花のように笑え 第2章 14

花のように笑え 第2章

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14


 瀬奈は自分から何も言ったりはしなかったが、東郷のいない間に家政婦が瀬奈のくじいた足のために湿布を持ってきてくれていた。右足の足首が少し腫れていて、家政婦は病院へ行ったらと言う。瀬奈はあきらめたように首を振った。 病院へ行きたいと言ってもこの家から出ることはできない。たとえ医師の診察が必要なくらい悪くても東郷はこの家へ医者を呼んで瀬奈を外へ出すはずがない。それはこの家政婦もわかっているだろうに……。 しかしそれからも家政婦は市販の湿布薬や鎮痛剤などを持ってきてくれた。
「ありがとう……」
 瀬奈は礼を言ったが家政婦はやはり何も言わなかった。

 少し痛い足をかばって瀬奈は窓際へ行く。今やこうして窓の外を見ることだけが瀬奈にとっての外界との接点だった。しかしもう外の季節さえ瀬奈には感じられなかった。
 あの夜から東郷はまたこの家には来なくなっていた。何事かが起こっているのかもしれない。東郷は聡が死んでいると言っていたが、今の瀬奈には聡が死んでなどいないことが信じられた。川嶋の救いの手もあの時瀬奈はうまく取ることができなかったが、 けれども、きっと……と瀬奈は窓ガラスに顔を寄せる。聡さんはきっと、聡さんは必ず……と心の中で何度も繰り返す。聡さんは生きている……。
 それでも知らないうちに涙が落ちていく。東郷には決して見せない涙が。
 囚われたままこれ以上抵抗できるだろうか……。



 あ、き、……

 小さく瀬奈の唇が動く。遠い記憶のように。
 声も出ず息だけの言葉だった。

 あ、き、……ら……

 何もかもを振り棄ててあなたを待っていればよかったのに……自分からここへ来て東郷と取引してしまった。聡さんに二度と会えないようなことをしてしまった。
 なんて馬鹿なわたし。でも……もし、できるなら……。

 瀬奈は左手の薬指に、今はもうない結婚指輪のはまっていたところへそっと唇をつけた。かつて聡のしてくれた愛撫のように。
 そして願えるのなら、ただ一度でいいからこう願いたかった。

 聡さん……
 もう一度会いたい……





 三田が聡の病室に行くと聡が立っていた。右手で杖をつきベッドの脇に立っていた。
「どうしたんだ」
 理由はわかっていたが、あえて三田が尋ねる。誰の手も借りずひとりで立ったのだろうか。まだ無理だと思っていたのに。 しかし聡は三田の問いを無視するように黙って病室から廊下へと一歩ずつ歩き始めた。
「聡、どこへ行くんだ。まだ出歩けるわけがないだろう。今、無茶したら……」
「三田さん、俺の体なんてどうでもいいんだ。もう待てない」
 聡が廊下の手すりにようやくたどり着いたが、三田に支えられるようにされるともう動けなかった。聡の体が震えていた。
「聡、だめだ。落ち着くんだ。少なくとも東郷はまだ平気なふりをしているが瀬奈さんにもしもの事があったら……こんなことは言いたくないが、おまえが行って東郷がおまえが生きていることを知ったら最悪の事を瀬奈さんにすることも考えられるんだ」
 最悪の事……聡を自殺に見せかけることもさせた東郷だ。瀬奈を……。聡は苛立つ思いに叫んだ。
「こうしている間にも瀬奈が……!」

 瀬奈。
 どうして今すぐ助けることができない? 警察はいったい何をしているんだ。どうして瀬奈のために動かない?
 捜査の進展にも聡は耐え切れなくなっていた。警察に対してもどかしさを感じたが一番もどかしいのは自分自身にだった。思うようにならない自分の体がもどかしい。自分自身に対する怒りが聡を冷静ではいられなくさせて、体がますます痛むがその痛みで怒りがまぎれることさえない。
「行かせてくれ! 行かせてくれ……三田さん、手を離せ!」

 聡の頬が濡れている。
 苦しそうにもがき、三田に抵抗する聡の頬が涙で濡れていた。
 旭川の田辺康之のところにいた少年だった頃から知っている聡。生意気な、人を馬鹿にするような目つきで三田や大人たちへ突っかかってきた聡。口では何と言おうとも親から愛されたくて、その苛立ちをむき出しにしていた聡。 そんな聡の成長を三田は旭川で見ていた。聡は背が高く同年代の他の子供たちよりは早く体が大人になっていたが、体の成長が止まるのに合わせて田辺康之は接していたのだろう。ひとりの人間として扱われることが聡にはよかったのかもしれない。 やがて目の光がだんだんと落ち着いたものに変わり、聡はそれとともに自制が効くようになっていったが、向こう気の強いところや短気なところが完全に消えたわけではなかった。だんだんと自制の陰に隠れて見えなくなっていっただけだ。
 三田は黙々と牧場の仕事を手伝い働いていたが、聡は不思議とあまりしゃべらない三田をよく手伝っていた。三田がかつて妻子を失ったことを誰かに聞いたのかもしれない。 しかし聡のように田辺康之のところへ来た子どもたちは田辺が心を傾けて接しても立ち直れない子どもも多かった。生い立ち、環境……どうしてやることもできないことも多かったが、それでも聡は立ち
直った。
 その聡が泣いている……。

 三田にとってもいつしか娘のように思えていた瀬奈。自分の息子は死んでしまったが、もし生きていれば瀬奈と同じくらいの年頃だ。
 生きていれば……瀬奈が、聡が生きていれば。きっとやり直しができる。何度だって、生きていれば……そう信じたいのは三田だった。
「わかった、聡。今、川嶋さんが家政婦の小林さんを探してくれている。連絡がなければもうおまえを止めない。警察の動きもかまいはしない。瀬奈さんを迎えに行こう」
 もうそう言うことでしか聡を止められないと三田にもわかっていた。警察の捜査は大詰めにきているはずだ。





 専務の逮捕以後、世間は騒がしいほどに注目している。 もう何日もティーオールカンパニーの会社の前には常にマスコミが張り付きうるさいハエのようにまとわりつく。
 今日でなければ明日だろうか。明日でなければ……?
 身辺に迫る水面下の動きのような気配。会社を取り巻く人の気配。車の気配。この家に帰って来るだけでもそれらがまとわりついてくる。

 明日かもしれない……。
 しかし東郷はその予感を口にすることはない。瀬奈にはひと言もそんなことは言わないが瀬奈は何かを感じ取っているのだろうか。

 夜、瀬奈のいる部屋へ不意に東郷が入ってくる。びくっと瀬奈の体が逃げる。体が身構え強張る。東郷の手が瀬奈を引き寄せる。
 どうして今さら抵抗する? なぜ抵抗する?

 瀬奈の顔がわずかに歪む。荒い息で上下する瀬奈の胸元の乳房が服の上からも感じられる。柔らかく美しい曲線……。
 どんなに抵抗しても手の中のか弱い小鳥なのに。なぜ思う通りにならない? 力づくではなく瀬奈を屈服させたい。屈服ではなく瀬奈が従って欲しい。瀬奈を自分の手で歓ばせ震えるのを見てみたい。

 ……なぜ俺に従わない。なぜ、俺を愛さない……?

 こんなことを考えたのは初めてだった。
 どんなに激しく、たとえ瀬奈を何度抱こうとも瀬奈の心が震えることはない。瀬奈を抱きしめたその瞬間に瀬奈が自分のものにはなっていないことに気がつく。

 甘い、芳しい香り。
 瀬奈の体の香り、それが今まで香水か何かだと思っていた。甘い香りだった。花のような。
 柔らかく長い髪が乱れて瀬奈の顔を囲むように広がっている。紅潮した白い肌。ドレスも宝石も必要のない瀬奈の生れながらに持っている美しさ。その美しい体が東郷の体の下に押さえ込まれていた。

 命ずれば笑うのか?
 命ずれば泣くのか?

 命ずれば俺を愛するのか?

「笑え」

 瀬奈は黙って東郷を見ている。
 もはや命じられても笑わないのだ。あきらめも、何の表情もない。東郷と視線を合わせている。投げやりでも、強制されてでもなく……瀬奈の目が東郷を見ていた。

 弱いものだと、思いのままだと思っていた瀬奈。
 その瀬奈が手に入らない。

 東郷の髪が乱れ、目が光っている。きつい表情が瀬奈を見据えている。
「どうしてだ。……言え。……なぜおまえはそんなに……」
 答えられるはずもなかった。瀬奈はただ東郷の顔を見返すばかりだ。


 明日にでも逮捕されるだろう。それとも明後日か?
 今さら逃げるつもりもなかったが、東郷は妻のいる家ではなく瀬奈のいる別宅であるこの家へ密かに帰って来ていた。ここも警察にマークされているだろうが。

 東郷はゆっくりと瀬奈の胸に顔をうずめた。瀬奈の乳房の柔らかさを感じて目を閉じ瀬奈の香りを吸い込む。
 こんなことをどの女にもしたことはない……。

 自分を抱きしめたまま動かなくなった東郷に瀬奈はじっとしていた。やがてきつかった東郷の腕が緩められると東郷は顔をそむけた。生まれて初めて自分から顔をそむけた。
 瀬奈から。
 瀬奈にしてきたことから。


 笑え……
 笑ってくれ……
 命じられてそうするのではなく。
 笑ってくれ……


2008.08.16

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