花のように笑え 第3章 11

花のように笑え 第3章

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「わたしがK&Kで働いていることを知っていらしたんですね」
「そうですよ」
 三田はロビーのラウンジへ瀬奈を座らせると自分も並んで座りゆっくりと話し始めた。
「あなたがいなくなって聡にはずいぶんと恨まれましたよ。私が黙ってあなたを行かせてしまったからね。あの時の聡にとっては理解できないことだったのだろう。 旭川へ連れて帰ってもあいつはもうあなたのことを話しもしなかった。まるで世の中を自分から捨ててしまったようだった」

 聡さんが……あの聡さんが。
 東京で社長として会社経営をしていたあの聡さんが……。
 そう思うと瀬奈は何も言えなかった。手で顔を覆ってしまったが三田はそっと瀬奈の手を顔から離させると瀬奈の手を握った。長い間、誰の手にも触れなかった瀬奈は素直に手を出していられなかったが、三田の手は暖かかった。
「だが今の聡は違いますよ。聡はあなたを待っている。聡が、あなたが、ふたりが死んではいないのだから何度でもやり直せばいい」
 そんなことが出来るの……。

「私の妻は息子を道連れに死んだのですよ」
 瀬奈の手を取ったままの三田が唐突に言う。その言葉に瀬奈は思わず息をのんだが三田はやさしく瀬奈の手を握る力を込めてそのまま続けた。
「まだ小さかった息子を連れて旅行だと言って北海道へ来て……そして旭川の近くで息子に手をかけて、そして自分も死んでしまった」
「三田さん……」
「私にはわけがわからなかった。その当時、私はまだ三十くらいで東京で会計士をやっていましてね。仕事も順調だったが家庭をかえりみないわけでもなかった。それなのに……。死んでし
まった妻と息子のふたりを迎えに行って、それ以来私はもう東京には戻れなくなってしまった。 そんなわけであなたのお祖父さんの田辺先生にお世話になったんだが……、正直言って私は今でも妻が死んでしまったわけがわからない。旭川でずっとその答えを求めていました。死んでしまった妻に尋ねることもできない。やり直すこともできない。あきらめきれませんでした」
「三田さん」
「ずっとずっとそうして生きてきたのですよ。死んでしまった妻になぜ死を選んだのか聞くことはできないのです。だから私は妻が死んでしまったわけを、その答えを一生考えていこうと思っているんです。だが、あなたと聡は違う。生きているのなら何度でもやり直しができるはずだ。 だから私はあの時あなたを黙って行かせたのですよ」
 話しながら聡、と三田が聡のことを呼び捨てにする口調。それは肉親ではないゆえのやさしさがこもった口調だった。
 この人は聡さんを知っている。わたしよりもずっとずっと聡さんを知っている……。

 聡が瀬奈を迎えに東郷の屋敷へ行った時、三田は心のどこかでもしかしたら瀬奈がいないのではと考えていた。予感のようでもあった。瀬奈が聡を愛していたからといって聡の元へ戻ってすべてがなかったようにやり直せるとは思えないだろう、と。
 そして今、目の前にいる瀬奈はまだ迷いの中にいる。

 ベージュ色のスーツを着て都会的な洗練された姿の瀬奈。瀬奈の目の表情はもう少女のように頼りなげなものではない。 かつて知っていた瀬奈と変わらず、いやそれ以上に今の瀬奈は美しかった。経験を積んで、それでも以前と変わらない穏やかさを持ち続けていることがどんなにすばらしいことか瀬奈はわかっているだろうか。瀬奈が世間も何も知らず聡に守られていた頃の瀬奈とは違うことも。
 悲しいな、と三田は思う。
 ふたりはこんなにも愛し合っているのに、それでもふたりの時間は別々のままだ。
 うらやましい、とも三田は思う。
 死んでしまった自分の妻。二度とやり直せない。死に対してだけは二度とやり直しはできない。

 瀬奈が黙りこんでいる間、三田はやさしい視線で瀬奈を見守っていた。やがてその視線に瀬奈は悲しくなって小さなため息をついた。
「聡だけではなくあなたまでこんなに扱いにくいとは。かつてあなたがたが結婚したばかりだった時にしたように、またお節介をしなくてはならない」
 そして三田はその印象に似合わない穏やかな笑顔を瀬奈へ向けた。
「瀬奈さん、あなたはやさしい。他人に対しては。だがあなたのやさしさはあなたを身動きさせなくする。自分で自分を身動きできなくしているんだ」


 ラウンジで話してる瀬奈と三田を桂木はじっと見ていた。
 並んで座っているふたりはまるで親子のようだった。目に見えないふたりの絆。まだ23歳の瀬奈はいったいなにを経験してきたのだろう。 それが自分には知ることができないことだと桂木にもわかったが、やがて瀬奈がひとりで部屋の前に戻って来た。
「専務、明日はひとりで帰らせていただけませんか」
「今日の仕事は終わりましたからあなたを拘束する理由もない。しかし瀬奈さん」
 桂木はこう言わずにはいられなかった。
「瀬奈さん、私と結婚してくれませんか」
「すみません。わたしは専務のご好意に応えることはできません。わたしは……」
「それは」
 言いかけてやめると桂木は瀬奈を抱きしめた。服を通して感じられる桂木の腕の力。初めて受ける桂木からの抱擁だった。
「彼が」
 桂木が静かに言った。あのナーサリーにいた背の高い男。
「彼がいるのですね? 瀬奈さんの心の中に」
 もう隠しようがなかった。桂木にも瀬奈自身にも。
「ええ、います。ずっとずっとその人のことが好きだった。それなのに彼から逃げていました」
 その人は……わたしにとってその人は……。

 瀬奈が桂木の腕を押し返すようにしても桂木は強いて引き戻すことはしなかった。
「彼のところへ行くのですか?」
「わたしは行かなければならないんです。彼のところへ行って……行かなければならないんです」
 精一杯の気力で瀬奈は言った。
 行かなければならない。


2008.11.07

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