芸術家な彼女 17

芸術家な彼女

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17


「おい、今日はなんかギャラリーが多いな」
「ほんとスね」
 夜の練習が始まる前に準備運動を始めているとチームの誰かがグラウンドの外を見ながら
言っていた。
「先輩、ちょっと」
 あとから来た山本が俺を呼んだ。先週のことだ。
 山本はチームでは俺よりも前からいたが、俺よりも年下の山本は俺のことをいつも「先輩」と呼ぶ。
「なに?」
「さっきあそこを通った時に」
 そう言って山本はフェンスの向こうの見物人が何人もいるほうを見てまた俺の顔を見た。
「先輩のこと言ってたんですよ。『あの立原だ』って……」

 ちらっとフェンスのほうを見た。いつもは誰もいないのに数人が練習を見ているようだった。 けれどその夜はそれだけだった。しかし今週の練習日にはギャラリーが増えていた。20人くらいいる。
 こういうこともあるかとは思ってはいたが、あきらかに俺のことを見に来ているようだった。
 『あの立原』か……。

 チームのみんなは俺が元プロだって知っている。
 今の俺の実力も。テクニックはともかく全然体力がないことも。チームのみんなとは同じようなレベルでもプロとしてはもう通用しないことなど誰の目から見ても一目瞭然だ。 病気をしてプロを辞めたのだと簡単に言ってあるからそれ以上チームのやつらは何も聞かない。サッカー好きの仲間として俺のことを見ていてくれている。 とはいっても、なんだかチームのやつらも何気なく見物人を気にしているみたいだった。

 それでもみんな何も言わない。いつも通りの練習。練習が終わると次の試合について日時や場所と参加できるメンバーなどを確認される。今度の試合も市民グラウンドだ。
「先輩、試合には車で行きますか?」
「ああ、あそこなら駐車場があるし。何か運ぶ物があるなら」
 山本に答えながら練習場を出るとやっぱり見物人がまだいた。こっちの駐車場のほうにも何人か。
「あのー、すみません」
 若い男が声をかけてきた。
「横浜インテルにいた立原選手ですよねー。サインもらえませんか」
「悪いけど俺はもうプロじゃないから」
 立ち止まった山本を促しながら俺は若い男に言ってすばやく自分の車に乗り込んだ。この若い男の他にも数人が近づいてきていたから。
 試合は2週間後か……。何となく嫌な予感がした。


 このところ今沢がいつも出かけている。なぜだ? 帰ってくるのが遅い。夜の1時頃帰ってくる。どこへ行っているんだ?
 なんだか釈然としない。俺ってなんか今沢を怒らせるようなことしたか? スペアキーで中へ
入って待っていようかと思ったが、でも出来ない。そんなことをすれば今沢は怒るだろうとわかっていたから。 今沢はそういうところがやたらと常識的だ。恋人でも何でも勝手に踏み込まれるのがいやらしい。だから部屋の前で待つ。
「あれ? 立原さん」
 深夜に帰ってきた今沢がのんびり言う。
「どこ行ってたんだ。もう1時過ぎているぞ」
 ちょっと口調がきつくなってしまったが今沢は気がつかないふうだ。
「ちょっとバイト」
「バイトって……こんな遅くまでか?」
「うん、そうだよ」
 今沢が自分の部屋のドアをあけながら答える。
「じゃあね」
「おい!」
 あわてて手を引っ込める。うまいことドアを閉められてしまった。こんなに待っていたのに、まるで、まるで閉め出しじゃないか、これは。 今沢に入れてもらえないなんて。何でだ?
 今沢、何なんだ? この違和感は? さっぱりわからねえ。

 こんな時にかぎって調子が悪い。体が重かった。仕事の後で練習に来たものの俺は調子の悪さを自覚していた。理香は今日も来て練習を見ている。
「悪い。今日は先に上がらせてもらいます」
「なんだ立原、珍しいな」
 監督に言って練習を途中でやめた。俺が引き揚げるのを見てフェンスのむこうにいた理香が駐車場へ来る。今日もギャラリーが何人も来ていて理香はそいつらと言葉を交わしているよう
だったが。
「響、どうかした?」
「何でもない。もう帰る。お前も帰れ」
「顔色悪いよ。さっきも変だったし……響?」
 自分の車に乗ったが冷や汗が流れて動けなかった。

「大丈夫?」
 ひんやりとした手が額にあてられて気がついた。
「理香……まだいたのか」
「具合の悪い響をひとり残して帰るわけいかないでしょ」
 代わりに運転をしてくれて部屋までついてきてくれた理香がまだいた。夜の練習の途中で抜けてそれから帰ってきたから……もうだいぶ遅い時間だろう。俺はしばらく休んでいるうちに眠ってしまったらしい。
「送れないが……もう帰ったほうがいい」
「そうね。泊めてほしいけれど」
「……」
「響ったら私が何かするとでも思っているような顔」
 理香が俺の枕元でくすっと笑う。
「病人相手になにするっていうのよ」
「病人じゃあない」
 俺は起き上がって不機嫌に答えた。
「今日はちょっと調子が悪かっただけだ」
「そう……わかった。帰るわ。でも、その前に」
 理香が言って向き直った。
「響、あなたもう一度サッカーに戻る気ない?」

「戻る?」
 どういう意味だ?
「おまえ、今の俺の実力も知っているんだろう? この前の試合だけ見たって……なのにどうしてそんなことを言うんだ?」
「選手としてではなくコーチとして」
 そう言って理香は座りなおした。
「悪いけどあなたの言う通り選手としては無理ね。でもコーチとしてまたサッカーにかかわってみる気はない? 私、響とこのまえ会ってからインテルの知り合いの人にあなたのことを話したの。 そしたらあなたさえやる気があるならコーチを目指してみたらどうかって。藤田さん、憶えているでしょ?」
 憶えている。
 俺がチームにいたころのコーチだった。今はヘッドコーチだ。
「藤田さんだってあなたのことを憶えている。藤田さんだけじゃない、私だって、インテルのファンクラブの人だってみんな憶えているのよ、あなたのことを」
「俺はコーチの資格なんて持ってない」
「資格なんて取ればいいじゃない!」
 思っていた通りの理香の答え。
「とにかく私は響をプロへ連れ戻したいの。あなたにはサッカーしかないんだから。あなただって仕事にしたいはずでしょう?」


 あれから立原と会わない。
 バイトから帰ってきて深夜のマンションの部屋の前。入ろうとして隣りの部屋から人の気配。ドアが開けられて人が出てくる。
 立原?
 一瞬ぎくりとしたが違った。
 出てきたのはあの……彼女だ。
「……」
 私を隣人と思ったのだろう。彼女は無言でそのままエレベーターへと向かって行った。彼女が立原の部屋から出てきたのだから当然、立原が入れたのだ。部屋へ……。



 花が、花が作れない。
 どんなにデザインを描こうとしても、材料を揃えても。胸の中の痛みで手につかない。
 こんなことって……こんなことで、立原が彼女を部屋に入れたからって、そんなことで仕事ができなくなるなんて。
 いままで突っ張っていた私のこだわりをすべてひっくり返された。
 なにが、なにが男の寄生虫になりたくない、よ。立原に自分の貧乏を思い知らされたのに。それでも立原が好きになって。 妙に遠慮なく私の心に入ってくる立原のペースに乗せられた。それがわかっていて立原が好きになった。その挙句の果てがこれだ……。

 もう何もできない。
 早くお金を貯めてここを出ていこう。どうせ今、花を作っても納得できるものなんか出来やしないんだから。1日1日が早く過ぎてくれればいいのに……。


2008.02.01掲載

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