花のように笑え 第2章 3

花のように笑え 第2章

目次


3


 玄関の外にはすでに小林が大きなバッグをふたつ持って立っていた。
「奥様」
「小林さん……」
 門から出されてしまった。中にはまだ男たちがいる。
「奥様、どうしましょう……」
 小林が不安な目で瀬奈を見ているが瀬奈は何も答えられない。
「奥様、どこへいかれますか? ご実家へ帰られますか?」
 札幌へ?
「私はしかたがないので息子のところへ行きます」
 そう言われて瀬奈ははっと気がついた。わたしはこの人のことをほとんど知らない。
「息子さん? どこにいるの? 小林さんはそこへ行かれるの?」
「都内におりますので。今日は息子のところへ行きます。奥様はどうなさいますか?」
 そう言いながら小林は瀬奈を引っ張るように歩きだした。家から少し離れると小林はバッグを地面に置いて中から何かを取り出す。
「これを、奥様」
 それは封筒に入れられたものだった。
「旦那様から預かっていたものです」
 中には現金が入っていた。数十枚の一万円札。
「これは……小林さんのものじゃないの?」
「違います。何かあった時のためにとお預かりしていたものです。旦那様からお預かりしたものですから」
 聡さんがこれを小林さんに。何かあった時、それは……。
「奥様はお金をお持ちですか?」
 小林に尋ねられて瀬奈は返す言葉もなかった。そんなには持っていない。
「では奥様がこれをお持ちください」
「でも、それじゃあ小林さんが」
「わたしの事はお気遣いなく。もともとわたしの荷物なんてこんなものですし。貯金やなんかも
持っていますから」
「でも今日までのお給料が」
 気がついて瀬奈が封筒の現金を渡そうとする。
「奥様……」

 憐みのこもった目で小林に見られていると瀬奈は気がついた。こんなことになってしまい瀬奈はまだ茫然自失だ。それでも小林は律儀に瀬奈を気遣ってくれていた。もう雇い主の妻でもない瀬奈を。
 小林のその憐みのこもった目で見られてやっと瀬奈は自分がどんな状況になってしまったかがわかってきた。家を追い出されてこうして道に立っている。
「奥様」
「……ありがとう、小林さん。ごめんなさい、こんなことって……」
 うっと涙がこみ上げてきたが瀬奈はこらえて涙を拭いた。
「奥様、このお金でご実家へお帰りなさいませ」
 小林にそう言われてやっと瀬奈は歩き始めた。歩くことしかできなかった。
 この時の瀬奈は専務から会社がこの家を管理するのだと言われても、それが手続きもなしに簡単にはできない事だということにすらまだ気がついていなかった。


 この前、真由が遊びに来た時に兄の大輔のことを話していた。大輔は大学が夏休みに入ってもいろいろとやることがあるらしく8月に少し札幌へ帰ってくるだけだと真由は言っていた。私鉄の駅からの道を探しながら瀬奈はやっと歩いていた。 道は真っ暗ではなかったが街灯のある向こうから誰かがこっちへ向かって来るのに気がついた。
「瀬奈?」
 さっき電話したから迎えに来てくれたのだろう。Tシャツとジーパンというひょろっとしたその姿がいとこの大輔だと瀬奈にはわかったが声が出ない。
「おい、ほんとに瀬奈か? どうしたんだ」
「大輔さん……」

 部屋に、大輔のアパートの部屋に入ると瀬奈は黙って座りこんでしまった。大きな旅行バッグを持って突然やってきた瀬奈に大輔はとにかく部屋へ入れるしかなかった。
 今まで高校生だった瀬奈しか知らない大輔は瀬奈の姿を黙って見ていた。瀬奈が森山という男と結婚して東京に住んでいることは聞いていたが、突然瀬奈から電話があったときには驚いた。電話がきたことに驚いたのではなく、瀬奈に今晩泊めて欲しいと言われたことに驚いたのだ。
 瀬奈のきれいに伸ばした髪、男の大輔から見ても上質そうに見える着ている服を見ながら大輔は困り果てていた。こんなことは経験のない大輔はさっきからぼりぼりと頭を掻いていた。
「瀬奈ってばどうしたんだよ」
「言いたくないんならいいけど。なんか飲む?」
「なあ……どうしたんだよ」
 大輔が話しかけても瀬奈はじっと前を睨むように見つめている。部屋の中に散らばる本や雑誌を拾い集めながら大輔が言う。
「旦那とケンカでもしたんか?」
 やはり瀬奈は答えなかった。

 こいつ、こんなに強情なやつだったのか。
 大輔は肩をすくめたいのを我慢して思った。中学生だった瀬奈が大輔の家で一緒に暮し始めてから今まで一度も見たことのない瀬奈の表情だった。いつも控えめでふんわりした雰囲気
だったのに。女って変るもんだな……。
「しょうがねえな。今夜は遅いから。布団敷くから寝ろよ」
 大輔が本や工具やいろいろなものをまとめて隅へ押しやると敷き布団を出す。夏だからタオルケットでも掛ければいいだろうと言いながら。

 寝苦しさで瀬奈は目を覚ました。
 大輔はベッドで、瀬奈は床に敷いた布団に眠っている。夜中になってクーラーが弱まったのだろうか、暑くて肌がじっとりとしている。北海道育ちで東京の夏の蒸し暑さに慣れていない瀬奈にはひどく暑かった。今までは、昨日までは聡の家で家中が空調の効いた快適な生活だったのに……。
 つっと涙が落ちていく。聡からは何の連絡もない。どうしようもなくなって東京でただひとりの親戚である大輔のところへ来てしまったが、いとことはいえ若い男の部屋だ。しかし今の瀬奈には何も考えられなかった。東京ではどこへ行くあてもない。札幌へ帰ってしまっていいのか、 それも瀬奈にはわからなかったが東京にいなければという本能のような思いでかろうじて瀬奈は踏みとどまっていた。

 蒸し暑い暑さの中で泣き声を抑えながら、なぜ、というそれしか考えられなかった。
 なぜ聡さんはいなくなったの? 聡さんはどこにいるの?
 なによりも聡と瀬奈は籍が入っていなかったということが瀬奈の胸を固く押しつぶしていく。
 わたしたち、夫婦じゃなかった……どうして聡さんは籍を入れなかったの……どうしてそれをわたしに話してくれなかったの……。

 なぜ……?
 なぜ……?




 翌朝、大輔は時々瀬奈の顔色を窺うようにしていたが何も言わない。しかし大輔は夏休みになってもあるというロボット研究会というのに出ると言って大学へ行ってしまった。
 瀬奈はどうしたらいいのかわからなかったが家へ行ってみようと思った。聡さんが帰ってくるかも、三田さんが帰ってくるかもしれない、とすがるように思いながら。
 しかし家の門は閉ざされてセキュリティが変えられたのだろうか、瀬奈には門を開けることも出来なかった。
「…………」
 門の格子から垣間見える庭や家。
 昨日まで瀬奈の住んでいた家。窓にはカーテンが引かれていたが見たところは何の変化もなかった。 ただ自分が入れずにいることを除けば。そこに聡がいないことを除けば。
「…………」
 睨むように門から中を見つめていたがどうすることもできなかった。こんなことになっても瀬奈は何も出来ない。社会人として働いた経験も知識もない。自分が何も出来ないだろうということだけが瀬奈にわかることだった。

「瀬奈さん」
 誰かが後ろに来ていたことにすら気がついていなかった。びくっとして振り返るとそこには東郷昭彦が車から降り立っていた。
「どうされたんですか? こんなところで」
「…………」
「森山さんがいなくなられたと、行方がわからないと聞いて心配になって来てみたんです。森山さんは戻られましたか?」
 瀬奈は黙って首を振った。東郷は普通だった。聡とは仲が悪かったようだが今は別段そんなことは気にしていないらしい。
「家に……入れないんです。……差し、押さえ、られて……しまって」
 かろうじて瀬奈は答えた。
「差し押さえ? まさか、そうなるにしてもちょっとそれは早すぎる。会社がそうすると?」
 東郷の驚いたような言い方に瀬奈はすがるように東郷の顔を見た。
「そうなんですか? わたしにはわからなくて……もし、そうなら……」
 ほんの小さな望みでもいいから瀬奈は持ちたかった。だけど……。東郷は本当に心配しているような顔つきだった。
「お困りでしょう? 森山さんがいなくなって」
 いたわりの言葉に瀬奈の感情が揺れそうになる。しかし瀬奈はさっき東郷の言った言葉に思いついたことを考えて泣きたくなるのを踏みとどまった。
「会社へ……AMコンサルティングへ行ってみます。何かわかるかも……ここにいるよりは」
「よかったらお送りしますよ。車ですので」
 東郷に言われ一瞬迷ったが瀬奈は乗せてもらうことにした。運転手もいるし、とにかく聡の会社へ行くことしか考えられなかった。

 必死な目つきで前を見ている瀬奈を横に見ながら東郷はゆったりとシートへ体を預けていた。 何もできなかったのだろう、今日の瀬奈はろくに化粧もしていなかったが、しかし必死なその目が充分に美しかった。追い詰められた小鳥のように。
「瀬奈さんは昨夜はホテルへお泊りですか?」
「いいえ……東京にいるいとこのところに……」
 そう、今の瀬奈は追い詰められて何もなすすべのない小鳥だった。不安なその目も、はかなげな細い肩も、みんなみんな東郷の思った通りになった。その心の中も東郷には手に取るように見透かすことができる……。


2008.06.07

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