乃が小さく首を振ったが、それは決して許してくれたようには見えなかった。思いやりだけでそうしているような拒否。
 礼郷が離れると久乃は体を少しそむけて立っている。彼女の顔もそむけられて見えなかった。重い沈黙のような空気。
「……わたし、失礼します。タクシーで行きますから」
「待って」
「足は大丈夫ですから。すみません」

「……送っていくよ。送らせてほしい。せめて」
 だが、送らせてもらえないだろう。
 強引な行動へ出てしまった自分を恥じて礼郷は久乃の言葉を待っていた。
「じゃあ東京駅まで」
 小さな久乃の声に礼郷は驚いた。久乃は目を合わせなかったが何事もなかったかのように落ち着いて見えた。

 東京駅へ着くと久乃は送ってくれた礼をきちんと言った。
「久乃さん、済まなかった」
 もう一度礼郷が言うと久乃はしばらくうつむいていた。
「……いいえ」
 そう言うともう何も言わすドアを開けて降りる。駅へ入っていく久乃を礼郷は車から出て見送るしかなかった。
 


2009.02.13

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