花のように笑え 第1章 4

花のように笑え 第1章

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 その日は川嶋からお出かけになられてはと勧められたが、瀬奈はあまり出かけたくはなかった。右も左もわからない東京だ。川嶋さんか誰かに案内してもらうのも気が引ける。川嶋が気を利かせて瀬奈が読みそうな雑誌や本を持ってきてくれていたので瀬奈は居間や自分の部屋で時間をつぶしていた。
 聡から電話が入ったのは午後になってからだった。

「もしもし」
 瀬奈が電話へ出て聡の声が聞こえてくるよりも先に言う。
「あの、夕べはごめんなさい。聡さんが帰って来たのに気がつかなくて……」
『いや、瀬奈、悪いがゆっくり話していられないんだ。これからアメリカへ出張になった。2週間の予定だ』
「え? アメリカ?」
『そう、緊急の用件でね。このまま会社から向かうよ。私が帰ってくるまでの間は君は好きに過ごしていいよ』
 そう言われてもあまりに急なことで瀬奈は頭がついていかない。
「あの……あの、そんなに?」
『瀬奈、仕事なんだ。すまない』
「あの……」
『じゃあ』
「待って! あの、電話、わたしから電話してもいいですか?」
『……移動している時間が長いし、時差もあるから』
「あ……そうですね……」
『私から電話するよ。待っていなさい』
「……はい」
『じゃあ』

 電話が切れてしまった。茫然とする。
 出張……アメリカ……2週間……。
「奥様?」
 川嶋が心配そうに見ている。
「あの……聡さん、出張だそうです。アメリカへ2週間」
「まあ」
 川嶋がかなり驚いた顔をしたがもっと驚いている瀬奈の顔を見てすぐに笑顔になった。
「ご心配なく。旦那様の会社の秘書が詳しい行き先などを知らせてよこしますから。きっと急に決まったことなのでしょう。旦那様は前にもこんなことがありましたよ」
 でもこんな時に急な出張なんて、と思わずにはいられない。昨日の午後から聡さんと顔を合わせていないのに2週間も出張だなんて……。
 もし瀬奈が妻としての生活の経験を積んでいたら出張の荷物はどうするのか、といったことへ気が回ったかもしれなかったが今の瀬奈にはただ聡の言ったことを受け入れるしかなかった。

 とにかく2週間は聡は帰ってこないのだ。信じられない気持で川嶋を見た。
「あのう、聡さんはいつもこんなに忙しいんですか?」
「そうですね……」
 川嶋が一拍置いて答える。
「先週から急にお忙しくなったようです。帰りも遅かったし会社へ泊まられることもありました。でも」
 川嶋がほほ笑んで続けた。
「ずっと前から奥様が来られる日を待っておられたんですよ、聡様は」
 そうなのだろうか。そう言われてもすぐにはぴんとこないのは瀬奈にとって聡はまだまだ未知の人だったからだろう。

 どうしよう。
 二週間の間、この家で何をすればいいのだろう。瀬奈は叔母が言っていた結婚後のあれこれの注意を思い出していた。
 ご親戚のかたへ挨拶に行く時はちゃんとした服装で行くのよ。きちんとご挨拶してね。森山さんの会社のかたにも会うかもしれないわね。部下の人たちあっての会社なんだからあなたも森山さんの奥さんとして恥ずかしくないようにね。 家事もね、瀬奈ちゃんはかなりお料理は練習していたから大丈夫だと思うけど、森山さんの好みをちゃんと聞いてね。背広はもちろん森山さんのいろいろな必要なものをそろえておくのも妻として大切な仕事よ……。
 叔母は現実的なアドバイスを山のようにくれたが瀬奈はこの家の中での自分の役割がまだよくわからなかった。が、時間があったので叔母の言ったことを思い出しながらノートへ書き留めていった。
 なにか困ったことがあれば電話するのよ。叔母はそう言ってくれたが瀬奈は電話をするにはちょっと微妙な問題だわとひとり考えて笑ってしまった。
「川嶋さん、わたしは何をすればいいんでしょう?」
 家事のことを瀬奈が言っているのだとわかると川嶋はやさしい顔で言う。
「奥様は家事のことはご心配なさらなくていいんですよ。お気がつかれたことを私や小林へ言って下さればそれでよいのです」
「そうなんですか……」
 まるで子どもの質問みたい、と瀬奈は思っていたが川嶋は的確に答えてくれる。会社勤めの人というよりは普通の家の奥さんのように感じられる川嶋だったが、言動は秘書のようにそつがない。そんな川嶋がそばにいてくれるのはありがたかったが、 身のまわりのことをすべて人にやってもらうということは瀬奈には経験のないことだった。
 母と暮らしていた頃は小学生だったが自分のことは自分でとしつけられていたし、叔父に引き取られた後は叔母の家事の手伝いも心掛けてやっていた。 しかしこの家では聡についている運転手の笹本を別にしても3人も人がいる。なんだか申し訳ないようだ。
 聡さんはずっとこんな暮らしをしてきたのだろうか……。

 川嶋は瀬奈のそんな気持ちをまぎらすように次の日には東京を案内してくれた。 運転手の笹本が運転する車で出かけるから瀬奈は本当の意味での電車のラッシュや雑踏という東京の人の多さを経験しなくても済む。お台場や六本木といった名だたるスポットへ行って、やっぱりわたしはおのぼりさんだと瀬奈は思わずにいられない。 遊びにきたらしい何人もいる高校生くらいの子たちを見てついこのあいだまで自分もあの子たちと同じだったんだ、と感じる。
 川嶋は次の日もと瀬奈に言ってくれたが瀬奈はもう見物はよかった。いろいろなところへ行くのはこれから少しずつ行ってみよう。できれば聡さんと出かけてみたい……。

 瀬奈があまり出かけたくないと思ったのは聡から連絡が入るかもしれないと思っていたからだ。 瀬奈は携帯電話を持っていたが聡と携帯で通話したこともメールしたこともない。札幌にいるころから聡は瀬奈の携帯番号を聞くこともなかった。高校の友達は彼氏とは頻繁にメールをやり取りしているという。会話感覚で交わすメールはほんの些細なことでも好きな人からのメールならうれしいのかも。
 そんなことさえ聡とはしたことがない。瀬奈にとって聡が何だかよくわからないと思うのは歳が離れているせいばかりではなかった。
 結婚したら、それからでもいいから聡さんのことをいろいろと知っていきたい。そう思っていたのに顔を合わせたのさえ最初のあの日だけだ。

 聡さんはいつ帰ってくるのだろう。
 まだ何の連絡もない。もしかしたら時差の関係かな……。アメリカは何時頃だろうと考えても聡が今、アメリカのどこにいるのかもわからない。家にいて電話が来るのを待つしかない。

 毎朝9時には家へ来る川嶋は来ると瀬奈に予定の確認などをしてくれるが、瀬奈には確認するほどの予定もなかった。今日は日曜日だと気がついて、そう言えば川嶋さんの休みは何曜日なんだろうと瀬奈は気がついた。わたしがこの家へ来てから川嶋さんは休みなく毎日来てくれている。
「川嶋さんは結婚されているんですか? あの、失礼でなければ……」
「失礼だなんて、そんなことありませんよ。私は早くに結婚して上の息子を産んだのははたちのときなんですよ。その息子は去年結婚して横浜に住んでいましてね。下の息子は二年前から仕事で九州なんですよ」
 はたちで子どもを……今のわたしと同じような年だと瀬奈は思った。
「じゃあ、息子さんたちはわたしよりも年上ですね」
「はい、だからもう図体のでかい息子の世話をする必要もないし仕事を探していたら、主人は車の販売の仕事をしているんですが、聡様が主人のところから車を買って下さったその関係で三田からこちらのお仕事を紹介してもらったんです。 まだお若い奥さまを北海道から迎えられるからお世話係ということで」
 川嶋の口調がだんだんと親しみやすいものに変わっていた。自分よりずっと年上で瀬奈の母親の年齢ほどのこの人はざっくばらんな人なのかもしれない。
「でも……今日は日曜日ですよね」
「旦那様が急な出張になられてしまったので今週はずっと出るようにと旦那様から言いつかっております。来週はちゃんと休みをいただきますので大丈夫ですよ」
 聡さんが川嶋さんに……でもそれでは川嶋さんに悪いわ。
「あ、あの川嶋さん、お茶をご一緒していただけませんか? 小林さんたちも一緒に」
「小林はさっき出かけると言っていましたが……三田と笹本は休みなんです」
「そうですか、そうですよね。すみません、わたし何も知らなくて。じゃあ川嶋さん、わたしがお茶の支度をしてもいいですか?」

 川嶋は自分がするといったが瀬奈も一緒に手伝わせてもらった。小林さんや川嶋さんがいつもやってくれるとはいえ自分の家の台所もわからない、では困る。お茶の支度をしながら瀬奈は何気なく尋ねた。
「聡さんはコーヒーと紅茶とどちらがお好きですか? お菓子は、あ、そう言えばわたしの誕生日ケーキを一緒に食べたわ」
「普段はお菓子を召し上がられることはありませんがお嫌いではないようですよ。コーヒーは会社では飲まれるようですが家では緑茶のほうがいいとおっしゃっていますね」
「いつも夕食は外で?」
「特にお忙しくなければきちんと家で召し上がられます。お付き合いで食事やお酒を召し上がられるのがあまりお好きではないようですから」
「でもそういうのってお断りできないんでしょう?」
 お茶を盆に載せて運んでいた川嶋がちょっと笑う。
「奥様、よくご存じですね。でも旦那様は出来る限りご自分のやりかたをまわりに納得させるかたですから」
 ……自分のやりかたをまわりに納得させる?
 そういえば北海道の叔父たちに対してもそうだった。いつのまにか聡さんの希望通りの結婚になっていた。
 だけど……わたしには? わたしにはどうなのだろう?


2008.03.28

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