花のように笑え 第1章 5

花のように笑え 第1章

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 聡が出かけてしまってから1週間が経とうとしていた。聡からは電話がなかったが川嶋が会社からは連絡があったと言っていた。やはり予定通りもう1週間は帰れないという。
 川嶋が今度の土、日も来ますと言ってくれたが、それでは川嶋の休みがなくなってしまう。ずっとわたしのために休んでいないのに。大丈夫だから、出かけないし家にいるだけだからと川嶋に休むように瀬奈が頼んで、小林さんもいることだからとやっと 川嶋も日曜日だけ休みを取ってくれた。
 そんな日曜日の午後だった。

「お客様? わたしに?」
「はい、奥様に」
 盆に乗せた名刺を小林さんが差し出してくれているのを覗き込むように見てからその名刺を手に取った。 瀬奈には知らない会社名とその取締役の肩書と名前が書いてある。名ももちろん知らない人だ。
「…………」
「旦那様にお会いになりたいとのことでしたがお留守だとお伝えするとぜひ奥様にご挨拶されたいと」
 小林が控えめに言う。
 聡さんの知り合い? 取引先のかた? でも今日は川嶋さんがいない。聞くと三田もいないという。 しかし、わざわざ来て取次ぎを頼んでいるのだ。名刺も立派なものでその肩書にふさわしい感じがするし、車で来て運転手を待たせているという。
「ご挨拶だけなら……」
 断るのも会うのも本当のところ瀬奈にはどちらがいいのかわからなかったが、断って後で聡が困ったりしないようにと会うことにした。挨拶だと相手も言っている。

 瀬奈が応接間へ入るとソファーへ腰を降ろしていた男が立ちあがった。
「初めまして、ティーオールカンパニーの東郷昭彦(とうごう あきひこ)といいます。まあ、森山さんとは長いつきあいで。友達みたいなもんです」
「森山瀬奈です。初めまして」
 見たところ聡と同じようにこの社長も若い。聡に負けず背の高い東郷は体つきは聡よりはかなりがっしりとしている感じで、同年代とはいえその印象はずいぶんと違ったものだった。どちらかと言えば色の白い顔。ビジネスマンらしいすっきりとした髪型。 しかしその顔の印象を決めているのは目の光りだった。瀬奈に挨拶をしているあいだも鋭く瀬奈を見つめている。
「お噂どおり、すてきな奥様だ」
「そんな……」
「いや、森山さんが若い奥様をもらったともっぱらの噂ですよ。しかもこんなにかわいらしい、いや失礼、お美しい奥様なら噂にもなるでしょう」
 しかし瀬奈は東郷の何となく好奇心を表へ出したような瞳が気になった。
「主人が留守で申し訳ありません」
 主人、という初めての言い方に瀬奈は緊張しながら言う。
「ええ、知っていますよ。お忙しいのでしょう?」
 え? 知っている……?
「あの……」
「ではまた森山さんがお忙しくない時に。今日はこれで失礼します」
 さっと東郷が立ちあがった。もう部屋を出てしまっている。あわてて玄関まで出た瀬奈に東郷はもう一度瀬奈の顔を見ると一礼して出ていってしまった。

 ほんとに挨拶だけだったけど……。
 帰ってしまった東郷になぜかほっとしながら瀬奈は東郷の名刺をライティングテーブルの引出しへしまった。 名刺は聡の書斎に置いた方がいいのかもと思ったが聡の留守に彼の書斎へ入るのは悪い気がした。聡さんが帰ってきたらこの人が来たことを言えばいい。

 瀬奈はこのところ毎日散歩へ出かけるようになっていた。家の中にいてもすることがないので散歩をしながら近所の様子を見て歩く。聡の家のまわりはお屋敷町でどの家も塀が高く、塀の内にはほどよく樹木を植えこんでいるのがわかる。 重厚な屋敷や瀟洒でモダンな造りの家の中は道からうかがえるはずもなかったが。それでもしばらく歩けば商店の並んだ通りへと行くことができた。そこにはスーパーマーケットや本屋や花屋があり瀬奈の良く知っている生活の匂いがあった。 さらに行けば学校や病院もあり幹線道路へと通じている。今日は青い小さな花模様のコットンのシャツに白い綿ニットのセーターとジーパンというスタイルで川嶋さんと一緒に歩く。子供ではなかったからほんとうは散歩くらいひとりで歩きたいところだったが、 それではかえって川嶋や小林を心配させてしまうことがわかったので瀬奈は無理にひとりで歩きたがることはしなかった。
 それでも自分のこれまでの生活からかけ離れたような聡の家での暮らしから外へ出てみるのはとても良い気分転換になった。札幌とは空気が違うような東京の町。住宅の雰囲気も北海道とはかなり違うように思える。

 日に日に今の生活に慣れてきているような瀬奈の様子に川嶋も安心していた。川嶋にとって瀬奈は最初はいかにも大人の生活へ放り込まれた高校を卒業したばかりの女の子、という感じに思えた。自分の美しさに気がついていない世馴れない女の子。 それでも瀬奈にはおとなしいながらも新しい生活を受け入れようとしている前向きさがあった。そんな瀬奈に川嶋は母親のような気持ちになってきてはいたが、それはあまり表には出さないようにしていた。瀬奈は意外にまわりをよく見ている。 川嶋の休みのことにしてもそうだ。まわりが見えている。高校生くらいの若い子にありがちな年代の違う大人を拒否している雰囲気もない。
 このお嬢さんは素直なだけではない、案外苦労しているのかも……と川嶋は思わずにはいられなかった。散歩に川嶋がくっついて行っても嫌な顔もしない。川嶋が瀬奈から離れずにいるのは聡から言われたからだったが、聡は何かを警戒しているようだった。 さりげなく気をつけて欲しいと……。聡様の会社は今、大変なことになっていると三田も言っていた……。


 もうすぐ聡の言っていた2週間になる。瀬奈はせめて聡の帰ってくる時間を知りたいと思っていたがそれを川嶋に言って会社へ聞いてもらうのもためらわれた。緊急でもない限り家の人間が会社へ電話をするものではないと叔母から言われていたからだ。 瀬奈のそんな気持ちが川嶋にわかったのかどうか、午後になると川嶋は三田に聞いてみましょう、と言ってくれた。三田は家のことだけではなく聡の個人的な秘書のようなもので仕事の手伝いもしているという。
 三田が2階の居間へ来たが、瀬奈がこの家へ来た初日に会っただけでそれ以後三田を見かけていなかった瀬奈は三田がとても疲れた様子で、げっそりとやつれたような顔をしているのに驚いてしまった。まるでいっぺんに歳を取って老けこんでしまったように見える。 三田さんはまだ45歳だと聞いていたのに。どうしたというのだろう。
「あの……三田さん、お体の具合でも悪いんですか?」
 思わず聞いてしまったほどだ。
「いいえ、奥様。社長のお供でちょっと疲れただけですので」
「え? 三田さんは聡さんと一緒だったの?」
 川嶋さんはこの前は確か三田さんは休みだと言っていたような気がするのに……。
「はい、私は一足先に帰って来ました。社長は今夜遅くに日本へ戻られます。……忙しくて奥様に連絡できないのが申し訳ないとおっしゃっていました」
「今夜? そうなんですか?」
「はい」
 三田は疲れた顔をしていたが受け答えはていねいだった。
 聡さんが帰ってくる。でも……。
「三田さん、聡さんはそんなにお忙しいんですか?」
「ここのところ急に。緊急の用件がおこっているものですから。でもご心配なく。奥様があまりご心配になられると社長も気がかりになられますから」
 穏やかな言い方だったが三田の口調は有無を言わさない感じがあった。仕事のことに口出しして欲しくないという意味なのだろう。瀬奈はちょっと考えてから「わかりました、三田さんも体に気をつけてください」と言う。
 三田の疲れた表情が一瞬ゆるんだ。
「ありがとうございます。ですが私のことはいいのです。私も奥様と同じで社長を心配しているのです」

 今夜と三田は言ったが時間はわからないと言う。夜の12時を過ぎても待っていたが何の連絡もない。またあきらめてベッドへ入る。なんだかわたしはずっと聡さんのことを待っている。横たわって考えながら瀬奈は待ち続けている時間の長さを思い返す。 せめて飛行機の到着時間がわかれば聡さんが帰ってくる時間の予測もつくのに。 アメリカからの便を調べておくんだった。
こんな待つだけなんて思った以上にしんどいわ……。

 いつのまにか眠ってしまっていた瀬奈はふと気がついて目が覚めた。やはりベッドには瀬奈ひとりだけだったが居間の明かりがついているようだ。起き上がってドアを開ける。居間には暗い明りがついていて聡の書斎、 その部屋もなんとなく明かりがついているような気がする。
 聡さんだろうか……だけど……?
 音をたてないように静かにドアノブを回すとドアが開いた。

 中には書斎にあるソファーに聡が横になっていた。この部屋の暗くした明かりでもわかる、しわになったワイシャツのネクタイを大きく緩めて上着は放り出してある。靴も脱がずそのままだ。はだけたシャツから聡の胸の素肌が見えている。
 アメリカから帰って来たのだろうか。それにしてもひどく疲れているように見える。こんな聡を見るのはもちろん初めてだ。髪がちょっと乱れ、鬚もまる1日剃っていないといった様子であごのあたりが影のように見える。 あまりにも疲れたその様子に瀬奈は別人かと思ってしまったが、やはり聡でしかない。
 …………
 声をかけようか。それともこのまま寝かせておこうか。
 どうして聡さんは帰ってきたことをわたしに知らせないのだろう。わたしが眠っていたから起こさないように? でもそれではいったいいつになったら聡さんと話しが出来るのだろう。こんなに疲れているなんて……。
 瀬奈はしばらく考えていたが寝室へ戻ると毛布を抱えてまた書斎に戻り、眠っている聡にそっとそれをかけてやった。翳りのある聡の顔の閉じた目にかかるくせのある髪。その髪を直してあげたいと思ったがそれをする勇気は瀬奈にはなかった。

 次の日、瀬奈がもしかしたらと思って起きると朝の6時だったが聡が夕べの様子とはうって変わり、しわひとつないワイシャツとスーツを着て居間にいた。瀬奈が出ていくと気がついて振り返る。
「おはよう」
「おはようございます」
 あまり驚いた様子も見せない瀬奈に聡は言う。
「夕べ遅くに帰って来たんだ。連絡せずに悪かったね」
「いいえ。お帰りなさい」
「今日はもう出かけるよ。夕方には戻る」
 本当だろうか。この人は本当に夕方帰ってくるのだろうか……。
 髪も顔もきれいに整えられていたが、やはり聡のその彫りの深い顔からは疲れているような陰影が感じられた。
「あの……聡さん、ずいぶんお疲れみたいですけど……」
 一瞬、聡の目に驚いたような色が浮かんで瀬奈は何か変なことを言ったのか、それとも言い方が悪かったのかと思ってしまったが、それ以上瀬奈が何も言わず何も尋ねなかったので聡はそのまま階下へと降りて行ってしまった。 後を追って瀬奈は聡と朝食を一緒にとれるかと思ったが聡はもう玄関へと向かっている。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
 やはり何も聞けずに瀬奈は聡を見送るしかなかった。

 その日の夕方までにやはり聡は帰ってこなかった。夜の11時を過ぎて瀬奈が諦めてベッドへ入る。聡さんは今夜は本当に帰ってくるのだろうか? 瀬奈にはわからなかった。それを聡に聞くこともできない。
 でも今夜は起きて待っていよう。2時でも3時でも。たとえこのまま聡さんが帰ってこなくても。徹夜覚悟で瀬奈はそう決心して眠らずに待っていた。
 1時を過ぎたころ居間のほうへ人の入ってくる気配が感じられた。ドアの閉まる小さな音。きっと書斎のドアだろう。それでも瀬奈はしばらくそのままで息をひそめるようにじっとしていた。しかし眠れるはずがない。
 そっと寝室を出て聡の書斎のドアを開けた。今夜は明かりはついておらず暗くはあったが真っ暗闇というわけではない。しばらく目を慣らすようにしてから瀬奈はソファーへと近づいた。聡の体に毛布をかけようとした、その時。

「誰だ?」
 手首をつかまれ、それも容赦ない感じで力を入れられてつかまれたので思わず瀬奈の全身がこわばる。
「……君か」
 瀬奈が後ずさろうとしたが、手首をつかんだままの聡ににらまれている。しかし瀬奈が胸に抱えている毛布を見てやっと聡の手から力が抜けた。
「……すまない。それはもしかして?」
 黙って瀬奈は毛布を差し出した。
「ありがとう、すまない」
 ふーっとため息をついて聡がまたソファーへと横になった。目に手をあてている。黙って部屋を出ようとする瀬奈の背にもう一度聡の声が聞こえた。
「ありがとう」
「……いいえ」
 そのまま黙って部屋を出ることに耐えられなくなって瀬奈はやっと答えた。しかし礼を言われたかったのではないと聡にわかってもらえたのだろうか……。


2008.04.02

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