花のように笑え 第2章 6

花のように笑え 第2章

目次



 東郷の家だと言われてやってきたその家はぐるりと高い塀に囲まれ、家の外壁にも石材を
使っているらしい重厚な屋敷だった。

「どうぞ、瀬奈さん」
 東郷昭彦が瀬奈へ座るように勧める。
「心配していたのですよ。どうされていたのか」
「ご相談したいことがあって来ました。聡さんの、いえ、森山の会社のことと、あと捜索願いの事を教えていただきたくて」
「捜索願い?」
 東郷が片眉を上げるように聞き返した。
「はい。……警察に捜索願いを出したら……どうなるんでしょうか」
「どうなるって……事情を聞かれて犯罪などに関わっているようなら捜索してくれるでしょう。自殺者や身元不明者がいたら照会してくれるだろうと思いますが。でも森山さんはご自分でいなくなったのでしょう?」
 東郷は「逃げた」とは言わなかったが。でも、自殺者……それは……。
「それでも……わたしが捜索願いを出せるんでしょうか」
「ご家族が出すのが筋でしょう」
 しかし瀬奈は言えなかった。自分と聡が籍が入っていなかったとは目の前の東郷へは言えなかった。 瀬奈が黙っていると今度は東郷が続けた。
「犯罪などにかかわっている場合は捜索願いを出して捜してもらうほうがいいでしょう。
でも森山さんはご自身でいなくなったのでしょう? ご自分の意志で行方をくらましたのな
ら……」
「彼は逃げてはいません!」
 瀬奈が叩きつけるように言ってからはっと気がつく。相手が東郷だったと。
「す、すみません。でも、わたし……」
 口ごもる瀬奈へ東郷は優しく言う。
「あなたがそう言われるのはよくわかりますよ。しかし森山さんの行方がわからない以上、あなたはどうする事も出来ない。捜索願いを出すのもいいでしょう。しかし一番お困りなのはあなただ。そうでしょう?」
 東郷が瀬奈の横へ来て、しかしそれ以上は何もせずに瀬奈の耳元へ言う。
「AMコンサルティングは潰れるようだが、負債がどのくらい出るんでしょうかねえ。偽の投資話も決着がついていないのでしょう? 私にはわかりませんが。どうです? もう森山さんのことはあきらめては。あなたはまだ未成年者だ。なにもできない。 それに……結婚されたと言っても入籍していなかったのでしょう? 森山さんと」
 びくりと瀬奈の体が震えた。この人は知っていたんだ。

「あなたに森山さんの行方を探しながらAMのことまで対応するのは無理だ。AMの連中だってあなたのことをあてにしているわけでもないでしょう?」
「まだ若いあなたに何もかもを背負わせてしまうのはかわいそうだ。あなたが私の言うことを聞いてくれるのなら私もあなたの力になりますよ」
「行くところがないのなら今夜はここへお泊まりなさい。この家は私の別宅なので気兼ねは要りませんよ」
 東郷の言う言葉を瀬奈は何も言えず聞くばかりだ。東郷の言うことはもっともだと瀬奈に思わせる何かがあるようで瀬奈は言い返す気力もなく東郷の言うことを聞いているしかない。
「行くところがないのでしょう?」
 その通りだ。でも、でも。
「あなたはとてもお綺麗なかただ。あなたのためなら力になりますよ」
 東郷の顔が近づく。それは……それは……その意味は……。
 瀬奈は立ち上がった。瀬奈が立ちあがったので東郷も立ち上がりながら瀬奈を見ている。
「東郷さんのお気持ちはありがたいです。でも……」
 瀬奈は逃げるようにドアへ向かっている。
「それはできません」
「それならば仕方がない。しかし私ならAMコンサルティングを救うことができるかもしれない。私の会社のコンサルティング部門と合併させるか、業務提携をするか。……社員たちを救うにはそれしかないでしょう」

 社員たちを救いたければ。
 聡の会社が潰れれば大勢の社員が失業する。かつて瀬奈の父が事業に失敗した時のように困り果て路頭へ放り出されるようにされた、まだ子供だったあの時の瀬奈と同じ思いをする家族がいるかもしれない、いないかもしれない。それは瀬奈にはどうする事もできない。

 経営者として仕事に打ち込んでいた聡。
 会社を存続させようと必死の思いでいたはずだ。瀬奈のために、聡自身のために、そして働いてくれている社員たちのために。

 瀬奈が立ち止まった。
 東郷へAMコンサルティングを救って欲しいと頼む、それしか今の瀬奈ができることはない。

 重厚な屋敷の中は夏とはいえひんやりとした空気が漂っているのは空調のせいばかりではあるまい。
「会社として……AMコンサルティングはどうなんですか……?」
 それは瀬奈が思いつける精一杯の条件だった。AMの会社としての価値。それを東郷が認めれば。
「瀬奈さん、私とて無条件にAMを助けてあげることはできない。簡単に言えばコンサルティング業というのは信用あっての仕事ですよ。信用で成り立っていると言ってもいい。コンサルティング会社は顧客の会社へアドバイスをするためには顧客の会社の内情をある程度知らなければ出来ない。 それは内情をどの程度コンサルティング会社へ開示させるかということにもかかっています。コンサルティング会社に信用がなければ顧客は手の内を見せない。当然でしょう? しかしあの投資話の件にしてもイメージダウンにしかならなかった。はっきり言って私はAMを助けるのに手を出したくはない」

 向き直った瀬奈を東郷は眺めるように見ていた。瀬奈の疲れたような目の色が美しい。追い詰められたその表情とあいまって。美しい。
 瀬奈はすでに今日、ティーオールカンパニーがAMコンサルティングとの業務提携を発表していることは知らないはずだ。知っていたらここへ来るはずもない。瀬奈の駆け引きなど通じない。
 東郷は瀬奈が自ら手の中へと落ちてくるのを待っていた。周到に追い詰めて、しかし自分のせいだとは悟らせない。瀬奈が自分から落ちてくればいいのだ……。


「だが助ける気がないわけでもない。どうです? あなたの返事次第だ。あなたが私の言うことを聞くのなら助けてあげる」
「そんな……わたしは森山の……妻です……」
「妻? それは美しい考え方だ。しかし」
 東郷の顔が皮肉に歪む。
「あなたが苦しむ姿を見たくはない。男なら誰でもそう思うはずだ。森山さんは違ったようだが」
 違う!
 聡さんはそんな人じゃない……!
 聡さんはわたしを愛していると言って……だから……でも……。

 瀬奈が心の中で必死で打ち消そうとする聡への不信を東郷はわかっている。わかって言っているのだ。
「森山さんはもう生きてはいないでしょうね」
 生きてはいない……それは……死んでいると……?
 打ち消すように瀬奈が激しく首を振ったがそんなことをしても確かめる方法などない。
「森山さんだってあなたが困ることくらい予想できたでしょう。それでも姿を消したとする
と……」
 聡が自殺したと、死んだと言いたいのだろうか……?
「あなたが犠牲になることはありませんよ。あんな男のために」
 でもそれは東郷自身の言うことと矛盾している。東郷は瀬奈がAMのためにその身を差し出すのを待っているのに。

 しかしその時、部屋の外から人の声のような気配が聞こえてきた。東郷が黙って部屋の外へ出る。音は部屋の外から聞こえたようだったが瀬奈はそれが家の外からだと気がついて窓のそばへ行った。
 外は暗かったが明かりがいくつかある玄関の前の車寄せに数人の男たちがケンカでもしているように争っているのが見えた。その中の背広を着た男、あれは……。
「三田さん!」
 何かを叫んで三田が男たちに押さえ込まれようとしていた。
 三田さん、三田さん!
 三田さんが来てくれた! 三田さんがいてくれれば、三田さんならきっと……。
 ここにいちゃいけない!

 瀬奈はドアを開けて部屋を飛び出すと玄関へ行こうと階段を降りようとしたが数人の男たちが階段を駆け上がってきた。
 あっと瀬奈の悲鳴が上がった。男たちにまわりを取り囲まれ別の部屋へ連れ込まれようとされ腕をつかまれたままそれでも体当たりするように男たちへぶつかっていった。瀬奈の抵抗の激しさに一瞬男たちが手こずったようだったがそれまでだった。
「三田さん!」
 もがく瀬奈は男たちに口を押さえられて急速に意識を失っていった。


 聡が連れ去られた夜。
 あの夜、三田がAMコンサルティングの社長室へ行くとすでに聡はいなかった。部屋の様子に変わりはないようだったが聡だけがいない。携帯も連絡が取れず、聡の居場所がわからない。今夜はこれから三田と打ち合わせをする予定だったから家へ帰るはずもなかったが、もしかしたら? とも思える。 しかし三田が聡の机の上のファイルを手に取って違和感に襲われる。ファイルからは三田が聡と一緒に作った株主総会に関する資料の最も重要な部分が抜けていた。三田の持っていた鍵でキャビネットを開けて調べたがそれらの入っているMOディスクも保管しておいた元になった資料も見つからない。
 変だ。何かがあったに違いない。

 はじかれたように三田が動き出す。
 ビルの守衛に何か変わったことがなかったかと聞くと、専務が何人もの男たちを連れて大きな荷物を運ぶために出入りしていたという。それらの男たちが車で出て行ったと聞くと三田は勝手に会社の車を出して専務の家へ向かった。
「専務か……」
 三田は自分のうかつさを呪っていた。あの専務が寝返ったか。
 しかし専務の家では動きはなく、人の出入りもない。家の中へ乗り込もうかと思ったが聡がもし専務に拘束されていたとしたら自分も同じ事になるだけだ。
 しかし翌日の朝になって何台かの車の出入りがあり、三田が後をつけてみたがAMコンサルティングへ戻ってしまう。会社では聡の行方がわからないことで騒ぎになっているだろう。三田は会社へ入るつもりでビルの玄関へと向かったが数人の男にさえぎられた。
「三田勇三さんですね。あいにくだがあなたにはここへ入ってもらうわけにはいかない」
「なぜだ。俺はこの会社の社員だ。そこをどいてもらおう」
「あなたにはすでに免職がされている。お引き取り下さい」
「誰だ? 誰がそんなことをしたんだ?」
 怒鳴る三田を男たちが取り囲む。その後ろにはビルのガードマンらしい制服を着た男たち。
 くそっ、手回しが良すぎる。それとも俺の対応が遅すぎたのか。
「森山社長はどこだ?」
 強行に中へ入ろうとする。何人もを振り払ったがしかしそれは所詮相手の思うつぼだった。警察へと通報がされる。三田はAMへ入ることをあきらめてなんとかその場を逃れるしかなかった。警察へ連れて行かれて身柄を拘束されている場合じゃない。なんとか聡を見つけなければ。

 しかし何の手がかりもなく聡を探すのは至難の技だった。専務の家に出入りする男たちの所属するらしい事務所のようなところまではわかってもその先がわからない。空しく時間が過ぎていくうちに三田は聡の自宅の電話が繋がらなくなっていることに気がついた。自宅には瀬奈がいるのに、どういうことだ?
 すでに聡がいなくなって10日以上経っていたが瀬奈もどこにいるのかわからない。しかも今日になって新聞にはティーオールカンパニーのAMへの業務提携が載っている。

 ティーオールカンパニー。
 では東郷が?
 三田は極秘でティーオールカンパニーからAMの株主総会の直前という微妙な時期に業務提携案が提示されていたのを知っていた。が、聡はこの案を受け入れるつもりはなくそれは三田も同様だった。
 しかし……。
 東郷の目的は何だ? AMを潰すことか? それならなぜ聡がいなくなった?
 潰すだけなら……専務を寝返らせれば……なぜ瀬奈までが行方がわからない……。

 もうそれしか考えられなかった。
 東郷には聡が社長でもAMの会社自体を潰すなり、取り込むなりすることはできるだろう。経営悪化を理由に取締役社長の聡を解任させることもできるだろう。だが瀬奈は、瀬奈は聡がいる限り彼の元を離れることはない。
 瀬奈は東郷のところだろう。東郷の目的はAMを潰すことだけではない、瀬奈でもあったのか。これらのことはすべて東郷の仕組んだことに違いない。
 すべてのことが後手に回ってしまっていた。こうなっては何もできない。
「 ……甘かったか」
 聡が、そして自分が。
 聡を、瀬奈を見つけられるだろうか?
 …………


 自分が横たわっているのがベッドだと瀬奈は気がついた。一瞬ののちにぱっと起き上がってあたりを見回した。自分ではそうしたつもりだったが東郷の声が聞こえるまで東郷がいることに気がついていなかった。
「無茶をする人だ」
「あ……」
「あの三田という人にはおとなしくなってもらいましたよ。私はあなたと話がしたいんでね」
「三田さんは、三田さんをどうしたのですか!」
「それもあなたの返事次第だ」
「なっ……放して! 三田さんを放してください!」
 瀬奈が叫んでも東郷は顔色ひとつ変えない。ベッドを飛び出した瀬奈を東郷の手が押さえる。
「どこまでも他人の心配か。美しい人だ」
 東郷の手が瀬奈のブラウスの襟元にかかり、ぐっと力が入れられる。ブラウスが引っ張られボタンが飛ぶ。
「!……」
「気丈な人だな。声も上げない」
 目の前に迫ってくる東郷の顔。逃げられない。じりじりと追い詰められながら瀬奈は力を振り絞って言う。
「社員を救ってくれるというのは本当ですか? AMの社員を……あなたが」
「そう言うだろうと思いましたよ。あなたなら」
 だって、聡さんの会社の社員たちなのよ……そう東郷へ言うつもりもなかったが喉に何かが詰まるようにこみあげてくる。
 目の前の東郷はもてあそぶように瀬奈の髪をひと房ひねっている。もう後ろは壁だ。壁についた東郷の腕に囲まれるように閉じ込められてしまっている。
「本当に……?」
 服を胸元へかき寄せながら瀬奈が言う。その声が震えるのを抑えることができない。
「本当ですか? ……わたしがここにいれば社員たちを……」
「私も経営者だ。社員たちを路頭に迷わせることがどういうことかわかっている。あなたと同じようにね」
 東郷が瀬奈の腕をつかんだ。
「約束……約束して下さい。社員たちを助けると……三田さんを放すと……」
「いいだろう。約束する」
 そして瀬奈の体が東郷に引き寄せられると口づけがされた。彼の手が容赦なく瀬奈の服を剥ぎ落していく。
 瀬奈は心の中で悲鳴を上げながらそれでも泣くまいと必死でこらえていた。


 絶対に泣かない。
 たとえわたしが……



2008.06.26

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