花のように笑え 第1章 11

花のように笑え 第1章

目次


11


「田辺……わたしのおじいさんのこと?」
 どうして祖父の名が出てきたのかわからない瀬奈がびっくりして聞き返した。
「そうだよ。私……いや、俺は旭川にいたことがあるんだ」

 旭川の祖父が若い頃教師をしていたというのは母から聞いたことがある。もともと入植農家に生まれた祖父は十数年ほど続けた中学校の教師を辞めて酪農家になり、その後も地元の学校に頼まれて臨時の講師をしたり、教育相談のようなものを受けたりしていたそうだが、やがて酪農を勉強する若者や高校生を自宅へ下宿させるようになっていた。 祖父は下宿代もたいしてとらないかわりに牧場の仕事を手伝わせて若い人たちに酪農や勉強を教えていたそうだ。
 どんな子でも受け入れる祖父のもとへは酪農を学ぶ学生だけではなく、やがては素行に問題のある子や家庭に事情があって厄介払いのように送られてくる中学生や高校生などが集まるようになった。
「おばあちゃんは苦労したそうよ。お母さんはひとりっ子だったから自分と同じ高校生や中学生の人たちと牛の世話を手伝うだけだったけど。おばあちゃんは大変だったみたいよ」
 母はそんなふうに言っていた。
 なかには子供の下宿代はおろか学費さえ送ってこない親たちもいたが祖父はそんな子供たちのために別棟の住まいを建てて嫌な顔ひとつせず学費を肩代わりしてやり、子供たちには
「勉強しろよ、勉強は自分を裏切らないぞ」
 と口癖のように言っていたと、瀬奈の母がいつか話してくれたことがある。
 しかしそういった祖父の借金は増す一方で、祖母が亡くなった時にはもう牧場を手離さざるを得ないところまできていたそうだ。

「君のお母さんはひとり娘で、俺が先生のところにお世話になっていた時にはもう結婚されていたけれど、何度か顔を見たことがある。君と一緒に」
 それはたぶん瀬奈が幼い頃の話だろう。旭川の祖父の家へは何度も行ったことがあると母から聞かされていたが、それは母からそう聞かされたことが記憶のようになっているだけで瀬奈には祖父の家のことも実際には記憶になかった。
「そうなんですか……でもどうして聡さんがおじいさんのところに?」

「……俺は親に捨てられたのさ。父親にも母親にもね。旭川へ行くまでにもずいぶんと荒れていたよ。問題を起こして親戚から施設をたらいまわしにされて、夜遊び、ケンカ、暴力……そんなことばかりしていた。手がつけられなかったよ、その頃の俺はね。 今、思い出してもあのとき北海道へ送られることになったのはもうどこにも俺を受け入れてくれるところがなかったのかもしれない。 よく犯罪をおこさなかったと自分でも思うよ」
 瀬奈は驚いて聡の顔を見たが今の聡からは全く想像もつかなかった。
「旭川へ行ってからも嫌で嫌で何度も逃げ出した。牛の世話なんてまっぴらだった。だけど、でも俺は瀬奈のお祖父さんに救ってもらったんだ。田辺先生にね」

 聡が瀬奈の手を握りなおした。その聡の手を瀬奈は見降ろして、また聡の顔を見る。
「瀬奈、君は憶えていないだろう。君がお母さんに連れられて田辺先生の家に帰って来ていた時、俺に会ったことを」
 憶えていない。
「君はまだほんとうに小さくてよちよち歩きで俺のところまで歩いてくると俺の足につかまって俺を見上げたんだ」
 記憶の奥底を探っても憶えていない。それほど瀬奈が幼かった時のことだろう。
「思わず振り払っていたよ。あの頃の俺には親の愛情に恵まれた子供なんて見るのも嫌だった。それが先生のお孫さんでも。ころんだ君をさらに蹴飛ばそうとしてその時気がついた」
「…………」
「その時、気がついたんだ。田辺先生が俺を見ているのを。君のお母さんが見ているのを。君を蹴ろうとしている俺を何も言わずじっと見ているのを」
 聡が苦しそうに顔を歪め、それでも話しを続けた。
「君は泣きもしなかった。よろよろと自分で立ちあがって、泣きもせずに……そうして俺はその場から逃げることしかできなかった。その後で田辺先生から言われた。親を知らない俺に先生は俺はおまえの親じゃないから親の愛情は与えられない、 だがひとりの人間としておまえに向きあう、そう言ってくれたんだ。どうしてかな。 自分でもわからないけれど、それでもいいってその時思えたんだ。親を、口では否定していた俺も親を求めていたんだって。だけどもう親を求めても仕方がないんだって思えたんだ。あきらめだけどね。……あきらめがついたってことかな。 それからは必死で勉強をやり直して高校へも先生のところから通った。俺が東京の大学に合格した時に先生は涙を流して喜んでくれた。だけどその後で先生にぶん殴られたよ。 この痛みがわかるなら二度と以前の俺に戻るなと。そうして先生は俺を一人前にしてくれたんだ」

「三田さんとも先生のところで一緒だった。あの人は俺よりはずっと年上で先生のところでは住み込みで働いていたけれど、三田さんも先生にお世話になったひとりなんだ。今は俺が北海道から呼び寄せて仕事を手伝ってもらっている」
「三田さんも……」
 三田はその人を寄せ付けない雰囲気にもかかわらずそれとなく瀬奈を心配してくれていた。瀬奈もそれを感じていた。
「何年か前に旭川へ行った。先生の奥さんが亡くなったあとで。そのとき先生から君のことを聞いたんだ。札幌の叔父さんに引き取られていることを。だから君のことを調べて、叔父さんの会社に援助をすることにして結婚話を入れた。どうしてかわかる?」
 瀬奈は首を振った。わかるような、でもわからない。
「田辺先生はもう牧場をやめてしまい牧場時代の借金でご苦労されていた。俺たちのせいなのに。俺が援助と借金の肩代わりを申し出ても先生はがんとして受けてはくれなかった。まあ、あの先生ならそうするだろうけどね。だがその先生が言ったんだ。孫を、瀬奈を頼むと俺に言ってくれたんだ」
 わたしを頼むと…… 聡さんにおじいさんが……。
「他のことでは先生は人に頼ることなどしない。だが君のことだけは……そして君に初めて会って、いや、高校生になった君にまた会って君を見た時に思ったよ。俺が君を助けるために頼まれたんじゃないんだと。先生のおかげでこうしていられる俺に先生は君を愛するために会わせてくれたのだと」

 ぽろりと涙が瀬奈の頬を滑り落ちた。瀬奈の心の震えそのままに手が震えたが、しかし聡は手を離さずに話を続けた。
「君を好きになればなるほど君を幸せにしたかった。だから君が東京へ来て、その直前に会社がおかしくなってしまった時にはさすがに参ったよ。このまま君を北海道へ帰そうと何度も思った。けれどもそれもできなかった。君が好きだった。愛していたんだ」
「じゃあ、どうして……」
 ついに声に出して瀬奈は聞いてみた。それならどうして……?
「幸せにしてやりたくて結婚したのに君を迎えたとたん破産だなんて、そんなことができると思うかい? 君が妻であっても、俺がいくら負債を負っても借金は君には関係ない、といっても実際はそういうわけにはいかない。だからもしだめでも、会社がつぶれたならせめて君をそのまま帰してやりたかった。 でも、そばにいて君の顔を見てそれでも抱かずにいるのはつらかった。 だからどうにもならなくてアメリカへ出張だと嘘を言って俺は逃げ出したんだ」
「……うそ……だったの……」
「済まない。でもあの時は君どころではなかったのも確かだ。必死だった。三田さんもね」

 嘘だったのか……アメリカへ出張というのは……。
 ではあの時、聡は家へ帰る暇もなく会社に釘付けになっていたのか。あの時一足早く帰ってきたと言った三田の疲れた顔。そう、そうだったのね。今までの聡の不可解とも思える行動。やっとわかった。
 でも。
 やっぱり聡は瀬奈にとってまだ未知の人だ。

「好きな人なら……会社がなくなっても、無一文になっても一緒にいたいはずだわ。わたしの母もそうだった。父が事業に失敗しても一緒にまた頑張ろうって言って……母が病気になってしまったのも父が事業に失敗したからではなくて、父が絶望して死んでしまったからだもの……」
「お父さんが……」
 聡がそう言って絶句した。
「父は自殺同然だった……。何も言わずひとりで死んでしまった。それがわたしと母のためだったにしろ、でもどんなに苦しくても母は父と力をあわせたかったのだと思う。わたしだって……何も知らされずにいるのはいや。 たとえあなたが社長じゃなくなっても、お金持ちじゃなくなってもそんなのかまわない。何も話してくれないよりは……それなのに……」
 聡に握られている瀬奈の指が震えている。その瀬奈の指の震えが聡の心臓へ突き刺すように響いてくるように感じられる。しかしそのか弱さにもかかわらず瀬奈のまっすぐなものの考え方、芯の強さ。さっきの連れ戻そうとした時の抵抗の激しさ。瀬奈のことをわかっていなかったのは自分だと聡は思わずにいられない。
「瀬奈」
「でも……でも……ごめんなさい、そんなのきれい事だわ。聡さんが話してくれていたとしてもやっぱりわたしは聡さんにとってお荷物でしかない……」
「瀬奈、ごめん」
 聡が瀬奈の体を抱きしめる。瀬奈のその頬を自分の胸に押しつけて強く、しっかりと。
「瀬奈のお父さんのことを知っていたからこそ俺は会社をつぶしたくはなかった。でも瀬奈のためだと思いこんでいた俺はやっぱり自分しか見えていなかった。君がそばにいてこんなに苦しんでいたのに。ごめん。でも、もし許してくれるのなら今度こそ本当の夫婦になって欲しい。君がまだ俺の事を好きなら……」
 そして聡はまた繰り返した。
「俺のことが好きか?」

 顔を上げ瀬奈は聡の目を見つめ返す。
「好きだから結婚したのに……結婚しても聡さんはまるで他人のようだった。聡さんこそわたしのことを好きだなんて言ってくれなかった」
「悪かった。俺は君が好きだった。結婚する前からね。……でも怖かった。君を大切にできるかどうかわからなくて。こんなに臆病になったのは生まれて初めてだよ。会社がなくなったら君まで失ってしまいそうで……それでも君は俺のことを好きか?」
 瀬奈の頬にまた涙が伝う。
 聡の元へ来てからのつらい日々。心細くて、不安で、でも何もできない。もう自分がほんとうに聡のことを好きなのかどうかもわからなくなっていた。
「ごめんなさい……聡さんのこと、わからなかった……」
 正直に言うしかなかったが、うつむく瀬奈の頬に指が当てられて聡の胸へと押し当てられた。
「聡……さ……」
「瀬奈、ごめん。不安にさせてそのうえ怖い思いまでさせてしまった。俺が守るべきなのは会社じゃない。瀬奈だ」
 どんどん涙があふれてくる。体が震え聡にしがみつく。聡の白いワイシャツの胸に瀬奈の涙が落ちる。いくつも、いくつも。熱く冷たい瀬奈の涙が聡の胸へ吸い込まれていく。

 聡は黙って瀬奈の肩や背中をなでていた。時折、瀬奈の名を呟き頬に額にキスをする。そうして長い時間、瀬奈は聡に抱かれたまま泣いていた。泣き声をあげてこんなに泣いたのは初めてだった。いや、憶えている限り誰かにすがって泣いたのも初めてだった。瀬奈はいつでもひとりで泣いていた。 父が死んだ時も、母が死んだ時も、この家へ来てからも。

「瀬奈」
 名を呼んでくれる聡の胸から響いてくる声。
「瀬奈」
 何度も名を呼ばれ、やがて泣きやんでも聡は瀬奈の体を抱きしめて待ち続けていた。
「瀬奈」
 聡が言ってようやく瀬奈は少し顔を上げた。
「瀬奈を愛している。今までも、これからも。まだ……間に合うか?」
 泣き疲れたような瀬奈の顔を聡はじっと見つめている。
「間に合うように聡さんはわたしをつかまえてくれた……そうでしょう? わたしを……」
 言い終わらないうちに聡の唇が瀬奈の唇に触れた。
 もう瀬奈の答えを聞く必要はない……。

 ゆっくりとやさしく繰り返される口づけ。こんなにもやさしいキスがあるなんて。
 瀬奈の心を解きほぐすような聡の唇。抱きしめられて何度も繰り返す口づけ。瀬奈が遠慮がちに唇を開くとそれを待っていたように聡が舌をからめた。さらに熱くキスを繰り返しながら瀬奈がとうとう聡の肩へ両腕を回すとそのまま聡は瀬奈を抱き上げて立ちあがった。
 初めて瀬奈を抱くために。


2008.05.08

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