白 椿 紅椿 4


紅 椿

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 久乃を送って行った日からもう久乃のほうから電話がかかってくることはなかった。また礼郷から電話をしても久乃の返事は以前と同じに戻ってしまった。
 久乃を送って行った夜、久乃はやはり変わってはいなかったと思っていたのに。

「もうお父さんの仕事も落ち着いた頃だろう? だったら」
『でも父は仕事にかかりきりになっていて……今が一番大切な時期なのよ。だから、わたしが父の代わりもしなくちゃならないし……いろいろと……』
「どうしたんだ? 久乃、ちょっと変だよ」
 …………
 礼郷の問いに久乃は返事をしない。
「久乃、聞こえてる?」
 …………
「久乃、返事をして」
『なに』
「とにかく会って欲しい。顔を見て久乃と話したい」
『忙しいって言ってるでしょ!』

 きつい言葉を投げつけられるように言われて礼郷は思わず受話器を耳から離してしまった。久乃らしくない言葉。
「……久乃、いったいどうしたの」
 電話の向こうの気まずい気配。
『……わたしにも仕事を優先させて。礼郷だって仕事でアメリカへ行ったでしょう? 2年も……』
「それはそうだけど。だからこそ僕はご両親に会いたいんだ」
『でも父は……父が』
「久乃はいつでもお父さん、お父さんだね」

『……そんなこと言うのは礼郷らしくない。聞きたくない』
「そうだね。ごめん。じゃあ、またしばらくしたら電話するよ」


 こんなことが言いたいんじゃないのに。

 乱暴に携帯電話を切って久乃は泣きだした。携帯電話を握り締めて、泣き声が出そうになるのを無理やりに押さえ込む。それでも涙は溢れて止めることもできないまま久乃の手を伝う。もうどうにもならなかった。
 息が落ちついてくると母が心配そうに廊下から見ているのに気がついた。母を避けるように部屋から出て工場の事務所へ行く。
 暗い事務所の明りをつけて事務机の前の椅子に久乃は座り込んだ。父はまだ帰ってきていない。きっと融資の話がうまくいってないのだ……。手で顔を覆ってしまう。

 礼郷……
 どうしてこんなことになってしまったの……?



 久乃はいったいどうしてしまったんだ。あんなふうに言ってしまった自分も自分だが久乃があんなことを言うなんて。
 腹が立つというよりもなにか不快さを感じる。溜まっていく澱(おり)のような感情に礼郷はとにかく時沢へ行こうと決めた。こんな気まずいことになって放っておくことはできない。電話ではだめだ。久乃の顔を見て話さなければ。
 思い悩みながら礼郷は和泉屋へ向かった。

「や、これは」
「会長さん」
「久しぶりですなあ。お変わりないですか」
「はい。会長さんや街道保存会の皆さんもお元気ですか」
「ええ、おかげさんで。そういえば久保田さんはアメリカへ行ってたんじゃ」
「はい、でも今度、日本での勤務になって1月に日本へ戻ってきました」
「そりゃご苦労様ですなあ。これからどちらへ?」
 何かを聞きたそうな会長の言葉。
「川上屋さん(宮原酒造)へ行って酒を買おうかと思っていたところです」
「川上屋さんへ、そうですか。……では久保田さんは知っているんですか?」

「川上屋さんへ直接行けば酒は買えますよ。でもね、このへんの酒屋はどこも宮原の酒を置いてない。町の酒屋が置いてないってのは、ほかのどこにも宮原の酒は置いてないってことですよ」
 思いがけない会長の言葉に礼郷は驚いて聞き返した。
「置いてないって、それはどういうことですか」
 街道保存会の会長はやっぱりという顔をした。

「久保田さんは『腐造(ふぞう)』って知っているかね」
「腐造? いいえ……」
「じつは宮原酒造で腐造が起きたってそんな噂が出てしまってね。腐造っていうのは酒を造るときに変なふうに発酵して酒がダメになってしまうことさあ。昔、宮原酒造でもあったんだよ、それが。あれは、そうさなあ昭和30年頃のことだよ。その時は大部分の酒がパアさ。昔はそういうことがあったんだよなあ。 だけど今の時代は技術も管理も進んでいるから腐造なんてまず起きるわけがない。でも、腐造って聞きゃこの町の衆はまだ昔のことを覚えている人間がいるもんで
やっかいなんだよ」
「……それは」
「いや、宮原酒造が腐造を起こしたって、じつのところはそんな噂はたいしたことじゃない。いろんなことを言われても宮原の今年の酒ができたらはっきりわかることだからねえ。でもその前に広田屋さんがもう宮原の酒は扱わないって言い出したもんだから」

「広田屋さんもあんまりなことをやったもんさあ。あ、広田屋さんていうのは屋号でね、ほら、ひさちゃんの亡くなった婿さんは広田屋さんの主人の甥っ子でね。広田屋さんは時沢だけじゃない、県下にいくつも店を持つ大きな酒屋で先代は町長もやっている、まあ町の実力者なんだよ。 そんな広田屋さんが宮原の酒を扱っていたから川上屋さんもこれまでやってこれたってわけさ。昔の川上屋さんの腐造の時も広田屋さんにはずいぶんと助けてもらったそうだけど今度はもう助けるつもりもないって」

「それだって広田屋さんの勝手な言い分さあ。でも本当のところはひさちゃんがやっているインターネットでの販売が気にいらないからそう言ったんだよ。腐造じゃないんだったら酒はネット販売で好きに売ればいいって、そう言ったそうだよ、広田屋さんは」
「どうしてそんなことを……」
 街道保存会の会長は礼郷の顔を見て言いにくそうに続けた。
「広田屋さんは圭吾さんが宮原を継ぐ、そういう腹積もりだったんだろう。だが、圭吾さんが亡くなってしまって圭吾さんとの子どもがいるとはいえ、あんたと、その、ひさちゃんが。だからじゃないかねえ」

 そんなことで。
 そう思わずにはいられなかった。なぜそんなことで久乃が苦しめられるんだ。自分にはわからない小さな町の力関係なのか。

「悪いことに宮原酒造では去年工場の建物の一部を建て替えていてね。それの借入金もあるらしい。とにかく社員や杜氏たちへは給料を払わねばならないしで、もう相当に苦しいって話だよ。ひさちゃんや親父さんが金策に走り回っていてもこの不景気じゃ」

 あまりの腹立たしさに礼郷は必死で怒りをこらえて和泉屋を出た。
 そんなことになっていたなんて。あの久乃の不自然な態度。どうして自分へは話してくれなかったんだ。
 久乃だけが妻だと思い、今までの関係を何とかしたいと思っていたのに。久乃はさらに苦しいことに陥ってしまっても父親を助けようとしている。

 なんとかしたいと思う久乃の気持ちはわかる。
 けれども家業がそんなにも大切か。父親がそんなにも大切か。ふたりの結婚を反対している父親がそんなにも大切なのか。

 苦い思いで礼郷は銀行に勤めている義兄の佑介に電話をしていた。
「お義兄さん、礼郷です。お願いしたいことがあるんですが」



 宮原酒造の工場の事務所では久乃の父がぼんやりとした表情で座っていた。事務所にはだれもおらず、電話の音もしていなかった。宮原酒造を訪ねてきた礼郷を見て宮原酒造の主人は驚いて立ち上がった。
「あんたは……」
「和泉屋の久保田です。以前にもお目にかかったことがあります」
「久乃は……」
「久乃さんは何度電話しても僕に会ってくれません。ですから今日はお詫びに参りました。こんなことになってしまったのは僕にも責任があります。けれども久乃さんを思う気持ちは変わりません。久乃さんとの結婚を許していただけませんか」
「それは……今は」
「今だからお願いしているんです。もうこれ以上久乃さんを苦しめたくない。どうか久乃さんを僕に下さい」
 宮原酒造の主人は疲れた顔を横へ振った。髪も乱れた感じでやつれている。
「それはできんことなのです。今は久乃をあんたへやることも、宮原酒造をつぶすこともできんことなのです。和史のためにも」

 ここまできても。
 こんなことになってもこの人には家業が大切なのだ。家業を手放すことが孫を手離すことだと思っているのか。しかし礼郷はその言葉を呑み込んだ。
「それは久乃さんも同じ気持なのですか」
「そうです……」
「わかりました。でも、もう一度久乃さんと話をさせてください。久乃さん次第では僕から個人的に融資をすることができます。もうその準備もしてあります。ここで待っていると久乃さんへ伝えてください」
 融資という言葉に表情を変えた宮原酒造の主人へ礼郷は1枚のメモを手渡した。
 


2009.06.08

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