花のように笑え 第2章 1

花のように笑え 第2章

目次



「奥様、お世話になりました。どうぞお元気で」
「わたしこそありがとうございました。お元気で、川嶋さん」
 7月半ばになって川嶋が辞めることになったが、もともと川嶋は結婚の準備とその後の瀬奈の世話係ということで結婚当初までという契約だった。瀬奈は川嶋がいてくれるのはありがた
かったが子供でもない自分に世話係の人をつけてもらっているのも悪い気がしていた。
「奥様なら主婦として立派にお出来になりますよ。またご用がありましたらいつでもお呼びください」
 そして川嶋は小さな声で付け加えた。
「赤ちゃんがお生まれになったらベビーシッターとして呼んで下さいね。これでも私は保育士の資格を持っているんです。かわいい赤ちゃんを何人でもどんどんお産み下さい、奥様」
「……そんな、まだ」
 ぱっと顔を赤らめている瀬奈に川嶋もおおらかに笑っている。
「そのときにはぜひお願いします。ご主人にもよろしく」
 聡も一緒に礼を言い川嶋を見送った。
「さあ、じゃあ川嶋さんの言うとおりにしようか」
 聡が笑いながら瀬奈を引き寄せる。
「え?」
「子どもは何人でも大丈夫だそうだから」
「聡さんっ!」
「はは……冗談だよ。子どもは結婚式を挙げてからのほうがいいかな? でもそれはこうして愛しい奥さんを抱いちゃいけないってことじゃないだろう?」

 川嶋が辞める前に瀬奈はいろいろなことを川嶋から教えてもらっていた。川嶋は今までにいろいろな仕事を経験しているらしく家庭を持っていたから家庭の事一般にも詳しい。瀬奈から見れば川嶋は家庭の事も秘書的なこともできる経験を積んだ社会人だった。
 生活費などのことは瀬奈にもわかるように聡がしてくれていたがほとんどは銀行口座からの引き落としだということで手間はなく、瀬奈はまず聡が家や会社で不便を感じないように気を配ろうと思っていた。
 聡の使う物もどういうものをどこで買ったらよいのかというようなことも川嶋があらかじめ聡に聞いてくれてあったのでクローゼットの中身を確認して聡の夏物の服を補充しておく。スーツのほかワイシャツや靴下、アンダーウェアなどこまごましたものが過不足ないように揃え、聡の好きそうな普段着や外出着も追加しておいた。 その他にも季節ごとの服の整理をし、慶弔用の礼服、出張に必要なバッグや洗面用具などいつでも使えるようにしておく。 これらのことが聡の仕事のフォローになるのだということ、家の中のことも家事は小林さんがやってくれるにしても瀬奈はそれらのことを経済的な面も含めて管理していく必要があるのだと、これも川嶋に教わったことだ。
 聡の仕事上で関係のある人たちや親類との付き合いもあるだろう。もっとも聡には親戚づきあいをしている親類はいないようだったが、ゆくゆくはそういうことも必要だと瀬奈は心を引き締める思いで考えていた。


 札幌のいとこの真由から電話があって夏休みになったらすぐに遊びに来たいという。
「もちろんいいよ。俺はつきあえないけれど瀬奈は真由ちゃんと一緒に出かけるといい」
 快く聡が言ってくれたので真由に電話をする瀬奈の声も弾んでいる。
「瀬奈ちゃあん!」
 羽田まで迎えに行くと真由は飛びつくように瀬奈へ近寄って来た。
「わあ、車なんだ、運転手さんもいる。森山さんの車でしょ、すごっ! それより瀬奈ちゃんきれいになったあ? その服すてきね。かわいい服、東京で売っているところ教えて! 一緒に買い物に行けるでしょ? 瀬奈ちゃん、ほんときれい!」
 機関銃のようにしゃべる真由に瀬奈は思わず笑い出してしまう。
「これから行く? 聡さんもいいって言ってくれてるから」
「もっちろん行く! わあ、瀬奈ちゃんラブラブなんだ。森山さんと」
「うん」
「うっわー、瀬奈ちゃんそれって幸せ過ぎー。結婚式はいつするの? ってか、お父さんたちが聞いてこいって」
「まだ決まってないんだけど、たぶん秋か冬頃になりそう。聡さん忙しくって」
「そっかー、そうだよね。会社の社長さんだもんね。でもいいなあ」
 はしゃぐ真由と赤坂や原宿をまわって買い物をする。楽しそうな真由と綺麗な瀬奈に道行く人がちらちらと視線を投げかける。瀬奈は派手な格好はしていなかったが人目を引くほどに美しかった。
「東京は綺麗な人がたくさんいるけど、瀬奈ちゃんは特別だよ!」
 思わず真由が言ってしまうほどだった。東京へ来て垢ぬけたこともあるが、なにより瀬奈を美しくしているのは聡に愛されていることだった。幸せの美しさ。

「きゃー」
 今日は早めに、といっても午後の9時を過ぎていたが家へ帰ってきた聡と会って真由は叫んでいる。前に一度札幌で聡と顔を合わせているのに。
「森山さんてばいつ見てもすてきー。もー瀬奈ちゃんがうらやましい。瀬奈ちゃんがこんなにきれいになるわけわかるよ」
「はは……真由ちゃんもかわいいよ。その服どこで買ったの?」
「原宿です! かわいい服のお店がいっぱいあって。お土産を買いにまたいくつもりなんです」
 真由がさっそく今日買った服を着て、といってもタンクトップにぴったりとした膝下までのショートジーンズに重ね着しているのだが、リボンがついた胸元にギャザーの寄せられた白いルーズワンピースをひらひらさせる。夏休みなのでメイクもしっかりしている。
「じゃあその服にあうバッグと靴をプレゼントしよう。瀬奈と一緒に選んでおいで」
「わあ! うれしい!」

「ありがとうございます。真由ちゃん、とっても喜んでいた」
 数日滞在した真由がもっといたいけど部活があるからと帰って行き、瀬奈は久しぶりに日曜日の夜に聡に抱かれていた。
 真由にも森山さんて帰りが遅いんだねと言われたが、このところまた聡の帰宅は遅くなっていた。たいてい深夜に帰ってくる。先週は土、日も仕事だ。聡が疲れていることはわかっていたので瀬奈もなるべく聡が休めるように気遣っていた。
「いや、真由ちゃんと食事もできなくて悪かったかな」
「ううん、しかたないわ。仕事だもの」
 聡が瀬奈を胸に抱き瀬奈の髪を慈しむようになでている。
「真由ちゃんは本当の妹みたいだね。……瀬奈、もし、もし何かあっても札幌の叔父さんたちや真由ちゃんがいるから大丈夫だね」
 え……?
「何かって……なに? 聡さん、どうかしたの?」
「いや、何でもないんだ。もしものことを言っているだけだよ。今まで言ってなかったけれど俺は瀬奈のことになってしまうと心配性になってしまうらしい」
 見上げる聡はやさしい笑顔。
 ……本当に? ……もしものこと?
「聡さん?」
 瀬奈の少し心配そうな声。その声の不安を消し去りたくて聡は瀬奈の唇をキスでふさいだ。
「ん……ん……」
 甘く柔らかい瀬奈の唇。もうそれだけで聡の理性がしびれたように飛んでいく。繰り返す愛撫に瀬奈がしっかりと抱きついてくる。さっきの自分の言ったことの不安を瀬奈から消すように聡は瀬奈を抱きしめ体の熱さを上げるようにキスを繰り返す。唇に、胸に、やさしいつぼみに。 乳房をかすめる聡の唇が固くなったその先端を甘噛みすると震えるように瀬奈の体が反応するのがわかった。
「あ、あ」
「そう、瀬奈の声を聞かせて。俺だけが聞くことのできる声を……」

 芳しい瀬奈の体。熱に発散されるように瀬奈の体が匂いたつ。
 愛されるたびに敏感になっていく瀬奈の肌。それは聡も同じだった。瀬奈と触れ合う部分で瀬奈の熱さを感じている。ここ2週間ほどキスだけだったのだから尚更に。
「熱いよ、瀬奈。こんなに」
 肌も内部も。
 体を重ねて以来まだ瀬奈は聡の愛情を受けるだけではあったけれど、それでも瀬奈の熱が聡の熱を求めているのがわかる。蜜蝋(みつろう)のように熱で融け合う。
「瀬奈……俺のこと好き?」
「あっ……」
 震えるような快感に思わず瀬奈の声が出てしまう。
「聞かせて、瀬奈」
「好き……好きなの……愛し、てる……」
「俺もだ」
「……あ、んっ……」
 瀬奈の潤んだ花唇へ聡の指が何度もすべりこむ。
「溺れそうだ」
 とっくに溺れている。瀬奈の柔らかく、そして確かなやさしさに。
「…………」
 瀬奈が喘いで言葉が出なくなっている。
 入ってきた聡の動きが体に響く快感となって繰り返される。絶え間ない刺激に否応なく高められていく。
「……一緒にいこう、瀬奈」
 聡のささやく声が代わりに言ってくれる。体が反応する。隠すものなどない。きゅんと突き上げられるような、しびれるような快感が駆けのぼる。
「……は……」
 声にならない。吐息のようなふたりの声。
「瀬奈……瀬奈……愛しい瀬奈……」
 ベッドの上へやわらかく広がる瀬奈の髪に聡は顔を落としていく。
 今はもう瀬奈から離れられないのは自分のほうだ。
 こんなに愛している……。


 瀬奈の眠りはいつでも深い。たいていは朝まで目覚めない。今は穏やかな眠りについている瀬奈の寝顔を眺めながら聡はそのあたたかい体に寄り添っていたが目は暗闇の空間を見据えていた。

 三日前に東郷の会社ティーオールカンパニーから業務提携の話が極秘で内示されていた。しかし今のAMコンサルティングの状況では提携ではなく、事実上吸収されるようなものだ。この話をするために来たのは東郷ではなく ティーオールカンパニーのコンサルティング部門の会社の社長だった。が、聡には感じられた。東郷の意志が。

 瀬奈。君のために自分のために俺は負けたくはない。
 何があっても……。
 瀬奈……。



 朝になるともう聡の姿はなかったが瀬奈は幸せな気分で聡のいたベッドの跡をなでた。ベッドサイドには書き置きが残されていた。

 ―― すまない、早く出かけるよ。愛している ――

 愛している。わたしも……。
 瀬奈は笑顔でベッドから起き出した。


2008.05.29

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