花のように笑え 第1章 14

花のように笑え 第1章

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 それからしばらくして君が嫌でなければ、と聡から言われていたが瀬奈は聡の仕事上の付き合いのパーティーへ出ることにした。聡とは結婚してから初めての外出だ。あまり肩ひじの張ったものではなくクラブのような集まりで親睦を兼ねてという名目らしい。
「会社の取締役といった人たちばかりだから若い人は少ないけれどね。会場のホテルの近くでは花火も上げるそうだから、まあ花火見物かな」
 もう7月だったから瀬奈はドレープがきれいなAラインを描くスリップドレスに軽いボレロという服装で行くことにした。膝下まで隠れる長さのダブルフェイスのような光の当たり具合で玉虫色に光沢が変わるグリーンベージュのドレスはゆるくアップにまとめた つややかな瀬奈の髪とあいまって渋い輝きを放っていた。瀬奈は白やピンクといった色も似合ったがこんな落ち着いた色も似合う。
「ちょっと惜しくなってきた」
 ドレスの瀬奈に腕を貸して会場のホテルへ入りながら聡が言う。
「何が?」
「こんなにきれいな君をみんなに見せることが。俺だけのものなのに」
 聡の言葉に瀬奈がうれしそうに笑った。そしてその笑顔にまた聡は見とれてしまう。

 これまで瀬奈が人前に出ることはなかったので会場へ入るとあっという間に他の客たちに取り囲まれるようにされてしまった。年配の会社役員といった人たちがほとんどで、その夫人たち。息子夫婦や孫らしい子どもと一緒の人も何人かいた。きっと一緒に花火を楽しみに来たのだろう。
「まあ、こちらが奥様?」
「お若くてお美しい奥様ですね」
「森山瀬奈です。よろしくお願いします」
 一通り聡が瀬奈を紹介し終わると奥様方に取り囲まれてまた挨拶。皆、貫録も押し出しもある年配の奥様方ばかりだった。しかし瀬奈は気後れせず素直に挨拶をしていく。 大勢の人に挨拶をして相手の顔も憶えきれなかったが「最初はそんなものだから」と聡にも前もって言われている。
 やがて近くで行われる打ち上げ花火が見え始め会場の人たちが窓際へ集まる。若い人や子供たちから歓声が上がり一気に場の空気がなごんでいく。瀬奈は聡のとなりでやっとジュースのグラスに口をつけながら花火を眺めた。冷房の効いたホテルのパーティー会場から打ち上げ花火を見るなんてすごく贅沢なことだ。
 フロアは中央を広くとってあり、あとでダンスタイムもあるという。ここにいる人たちはきっとダンスもたしなみのひとつとして踊れるのだろうと瀬奈は考えていた。
 一度目の花火の打ち上げが終わる頃、聡が誰かに話しかけられて少し離れたところで話をしていた。花火を見るために会場は照明が落とされており、瀬奈はひとりの男がすぐそばにいることに気がついていなかった。花火が終わり暗かった照明が少し明るくなって瀬奈は後ろに
立っていたのが東郷昭彦だとその時気がついた。
「瀬奈さん、今晩は」
「……今晩は。あの、先日は失礼しました」
 東郷の相変わらず鋭い目が瀬奈を眺めまわす。値踏みをしているようなその視線に瀬奈は聡が東郷のことをなぜかひどく怒っていたことを思い出し言葉を継げない。
「いいえ。いい夜ですね」
 言葉は普通だったが東郷は表情を出していない。
「あの、主人でしたらあちらに」
「いや、ご主人に用があるわけじゃない。瀬奈さんにお会いしたかったのですよ」
 会場の明かりは花火が始まる前ほどには明るくはなっていない。音楽が流れ始めダンスタイムがはじまったようだった。
「一曲お相手願えますか」
 そう言って東郷が手を差し出した。しかし彼の表情からは何も読み取れないようだった。
「いえ、すみません、わたし……」

「何をしている?」
 後ろからの声に驚いて瀬奈は振り返った。
「聡さん」
「これは東郷さん、こんなところでお会いするとは珍しい。ちょうどよかった。妻を紹介させて下さい」
 聡が瀬奈の手を取りながら言う。
 聡の手にほっとしながらも瀬奈はふたりの顔を見比べた。社交辞令のような会話なのにふたりの表情は厳しい。まるでにらみ合っているようだ。
「以前はわざわざ家まで来ていただいたとか」
 落ち着き払って東郷が答える。
「その時に奥様には自己紹介させていただいた。一曲お願いしたいと思っていたところです」
「妻はまだこういうところに慣れておりませんので。失礼」
 そう言うと聡は瀬奈の手を取ったままフロアへ出ていく。瀬奈のドレスの光沢が渋く光り、あれがAMコンサルティングの社長の妻なのだとささやくように話している人々の声を感じる。
「手をまわして」
 聡が瀬奈の耳元でささやく。
「でも、わたし踊ったことない……」
「大丈夫。俺に合わせて」
 すでにフロアは明るくなっていて、曲はゆっくりとしたテンポだった。瀬奈がまわりで踊っている人たちをこっそりと見るとほとんどは年配の夫婦のカップルのようでゆったりと踊っている。これならわたしでも大丈夫そうだわ……。
 聡はゆっくりと瀬奈をリードしてくれている。
「なんとなく動いていればいいんだよ。そう……それでいい」
 ステップもなにも知らなかったが聡のリードに合わせていればそう下手に目立つこともなさそうだった。
 瀬奈は気がついていなかったが東郷はふたりがダンスを始めると出て行ってしまった。踊っている聡と瀬奈へ投げかけた東郷の一瞥に気がついたのは聡だけだったが、瀬奈がそれに気がつかなかったのは幸せだったのかもしれない。

 森山聡に手をとられた時、東郷を見ながら森山へ寄り添うようにした瀬奈の顔。愛する者の懐へ逃げ込んでいくような、不安から逃れてほっとしたような少女のような顔。しかし清純なその顔は愛すること、愛されることを知っているような柔らかなつややかさのある顔でもあった。
 ……思った通りになったな。
 東郷は初めて瀬奈の顔を見た時に今の瀬奈の美しさを予想した自分に満足して笑みを浮かべた。
 この妻を奪ったら森山はどんな顔をするだろう。
 会社を潰してやるだけではつまらない。じっくりと楽しませてもらおう……。


「奥さんは疲れたかな?」
 聡が瀬奈を後ろから抱きしめながら瀬奈の首筋の髪の生えぎわへ口づけしながらささやく。聡の吐息と唇の感触。
「ううん、楽しかったわ。花火もきれいだったし」
 しかし瀬奈の細い肩が心なしか固い。
「どうしたの?」
 家へ帰って来て入浴を済ませるとベッドで瀬奈をやさしく抱きこんでいたが、今夜の瀬奈は何かいつもとは違っていた。恐らくは初めてのパーティーでの不慣れさや緊張が知らずのうちに瀬奈を疲れさせたのかもしれないが、 それよりも瀬奈は東郷に会ったことを気にしているようだった。以前に聡が怒って東郷に会う必要はないとまで言い切っていたのだから瀬奈が心配するのも無理はない。
「東郷のことは気にしなくていいよ。以前、仕事上でちょっとあってね。俺のことが気にいらないのさ」
「…………」
 腕の中の瀬奈は聡の手を感じているのにためらっているようだった。
「あいつのことを気にするなんて、それはもしかしたら俺にヤキモチ焼かせたいのかな?」
「そんな」
 冗談を帯びていく聡の口調にほっとしながら瀬奈は聡へ抱きついた。
「瀬奈が俺以外の男を気にするなんて許せないな」
 言葉とは裏腹に笑いながら言う聡は気楽そうだった。東郷など気にもしていないという態度で瀬奈の不安を消し去ってくれる。
「わたしは聡さんだけ、聡さんだけだもの……」
「俺も瀬奈だけだ。愛しているよ」
 聡の腕に支えられて瀬奈の体がゆっくりとベッドへと倒されていく。
 自分の愛で花が開くようにどんどんきれいになっていく瀬奈。もう子供っぽさが抜けて若い大人の美しさにまぶしいほどだが、その花のような笑顔を自分だけに向けてくれる愛しい瀬奈。

 聡は心の中とは反対にゆっくりと愛撫を繰り返していく。
 瀬奈を見ていた東郷のあの目。東郷が出ていく前に浮かべた不可解な笑み。それを思い出すたびに聡の手に力がこもりそうになるが、東郷に瀬奈との愛を邪魔させる気はないと逆に自分を抑える。 嫉妬だけではなく瀬奈を東郷などのことで心配させたくはなかった。
 瀬奈は叔父夫婦に引き取られていたせいか聡にもわがままを言わない。不安に思っていることがあっても言わない。邪魔にならないように、わがままは言わずに過ごすことが身についてしまっているようだった。きっと肩身が狭かったのだろう。 聡も自分の少年時代に同じような思いをした。ただ聡はそれをケンカや夜遊びで発散させたが瀬奈はそんな事もしていない。まわりの人間の顔色を窺うほどには卑屈にはならなかったが、それでも遠慮して小さくなって生きてきたのだろう。
 そんな遠慮はもうしなくてもいいんだと聡は言ってやりたかった。愛しているから。

 聡に口づけされるたびに瀬奈の体の力が抜けていく。心の力が抜けていく。
 いつのまにか聡が瀬奈の心の深くに入ってきている。聡に愛されることで、やさしい言葉や時には冗談で、そして愛の行為そのもので瀬奈を夢中にさせてくれることで瀬奈に自分の居場所が聡の傍らだと感じさせてくれる。 聡に愛されるたびに心の重しが取れていく。
「聡さん」
 瀬奈が聡にすべてを忘れて身をゆだねる。ただ愛しい人の名をつぶやきながら。

第1章終了


2008.05.20

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