花のように笑え 第1章 3

花のように笑え 第1章

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 それからは叔父たちと森山の間で結婚の準備が進められているようだったが、いつのまにか瀬奈が高校を卒業して東京へ来てくれればそれで入籍をして、結婚式も披露宴もしばらくたってからということになっていた。森山は忙しくてなかなか休みが取れないらしいし、 瀬奈が東京の暮らしに慣れてから、ということらしかった。瀬奈の嫁入り道具なども必要なく、持ってきたい物以外は身ひとつで東京へ来てくれればいいという話だった。
 結婚式はするものだと当たり前のように思いこんでいた瀬奈は叔父夫婦がそれらのことをすべて森山の言うとおりに承諾していることに驚いていた。瀬奈は結婚式だけでもいつ挙げるのか聞いてみたいと思っていたが、森山はどうやら自分の思うとおりのやり方を 無理なく叔父たちに納得させているらしい。その証拠に叔父たちはすこぶる機嫌がよく、洋服や靴や化粧品と
いったものを喜んで瀬奈に用意してくれた。
 やがて高校の卒業式を終えて4月になり、4月20日の瀬奈の誕生日に東京へ向かうという直前に準備をしながら瀬奈は小さな箱をひとつ旅行バッグの中へと入れた。その箱には白い紙に包まれた数本の父の髪の毛。母が大切に持っていたものだ。そして両親と祖父母が 赤ん坊の自分を囲んでいる写真。これは旭川で牧場をしていた祖父母の家で撮ったという写真だった。両親や祖父母の写っている写真はもうこれしかなかった。そして母の形見の凝ったレースの白い麻のハンカチ。 父の死後、なにもかもを手離してしまった母がたったひとつ持っていた豊かな暮しだった頃の思い出の品だろう。瀬奈はそれらを大切に箱へ納めて持って行くバッグへ入れた。そして迎えに来てくれた川嶋という女性とともに飛行機へ乗ったのだった。


 まだ慣れない家の中で何もすることもなく、瀬奈はあまりうろうろするのはみっともないと思いながら自分の部屋だというその部屋の様子を見てみた。
 札幌から送った身の周りのものはすでにこの部屋へ、洋服はクローゼットへ収められているらしかった。ドレッサーの鏡の前には叔母と一緒に選んだ化粧品がきちんと並べられていたが瀬奈には見覚えのない香水やパウダーなどがいくつもあった。 薔薇の花の模様の優雅な磁器の小皿やお揃いの模様の小箱にはヘアピンや化粧用の大きさの違うブラシなどがきれいに並んでいる。
 優雅なそれらの品を眺めているだけで夢の中にいるような気分になってくる。 ライティングテーブルの引き出しにはレターセットやペンも数種類入っていていつでも使えるようになっている。
 瀬奈がバッグから取り出した物をその部屋で整理しているとしばらくして川嶋がドアをノックして現れた。クローゼットの瀬奈のものだという洋服を見せてくれる。

「ご用意していたものが奥様のお好みに合うといいのですが」
 川嶋はそう言ったがここにある服だけでも相当な数だ。スーツにしても会社員のようなダーク系のかっちりとしたものとは違う淡い色のエレガントなものばかりでパーティー用のようなドレスもあったし、買い物や外出に着られるカジュアルな服もあった。 細かいプリーツやレースの襟ぐりのチュニックブラウスのようなふんわりした甘さのあるデザインの服が多く、わたしってこういうイメージかなと思ってしまう。
 川嶋の開けてくれたタンスの引き出しはまるで高級なランジェリーショップのようだった。 中には瀬奈のサイズのランジェリーが揃えられている。さまざまなレースに縁取られた白や淡いピンクや白っぽいベージュ色のブラジャーやショーツ。スリップやキャミソール。ボディスーツまであった。別の引き出しにはネグリジェが何枚も。 しなやかに指をすべる絹のものもあれば、ごく目の細かい透けそうに薄い白い麻のものなど。ほどよくレースや細いリボンが胸元へつけられたそのネグリジェはまるでエンパイアスタイルのドレスのようだった。
 その寝巻類は眺めるだけですませ、瀬奈は着替えに白っぽいスモーキーピンクに小花柄という長袖のワンピースを選んだ。札幌に比べれば東京はとても暖かかったがまだ4月だ。ワンピースの上へ白いカーディガンをはおる。
「とてもお似合いです。奥様はシンプルなお洋服がお好きなようですね」
「はい。ほんとはいつもセーターやジーパンなんですけど……」
「もちろんそういったものも用意してございますよ。でも今日はきっと奥様もワンピースのような服をお選びになるだろうと思っていました」
 結婚初日だもの。わたしの選んだこの服は川嶋さんのおめがねにかなったかな……合格ってことかな。

 高校を卒業して結婚するまでに瀬奈は髪の色を自然な栗色にして毛先へむかって大きなカールがくるりと揺れる髪型にしていた。髪は伸ばしていたし、流行のその髪型は瀬奈によく似合った。眼鼻立ちの整った瀬奈は髪型やお化粧を華やかにするととても引き立つ。 真由から別人みたい、モデルみたいと言われてデジタルカメラで写真を撮られてしまったほどだ。瀬奈自身はあまりフェミニン系の服装は興味がなかったが、これからは少しは大人っぽくしなけりゃと思っていた。
 ほんとはジャージでもいいんだけどな。東京ではあんまり子供っぽいと恥ずかしいよね……。

 川嶋があらかじめ自分は住み込みではなく通いだが、小林と三田は住み込みなのでご用はいつでもお申し付け下さいと言う。
「そうなんですか……」
 新しい環境に瀬奈は戸惑っていた。が、とにかく慣れるしかない。かつて叔父の家に引き取られた時も最初は居場所のないような、真由や大輔とも打ち解けられない感じをつらく思ったものだ。しかし、それは時間が解決してくれる、慣れてしまえばいいんだと瀬奈は経験して知っていた。 それを思い出して少し気持ちが落ち着いたように自分自身でも思えた。まわりの人の様子を心にとめて、でも気にしすぎなければいいんだ、とおまじないのように瀬奈は心の中で繰り返した。

 何もすることがないがもうそろそろ夕方だ。中途半端な時間をなんとなく過ごしているとまた川嶋が来た。手にはコードレスの電話を持っている。
「奥様、旦那様からお電話でございます」
「聡さんから? 聡さんから電話?」
 川嶋の差し出す電話を受け取る。
「もしもし?」
『瀬奈、私だ。悪いがどうしても抜けられない仕事が入ってしまった。夕食までに帰れそうにない。君は待っていなくていいから先に夕食は済ませてほしい。今夜は少し遅くなるかもしれないが先に休んでいてくれてかまわないから。いいね』
「あ、はい」
 聡がそれだけ言うと電話が切れてしまった。瀬奈は返事をしただけだ。言われたことの内容を思い返してえっと思う。
「川嶋さん、あの……」
「お夕食のことはさきほど旦那様からうかがいました。先に奥様の分をご用意いたしますね」
 川嶋が何の淀みもなくそう答え、瀬奈は自分の困惑を顔から引っ込めた。 聡の言うとおりにするしかない。仕事なのだから仕方ないだろう。聡さんはちゃんとそう連絡してくれたのだから。遅くなるだけよ。札幌の叔父さんだってわたしたちと一緒に夕食を食べることなんて日曜日くらいしかなかったもの……。

 階下の食堂でひとりで食べた夕食の後に瀬奈は2階の居間へ戻るとふうっとまたため息をついた。今日何回目のため息だろう。やはりひとりでこの家にいるのはまだくつろげない。テレビをつけてみてものろのろと時間が過ぎていく。
 起きて聡の帰りを待つつもりだったが川嶋も帰ってしまい、もう9時を過ぎてしまった。お風呂に入られてはと小林さんに勧められて瀬奈は素直にそうすることにした。自分でも疲れていることがわかった。
 白っぽい色で統一された浴室のなみなみと湯の張られた浴槽に体を沈めながら瀬奈は聡のことを考えた。何時に帰ってくるんだろう……11時頃かな……そしたら……やはりそれから起きるだろうことがあるからわたしはこんなにも落ち着かないんだ。 ずっと心臓がどきどきしているようなそんな気持ち。あのことが済んでしまうまでは……わたしは……。
 念入りに体を洗い、それでも熱い湯につかったことで今日の疲れがかなりとれた気になってくる。午前に札幌を出て飛行機に乗ってこの家へ着き、聡さんとお茶を飲んでそれから夕食をひとりで食べて……。
 用意されていたネグリジェではなく瀬奈は自分で持って来ていた新しいパジャマを着てやっと力が抜けていく。寝ないで待っていよう、ちょっと横になっていても聡さんが帰ってくればすぐに気がつくはず、そう思いながら瀬奈は大きなベッドの枕の端へ頭をつけた。

 …………
 目が覚めると朝だった。
 ばっと起き上がりきょろきょろと見回す。ベッドサイドの時計が目に入った。7時だ。
「えっ? えっ?」
 思わず言ってしまった。広いベッドの隣りには誰かがいたようなそんな跡がある。……聡さん? 彼のはずだ。でもいない。彼は? 彼は?
 瀬奈は自分の体を見下ろした。夕べのパジャマのまま。体も特に変わった感じはしない。
 ……聡さんが帰って来たのにも気がつかないで眠っていたなんて。ぜんぜん気がつかなかった。じゃあ聡さんは……。
 ベッドを出て着替えると階下へ行き食堂へ行った。
「奥様」
 小林さんがすでに朝食の支度をしていたがそれはひとり分。
「あ……あの、聡さんは?」
「お仕事の都合で早く行かなければならないからともうお出かけになりました。奥様は疲れているからお起こしにならないようにとおっしゃって」

 恥ずかしかった。
 いくら疲れて眠ってしまったからといって、聡さんが帰って来たのに気がつきもしなかったなんて。しかも彼はもう仕事へ出かけてしまったなんて。いったい聡さんはゆうべ何時頃に帰って来たのだろう。でもそれを小林さんに聞くのはもっと恥ずかしかった。
「あの……今朝、聡さんは何時頃に出られたんですか?」
「6時前にお出かけになりました。夕べお戻りになったのは2時過ぎでしたが朝は早く出かけるとおっしゃって」
 2時!
 小林さんが瀬奈の聞きたかったことを言ってくれたが、瀬奈はそれについて何と答えていいのかわからない。
 2階の居間へ戻って改めて部屋を見回しても何の変わりもない。昨日のままだ。そして瀬奈にはもう何もすることがなかった。


2008.03.23

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