芸術家な彼女 19

芸術家な彼女

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19


 立原の試合に行けなかった。行けるわけない。
 マンションの1階まで下りてきてしまったけれど、今から行っても遅いよね……。もうとっくに終わっている。 立原、サッカーわからなくてごめん。でも出ていくから。なんとか住めそうなアパート見つかったから。
 仕事道具は先に持って行ったからあとは運ぶほどの荷物はない。ボストンバッグをひとつ持つだけ。こういう時に貧乏っていいね。私のいた部屋の鍵、どうしよう。 できれば立原に直接渡して今さらだけど試合に行けなかったことをあやまりたかったけれど、もう待っているのも悲しい。 立原の郵便受けに入れておこう。封筒かなにかに入れたほうがいいんだけれどそれすらもない。
 各部屋の郵便受けの並んだところへ行って考えていたら、その時駐車場側からの通路の扉が開いた。
 立原だった。

 立原は私に気がつくといつもの挨拶でもするような顔で近寄って来た。
「どっか行くのか?」
 相変わらず気楽に言う。このまえ怒っていたんじゃないの?
「おまえに話しがあったんだ。ちょっといい?」
「私も。これ渡そうと思って。ちょうどよかった」
「鍵?」
 私の差し出した鍵を見て立原の表情が変わる。
「何だよ。どういうことだ?」
「アパート見つかったから。いままでどうもありがとう。お世話になりました」
「出ていくのか」
 もう立原の顔を見ることが出来ない。うなずくふりをしてじっと視線をそらす。
「俺ってそこまで心、広くないんだよね」
 前に立った立原が動かない。
「サッカーやめてきて、そんで望に出て行かれたらどうしろっていうんだ?」
 ……!
 やめた? サッカーを?
「ちょ……どういうこと? やめたって?」
「聞きたい?」
 にかっと立原が笑うと私の持っていたボストンバッグをさっと奪った。あんた、笑っている場合じゃないでしょう!
「ちょっとなにすんのよ。バッグ返してよ!」
 立原はさっさとバッグを持ってエレベーターの前へむかった。これじゃ、これじゃ、立原に初めてこのマンションへ連れてこられたあの日みたいじゃないのよ!
 私は立原を追いかけずに反対のほうへ振り向く。でも。
「望!」
 すかさず立原に追いつかれる。
「やめてよ! 離してよ! 部屋に行きたかったら勝手に行けばいいでしょ!」
「おう、そうする」
 そう言うと立原はいつかみたいにひょいっと私の体を持ち上げた。
「ぎゃあっ!」
「久しぶりに聞いた。おまえのその叫び声」
「おろして! あんた、あんた、あの彼女はどうするのよ!」
「あの彼女? どの彼女だ?」
 じたばたしても立原は私を離そうとしない。 ちょうど扉の開いたエレベーターから出てきたマンションの住人に見られているのに! そんなことにはおかまいなしの立原にエレベーターの中に放り込まれた。ななな……。
「何するの……!」
 勢いで私の体がエレベーターの壁にぶつかりそうになるが立原がそれよりも早く壁と私の背中の間に腕を入れた。私の背中が立原の腕にぶつかる。これじゃあ抱きしめられているのと同じじゃないの……。

「思うようにならない女だな」
 立原の腕に囲まれるようにされてしまった。笑っている立原。でもなんだか立原から逃れられないような空気を感じる。笑っているのに……なぜ。いや、聞かなくてもわかっていたが。
「サッカー……やめたって本当?」
「本当だ」
「どうして」
「元プロの立原がいるって騒がれた。練習や試合のたびに騒がれたらチームのみんなに迷惑かかるからやめた。それだけだよ」
「それだけ……」
 思わず叫んだ。
「それだけって……あんたサッカーが好きなんでしょ? なんで、なんでやめるのよ!」
「チームのみんなに迷惑かけてまで続けたくない。今まで黙って俺を受け入れてくれていたチームだから」
「そんな……」
「サッカーはいつでもできるよ。それともおまえも理香と同じか?」
 …………
「理香とは昔、付き合っていた。でも別れた。俺がプロを辞めることになって別れたんだ。あいつが好きだったのはプロの俺だったから。サッカーをしない俺なんか俺じゃないと言われたよ。 今度もどうしても俺をプロのチームに引き戻したいってな。でもお前は違うだろ?」
 最上階に着くと立原は私の手を握ってエレベーターを出て部屋へ向かう。立原は私のいた部屋のドアを開けると静かに言う。
「おまえじゃなきゃだめなんだ」

「立原……」
 すぐ目の前に立った立原。
「俺はただサッカーが好きなんだ。好きなものは好きなんだっておまえにはわかるだろう?」
 わかるよ……。
「おまえは貧乏で。貧相で。儲からない仕事しかできなくて。でもその仕事が好きなんだろう? やめられないんだろう?」
 そうだよ……。
「俺がそんなおまえを知っていてそれでもおまえが好きなように、おまえだって俺を知っているんだろう? 違うか?」
 だんだんと立原の声が厳しくなる。まるで私を責めているように。
「俺は親父のおかげで仕事して。まだサッカーが捨てられなくて。おまえのことが好きで。こんな俺をおまえは知っているんだろう?」
 怒っているような立原の口調。とうとう立原の腕が私に回された。
「知っているんだろう……?」

「俺はサッカーが好きだ。それだけでよかったんだ。おまえも俺がプロでないといやか? ただサッカーが好きで、それだけじゃだめか?」
 そんなことない。でもそう言葉が出なくて……首を横に振ることしかできない。
「おまえを抱きたい。出ていかないでくれ。俺はもうおまえを選んだ」
 立原はゆっくりとキスしてきた。何度も。
 もっと性急に乱暴にされるかと思ったのに。立原の……彼の心の中の波立ちがわかっていたから。なのに立原は私を抱きしめたまま静かにドアを閉めた。廊下を通りそして寝室に入ってそこは暗くて。
 黙って彼はもう一度私を抱きしめると私の肩に顔を押しつけた。


 立原に触れられてもがく。逃げたいわけじゃないのに。その快感にくらくらするほどなのに。その手でもっと触れて欲しいのに。
 何も言わず、ふたりの息遣いの音しかしない。

 なにか言って……。立原、なにか言ってよ……。
 でも私だって何も言えない。息をするのもやっとなくらいキスをむさぼられてほろりと涙が落ちる。苦しくて……。
「のぞみ……どうして泣く」
 泣いてないよ。苦しいだけ。あんたのキスが。
 立原に入りこまれて、せり上げられて、それでも立原はやっぱり性急にはしない。深く深く私にうずもれてゆっくりと動く。そして私はまた涙が一筋落ちてしまう。
「泣くなよ……俺のことキライ?」
「……キライだった……」
「今は?」
「キライだよ……黙っている立原なんて……」
 お気楽でおしゃべりで自分のペースで私にちょっかい出してくる立原。私のことを好きだって
言ってくれた立原。私を抱いてよかったって、赤面するようなことも言っちゃう立原。そして私に謝る立原。そんな立原が好きなのに。

 でも知っている。
 気楽なように見える立原でも彼なりの理由でいろいろなこだわりや苦しみを捨ててきながら来たのだと。あきらめなんかじゃなくて、もっと自然に歩くために。
 どれほどの思いで立原はそれをしてきたのだろう。私にはわからない。でも、でも私は知っている。彼がそれをしてきたことを。

「おまえだって黙っているから。黙ったまま出ていこうとするから」
「そんなの……あんたの……あんたのせいだからね……仕事が手につかなくて……苦しくて。あんたなんか……私のことアパートから追い出したくせに。私が死にそうになったら引き戻してくれるなんて言っておいて邪魔ばかりして。 仕事が手につかなくなるほどにさせて……嫌いだよ」
 体の中に立原を受け入れたままで文句のありったけを並べる私に立原はあきれを通り越したようで笑いだす。
「おまえ、この状況でよくそんなことが言えるな」
「う……」
 立原の動きで私の中がぎゅんってなる。
「すごいな」
「き……嫌いだからねっ、あんたなんか……あっ……」
「締め付けないでくれよ」
「な、なんでそんなこと言うのよっ……!」
「嫌いでもいいから。文句言ってもいいから。泣かないでくれ」
 頬にキスされてそれが涙を吸い取るようにされているのだと気がつく。
「ごめん、望。気がついてやれなくて」
 同時に立原の私を抱きしめる腕が私をのけぞらせていく。
「望、泣くな」
 また涙に唇をあてられる。
 泣いてないよ。
 あんたの前で絶対に泣いたりするもんか……。


「どうしようもないバカだな」
 望の背中にキスをしながら言う。
 やっと明るくなってきて彼女の裸の背中が見える。もうぐったりと起き上がれない望。言い返す気力も残っていないらしい。
「俺の部屋へ来いって言ってるのに。それとも結婚してくれって言わなきゃわかんないか?」
「……やだ」
 おいおい、ここまで言わせておいてそりゃないだろう?
「……そんなの私にできない」
「なんで」
「……あんたにはわからないよ」
 へー、そうですか。でも……。
「じゃあいい。でもこの部屋にいろ。俺のそばにいろ。それならいいだろ?」
「……いい」
「ちょっとは素直になったな」
 望の肩に手をかけてこっちを向かせた。赤い目。泣き腫らして……抱いて、抱きながらさんざんに泣かせたのは俺なのに……。
「もう泣くな」

終わり


2008.02.08掲載
芸術家な彼女 拍手する

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