花のように笑え 第2章 8

花のように笑え 第2章

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 せ……な……
 せ……?

 ぼんやりとあたりがかすみ何かが感じられた。誰かが俺を呼んでいる……?
 目を開けたがかすんでわからない。目の前にいるのは……誰だ……?

 二度目に気がついた時も人の気配がした。誰かがいる。
 そして体の自由が利かない、手足の動かない感覚。頭の中もぼうっと痺れたような……痛みは感じるのに……。
「気が付きましたか? わかりますか?」
 かすんだ目が徐々に慣れて見え始めた。白衣の人がいる。
「ここは病院ですよ。あなたは怪我をしたんですよ」
 手足を動かそうとしてそれがままならないことが感じられた。体が固定されている……?
 別の声が聞こえてくる。
「ご自分の名前が言えますか?」
「…………」
 しゃべろうとして自分の声がつかえたように出ないのに気がつく。
「…………」
 それ以上しゃべれずに目を閉じてしまう。
「まだ声が出ないようですね。あなたは怪我をして手術を受けたんですよ」

 体の自由が全くきかなかった。
 左肩から腕と胸が固定され、左足も膝上から足首までギプスをはめられている。右腕には点滴の針が刺されており、右足だけがわずかに動かせるだけだった。 何日も意識がぼんやりとしていて医師や看護師に呼びかけられたが声が出ない。うめいたり、顔を動かしたりできるだけだった。
 それでも意識がはっきりするにつれてだんだんと聡は自分のいるところが集中治療室のようなところだとわかってきた。身動きの取れない体と集中治療室。つまり大怪我ということだろう。 しばらくして医師は肩や腕や足といった体の左側を何箇所か骨折したこと、折れた肋骨が肺を傷つけたことなどを簡単に説明してくれたが聡は自分が置かれている状況がわからなかった。怪我をして病院にいることではなく、あの時体が落ちていった前後の事がわからなかった。

 ふいに人影が近付き誰かが目の前にいる。
「……ら」
 え……?
「あきら」
 自分の顔をのぞきこんでいる男が誰なのかわからなかった。滅菌服を着てマスクをしているせいでもあった。誰だ、この男は……?
 しかし三田はそれ以上何も言わなかった。相変わらず余分なことは言わない男だ。それに気がついて聡はやっと声が出た。
「あ……」
「聡、しゃべるな。おまえは大怪我をしている。わかるな?」
 聡はかすかに頷いた。ふたりの男が現れて三田の横へ立つ。
「森山さん、警察です」

 まだ思うようにしゃべれない聡に私服警察官がいくつか質問をしたが、すぐにドクターストップがかかった。
「仕方がないですね」
 刑事らしいひとりが言う。
「森山さん、あなたが会社から連れ去られたことはわかっています。今後も回復具合を見ながら話を聞かせてもらいます。お大事に」

 医師と刑事たちに続いて出ていこうとした三田を聡は目で呼ぶ。
「せ……な……」
 かすれた聡の声に三田が聡の耳元へかがみこんだ。
「大丈夫だ」
 三田が聡の右手を握りながら小声で短く言うのを聞いて聡は目を閉じた。

 何日かして聡が個室の病室へ移されるとそれを待っていたように三田が話をしてくれていた。
「ここは群馬県だよ。道路脇の崖から落ちてからのことを覚えているか?」
 聡は首を振った。自分の記憶に残っていることはほんのわずかのことだろう。
「お前と一緒に落ちたのは近藤だよ。経理にいた近藤だ。あの偽の投資話の」
「え……?」
 ふたりは山で渓流釣りをする人に見つけられていた。聡は近藤が少し離れたところに倒れていたことも、ふたりが見つけられて病院へ運ばれる時のことも覚えてはいなかった。そのときには完全に意識を失っていた。
「近藤……? だが……近藤が俺を落としたんじゃない……殺させないと言って……あれが近藤だったのか? 一緒に落ちたのが……」
「そうだ」
「近藤は……近藤はどうした……?」
「ここに入院している。今は会うのは無理だ。おまえも近藤も」

 三田が代わって近藤から聞いたことを説明してくれた。近藤も骨盤などを骨折していて手術を受けたが聡のように意識不明にまではならなかった。起き上がることは無理だったがなんとか話すことは出来たので、すでに近藤は病室で警察から聴取を受けているという。
 偽の投資話への関与で近藤は警察から任意の事情聴取の呼び出しを受けていが、近藤は瀬奈を襲おうとして失敗した後に事情聴取に応じることなく行方をくらましていた。
「近藤はおまえを自殺に見せかけて始末しろと言われたそうだ。偽の投資話に絡んでいたのも、近藤にそう言ったのもあの暴力団だよ。憶えているか? 近藤が会社に残していった書類に暴力団が絡んでいると書かれていたのを。お前が調べさせただろう?  近藤はどうやらその暴力団に取り込まれていたらしい。だが、おまえだけじゃない、近藤も始末されかかったらしい。だから土壇場でおまえを助けたんだな」
 三田は苦い顔つきで会社についても話してくれた。
「おまえがいなくなってすでにAMコンサルティングはティーオールカンパニーとの業務提携に応じている」
 はじめからそのつもりだったのだろう、東郷は。
 予想していたこととはいえ唇を噛みしめて三田の言葉を聞いていたが、ティーオールカンパ
ニーの名が出たところで聡はついに三田の話を聞いていられなくなった。
「三田さん、どうして瀬奈が来ない? 瀬奈は……瀬奈は……」
「聡」
 聡の目が必死だ。動けないのに身を乗り出さんばかりにしている。ありったけの力を振り絞って。すでに聡の顔色は蒼白に近い。傷が痛むのだろう。

「瀬奈はなぜ来ない? 瀬奈はどうしたんだ? 三田さん、教えてくれ……頼むから……」
 だんだんと聡の声と息が乱れる。これ以上黙っていることはできない。三田は覚悟を決めて聡の顔を見ながらゆっくりと言った。
「瀬奈さんは東郷のところにいる」

 瀬奈が東郷のところにいる……三田はそう言った……。
 瀬奈が……。

「なぜだ!」
 上半身を起こそうとしながら叫ぶ。
「なぜだ! どうして瀬奈が……東郷なんかのところに……まさか」
 聡が右手だけで点滴の針を強引に引きはずした。鮮血が飛ぶ。
「聡!」
 ベッドから降りようと聡がもがく。右手と右足で体をささえ、体につけられた何本かのチューブと医療機器のコードをむしり取ろうとする。
「だめだ! 聡!」
 三田が聡を押さえつける。どこかで機器の警報音のような音が鳴っている。
「はな……せ!」
「聡、死ぬぞ」
「死んだっていい! 瀬奈が……瀬奈が……あいつのところに……」
「どうしたんですかっ!」
 ふたりの看護師が駆け込んで来た。
「ちょっとあなた、どいて下さい!」
 しかし三田が押さえるのをやめたら聡は飛び出すだろう。ベッドから落ち、這ってでも。
「放せ……放せ……三田さん……」

 聡はしばらくもがいていたが、しかし三田に押さえ続けられてがくりと体の力が抜けた。
「せ……な……」
 ふりしぼるように言う聡。しかし動けるはずがなかった。今の聡には歩くこともかなわない。看護師に応急に止血された右手を目に当てて聡は動かなくなった。
「すまん、聡。それでも黙っていることはできない。いずれはわかることだ」
 聡は答えなかった。その右手が震えていた。目から離されることなく。

 長い間、聡は目を閉じていた。
 眠っているのではないことは三田にもわかったが今は三田も黙っているしかなかった。やっと聡が目を開けて口を開く。目はじっと天井を見ていた。
「三田さん、近藤の様子を逐一知らせてください。どうしてもあいつと話をしなければならない」


2008.07.10

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