白 椿 紅椿 1


紅 椿

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 日々の時間はかわらないはずなのにそれがひどく長く感じられたり短く感じられる時があるのはなぜだろう。
 礼郷がアメリカへ戻ったその後、久乃にも時沢での日常があった。あと1年、あと1年と礼郷を待つ久乃の毎日。日々の暮らしは変わらないように思えても時々感じる和史の成長が毎日は同じ繰り返しではないと思わせてくれる。

 この頃は保育園の同じ組の中でも体の大きいほうになっている和史。聞き分けはいいほうで手を焼くことは少なく、健康ですんなりと伸びた手足が将来の背の高さを感じさせる。小学生になったらなにかスポーツをやらせたらいいのかもしれない。 母親や祖父母だけに育てられていると、とかく静かでおとなしい子になってしまいがちだ。サッカーでも野球でもチームワークのスポーツをさせるのがいいかもしれない。協調性も身に付けさせたい。
 来年になったら、礼郷が帰ってきたら相談してみよう。ほんとうは電話したいけれど……。礼郷はなにか得意なスポーツってあるのかな。テニスなんて言われたらどうしよう。彼に似合い過ぎている……。

 そんな頃、アメリカでの研修勤務を続けていた礼郷から一度だけ電話がかかってきたことがあった。久乃がまた携帯電話を持ったことを香織へ言っておいたからだろうか。

『久乃』
「礼郷……」
『元気? 和くんも?』
「う……ん、礼郷も、元気?」
『元気だよ。ごめん、びっくりした?』
「ううん、そんなこと……」

 礼郷は夏休みに一時帰国したいと思っていたが、研修中にもかかわらず関連工場の見学を兼ねたアメリカ国内の出張までこなさなければならなくなってしまい、結局夏の一時帰国はできなくなってしまった。久乃には一時帰国のことは言ってなかったので久乃をがっかりさせなかったことが救いだったが、礼郷のほうは我慢しきれずに久乃へ電話をしてしまった。

『必ず来年の1月には帰るから』
「うん、待っているね」
『電話、もっとできるといいんだけど』
「逆に会いたくなっちゃうわ」
『そうか……僕も同じだ』
「待っているね……」
『うん。好きだよ、久乃』
「わたしも……」

 静かに会話していた久乃だったが最後で声が詰まった。
「礼郷から電話切って……」
『え』
「わたしからは切れないもの……お願い。日本で待っているから。だから礼郷が先に電話切っ
て……」
 震える久乃の声。
 ほんとうなら会いたいと、今すぐ会いたいと叫びたい。こんなにも愛しているのに……。
『……わかった。じゃあ切るよ。久乃、答えなくていいからそのまま聞いて。愛している』

 恋しい礼郷の声。体へ沁み込んでくるような礼郷の声。彼の……
 小さな音がして電話が切れても久乃は受話器を耳へあてたままじっと立ちつくしていた。



「ひさちゃん、手伝うよ」
 発送で忙しい久乃をいとこの香織が手伝いにきていた。久乃が忙しいのはインターネットでの販売分を発送するためだった。宮原酒造の酒の販売のほとんどは広田屋という地元の酒店で販売していたが、新しい販売を開拓するために久乃はインターネットでの販売へ力を入れていた。
 前日までの注文メールを見て発送先や支払いをチェックする。客からの支払いのためにインターネット専用銀行の口座を開設してあり、カードでの支払いにも対応できるようにしてあった。これらはネット通販では基本的なことだったが最初はあまりそういう知識のなかった久乃は根気よく勉強をして必要な準備をしてきた。 発送に必要な運送会社の送り状もプリンターで打ち出せるようにしてあったので、ちょうど来てくれた香織にそれを頼んで久乃は梱包のほうへ回った。酒専用の発送用の箱、それひとつにしても梱包資材の会社に依頼して宮原酒造の名の
入ったものを作ったりといろいろとコストがかかっている。
 今日の発送分は運送会社が午後の決まった時間に取りに来てくれるのでそれに間に合わせなければならない。以前から時々香織に手伝ってもらっていたが、このところ香織は手伝って欲しいと言わなくても顔を出してくれる。
 久乃の父は1時間ほど出かけてくると言って外出していたので宮原酒造の事務所は香織ひとりだけだった。

 久乃が梱包をしている工場へ帰ってきた父が入ってきた。机の前にいる久乃の顔を見てぱたんとドアを閉じた。
「久乃」
「はい」
「……いや、これは今日の発送か?」
「はい、そうです」
「むこうに香織がいたみたいだが」
「うん、今日も手伝いに来てくれてるの」
「そうか、香織にもちゃんとバイト代を払うんだぞ」
「はい」
 わかりきっていることを言う父に久乃はどうしたのかと手を休めた。父はなにか考えているようだったがそれ以上何も言わなかった。


「川上屋(宮原酒造)さん、どうですかねえ。あんたや久乃ちゃんが良ければ世話をさせてもらうよ」
 広田屋の主人に問われて宮原酒造の主人、宮原修司はすぐに返事ができなかった。
「しかし……」
 宮原修司のはっきりしない返事を予想していなかったのか、広田屋の主人は意外そうな顔をしたがそれもすぐに消えた。
「今の時代、婿になってくれるという人はそうそういない。しかも二度目だ。いやいや、わたし
だって久乃ちゃんはかわいそうだと思っているんだ。圭吾が亡くなったのは本当に不運だった。だから川上屋さんのためにもこれからのしっかりした働き手が必要だと思っているんだ。圭吾の息子がおとなになるまでにはまだ何年もかかる。 そうでしょう? 久乃ちゃんもなにやら仕事をがんばっているようだが、女はやはり仕事に出しゃばるもんじゃない。それに酒造りは男の仕事だ。婿に来てくれるという人がいるならそれに越したことはないよ」

 宮原修司は迷いを隠すように小さく息を吐いた。娘の久乃が今も和泉屋の息子を好きなことは認めたくはなくてもわかっている。和泉屋の息子がアメリカへ行ってしまえばそのうちに久乃の熱も冷めるだろうと思っていたが久乃は何も言わず働いている。
 今まで久乃は和泉屋の息子のことを口に出すことはおろか、父である自分への恨みごとも不満も言ったことはない。
 ひとり娘として可愛がって育ててきた娘。和史もいる。和史のためと和泉屋の息子との仲を認めてはいなかったが、しかし久乃が父親である自分を見るときに以前とは違う心の内にすべてを押し込んでしまったかのような、なにを考えているのか計りがたいような顔をするのには気がついていた。
 
 ……いつまでたっても子どもだと思っていた娘。素直でおとなしいと思っていた娘。婿を取らせて和史が生れても父親にとっては小さな娘のままなのだ。圭吾が死んでしまったのは不憫だったが、和史と一緒に家族であることは変わらない。このままずっと……と思っていたのだ。
 和史が無事に成人してくれたら。宮原酒造を継いでくれたら。せめてその時までは久乃には和史の母親としてしっかりしていてもらいたい。だが……。

「久乃はもう誰とも結婚する気はないでしょう。わたしらも娘がひとりでいたいのならそれでいいと思っているんです」
「ひとりでねえ。だが久乃ちゃんだってまだ若い。だからこの前みたいに和泉屋の息子と……いやいや、それを言うのはやめておきましょう。あんただって和泉屋の息子のことは反対したんだから」
「それはそうですが……」
「良く考えてみて下さいよ。わたしから久乃ちゃんへ話してもいい」




「久乃、おまえ和史の物を買いに行かなきゃならないと言ってたじゃないか。運送会社のほうが済んだら行ってくるといい」
「あ、そうだった。和史の保育園の靴が小さくなっていて。じゃあ後でちょっと行ってくるね」
 しばらくして久乃が仕事を終えて出かけると、宮原修司は自分の机の前でさっき広田屋から聞かされたことをまた考え始めた。

 久乃に再婚させる。その婿を広田屋が世話をしてくれるという。
 広田屋がそう言うのだから婿となる男にあてがあるのだろう。恐らくは同じ町の男だろう。しかし久乃と久保田家の息子の結婚を反対したのは東京の人間だからというだけではなかった。

 宮原酒造を受け継いでくれるのは圭吾のはずだった。そして和史に。圭吾が受け継いでくれるからこそ和史が圭吾の後継なのだ。和史と血の繋がらない男が宮原酒造を継いでしまったら……。そんなことをして間違いを起こさせたくなかった。

 久乃は和泉屋の息子を思っている。今も。
 そのうちにあきらめると思っていたが、久乃の心の中まで従わせることはできない。もう父親には決して見せない久乃の心の内。
 それならば、ふたりの思いが本物なら、和史が成長するまでは和泉屋の息子とのことは見て見ぬふりをするのもやむを得ない。そのくらいしか久乃に許せることはない。
 そう思っていたのだが……。
 


2009.05.28

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