芸術家な彼女 9

芸術家な彼女

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 どのくらい眠ったのだろう。部屋が暗くてわからない。
「起きた?」
 となりで動く気配がして小さな明かりがついた。
「う……ん」
「まだ夜だよ」
 そうか……まだ夜か……ばかみたいに立原の言葉を心の中で反復した。頭がぼうっとしてなんだかひどく疲れている。 仰向けのわたしの胴に立原の腕がまわされた。しっかりした腕。
「あんまり集中し過ぎると体がもたないよ」
「……やさしいね」
「俺はいつでもやさしいつもりだけど」
 我知らずふっと笑った。彼への警戒心がすっかり消えている。
「それからちゃんと食べなければだめだ」
「うん……」
「でなきゃ俺がその口に食べ物を詰め込んでやる」
「え……」
「そうされたくはないだろう?」
「……うん」
「じゃあ言うことを聞け」

 命令形で言われているのに腹が立たないし、なぜか疑問も感じない。
 この人、私の事を心配してくれているんだ……。

「……あ゛!」

「なんだ、その声は。人間の叫びとは思えないな」
 一気に現実世界に引き戻された。
 立原に……この立原にされたことの記憶が爆弾級の衝撃で押し寄せてきた。
「立原……が、なんで……が、が……な……」
 すでに日本語になってない。
 こんな……こんな状況なのに自分でも不思議なくらい動けない。ああ、脳細胞も体もどうなっ
ちゃったの? このベッドの中で動くことすらできないなんて。隣りにいるのが立原なのに。 なんだか立原がおもしろそうに私のことを見ているのに。
 必死で起き上がろうとして立原の腕に押さえられていることと、もうひとつのことに気がつく。

「わたし……はだか……」
「今頃気がついたのか」
 ぐいと彼の腕が腰へまわされた。そのまま力任せに引き寄せられる。
「ぎおおおぉ」
「怪獣じゃあるまいし」
「は、離して……」
「遅い」


 今沢のあごを押さえるようにキス。もう俺の舌が彼女の唇を開いているけれど彼女はじたばたしている。だいぶ元気が出たな。
「抱くよ」
「ぎゃああ……」
 人聞きの悪い。襲っているみたいじゃないか。まあ、昨夜は襲ったようなものだったけど。でもあれは今沢に仕事を止めさせる非常手段だった。あれしかないと思ったからああしたんだ。それなのに元気が出たらこれかよ。
「ゆうべは抵抗しなかったくせに」
「だって、あれは……あれは……ゆ、ゆうべ?」
 今沢がひるんだ。
「おまえ、丸1日眠っていたんだ。もう次の日の夜だよ」


 …………
 すると私は裸で丸1日ここで眠っていたのか。彼に抱かれて、それからご飯を食べさせられた後で……。
 ああ、信じられない。何もかも。しかも、しかも……立原ががっちり私の体を抱きこんでいるのだ。さっき確か「抱くよ」と言った……。

「お、お願い……」
「何?」
「せめてトイレに行かせてください」
 弾けたように立原が笑いはじめた。笑いながら腕をほどく。
「……そうだな。いや、悪かった。ごめん、ごめん」
 立原がベッドの脇から拾ってくれたシャツを着るとトイレに、トイレに行きたいのに! 立ちあがれない!!!
 足に力が入らない。起き上がっただけなのに……動けない……。

「今沢?」
 硬直している私に立原がいぶかしげに声をかけた。
「どうした?」
「……立てない……」
 ああ、でもこんなこと口にしなけりゃよかったと次の瞬間思わずにはいられないことになった。
「世話のやける女だな」
 そう言うと立原はベッドを出て私の横へやってくると、にやっと私の顔をのぞきこんだ。
「今度はぎゃあって言うなよ」
 そしてひょいと、本当にひょいという感じで抱きあげられた。私は思わず目をつぶってしまった。 だって立原は上半身裸だ。その男に抱きあげられてトイレに運ばれるなんて叫ばずにはいられない。
 目を固くつぶって私は心の中で思い切り叫んだ。ぎゃあああぁぁ、と……。

 トイレからはどうにか出たがやっぱりふらついて壁から離れられない。立原はそれを見越したように待っていた。
「歩けないんだろう?」
 逃げ出したいよ……できるなら。……だけど手足に力が入らない。
「ほら、つかまって」

 ひどく近くに立原の顔がある。彼に抱きあげられて。
 ちらっと見てみたが相変わらずの気楽な立原の表情。そして穏やかな立原の生気を感じて思わず自分の顔が赤くなるのがわかった。立原に気が付かれてしまっただろうか。そのままリビングへ運ばれてソファーに座らされて。
 まだ立原はスウェットのズボンだけで上半身は裸だった。ずっと気がつかなかったが彼は均整のとれた体をしている。胸毛が少なくて肌がきれいだ。
 ……いや、今そんなことを見ている場合じゃない。
 トレーナーを着て眼鏡をかけながら立原が動けない私に言う。
「ろくに食べずにいるからだ。それにちゃんと眠っていなかっただろう?」
 反論できない……。

「まあ、とにかく飯を食うんだ」
 立原はキッチンで野菜と真空パックのご飯で何やら作って運んできた。いい匂いがしている。
「食べろ」
 有無を言わさない感じで立原が言うと椀が前に置かれた。雑炊だ。これを作っていたのか。
 今の私は逃げ出すこともできないのだからもう食べるしかないらしい。熱い雑炊を少しずつ食べる。温かいものを食べるのは久しぶりだ。それに……おいしい。立原の作った料理、そう言えば昨夜 立原が何を食べさせてくれたのかそれすらも覚えていない……。


 黙って一応は向い合って座って雑炊を食べている今沢。さっきから俺と目を合わせようとしない。試しにひと言。
「ゆうべのおまえ、よかったな」
「……げ、ほっ……」
 おい、雑炊を口から戻すなよ。
「……どうしてよ」
 今沢がすねたように言う。
「……なんであんなことしたのよ」
 すねている……じゃないな、怒っているな。これは。
 うつむいて箸を握っている彼女の手が震えている。
「待った。あんた、あれ以上無理したら死んでも文句は言えないぞ」
「放っといてよ!」
 だんだん大きくなる今沢の声に俺は先制攻撃を仕掛ける。
「放っとけないだろ? 好きな女が無理以上のことをしているのを! おまえ、わかっているのか!」


 わかっているのか? わかっているのか?
 それは、それは私が無理をしていたってことを? それとも立原が私のことを……
 好きだと……言ったことを?


「そうだよ。おまえのこと放っとけないんだよ。仕事の事となるとなんだよ、その後先考えない集中ぶりは? おまえの仕事モードって見てらんないんだよ。それもこれも好きだからだよ、おまえのことがっ!」
 言ってやった。これではっきりわかっただろう。
 しかし、しかし、今沢の反応は微妙だった。うつむいて黙って雑炊を食べ続けている。その今沢の目からぽろりと一筋涙がこぼれてはいたが。
「まさか襲った言い訳じゃないでしょうね」
 あー、かわいくねえなあ、こいつ。いや、でも彼女がそう思うのは無理ないかもしれない。
「襲ったんじゃないって。ちゃんと避妊しただろう」


 …………
 そんなの変だ。避妊すりゃいいのか。
 頭の中にさまざまな非難がうずまく。だけど何も言えない。どうして。
 私はこの立原に怒られているのか、それとも告白されているのか……。
 立原の言うことはむちゃくちゃだけど、その割に何だか明るい。

「なんか意地になってるみたいだな」
 立原の言葉に私はため息をついた。
 意地。たしかにもう意地しか残ってないのかも。こんなに打ち込んでやっていても仕事は収入に結び付かない。実家にも戻れない。どこにも行くところなどない。貧乏なだけの毎日。
「だってこうするしかないんだもの。こうするしかできないんだよ。誰に頼るわけにもいかない」
「この部屋のことは気にしなくていいって言っただろう。もっと好きに使ってくれていいのに」
「いさせてもらうだけだって申し訳ないと思っているよ。出ていけるようになったらすぐに出ていくつもり」
 今度は立原がため息をついた。
「そうじゃなくて。ほんとはこの部屋、会社じゃなくて俺の持ってるものだって言ったら?」
「え?」
「賃貸じゃなくて分譲なんだ、このマンション。つまり隣りとここ、俺の持ち家」
 はあぁ? だってあの時はそんなこと……。
「嘘ついたのは悪かったけど、なんかおまえのこと放っておけなくて。だからアパートの家賃払えなくてどこにも行くところがないようなら、ここを使っていいって言ったら来るんじゃないかと」
 …………
「わざと……追い出したってこと?」
「悪かった。でもいきなりこの部屋を使っていいなんて言ったってあんた聞かないだろうし。下心丸出しで見返りを要求するみたいで」
「見返り?!」
 な、何なの、それは?
「見返りなんていらない、とは言わないけど。まあ、俺のおまえを好きだって気持ちをわかってもらいたかったんだ。だけどなんだかんだでおまえは仕事にのめりこんで危なくなっちゃったから強行手段に出たけれど、 ほんとはちゃんと順序だてて言うつもりだった。つきあって欲しいって」

 ……やはりこれは立原の告白らしい……。

 しかし立原はさらっとした口調でさらに言った。
「つきあってほしい。いや、一緒に暮らしてほしい。俺の部屋のほうで。この部屋に住まわす見返りにつきあうんじゃないってことをお前にわかってもらうために。だめか?」

 私はテーブルの前の椅子に座ったままの立原の顔を見ていた。
 それって同棲ってことだよね。一気に、つきあうもなしに一気にそこへいくなんて。いくら私が変な女だからって立原の言っていることも相当変だと思うくらいの理性はある。
 だけど今の立原の顔は真面目そうだ。真剣な感じ。
「……もし、おまえがむちゃくちゃ仕事に没頭して戻ってこれなくなったら俺が引き戻してやるよ。俺も昔、体調が悪いのがわかっていて無理して結局、仕事を棒に振ったことがある。 だから、ちょっと他人事とは思えないっていうか、心配だった。 でもそれはただ心配なんじゃなくて、おまえのことが好きだから心配なんだってわかった。だから強引なことをしてしまったけれど……、ごめん。本当にごめん」

 立原が私に謝る。この人は何で……何で私なんかに謝れるのだろう……。 私だって自分が危ないかもって思っていた。でも自分を止められなかった。自分のこだわりで何も見えなくなっていた。そんな私に。

 そして立原は自分の言ったことになんのてらいもなく気楽な表情で私に聞く。
「俺の言ったこと、受け入れられない?」
 そうだね。
 前は思っていたもの。男に養ってもらう寄生虫にはなりたくないって。意地と言われてもその意地はまだ残っている。だからこう言うしかない。
「……一緒には住めないよ。……でも、ありがとう」

 心配してくれて、助けてくれて、ありがとう。
 好きだって言ってくれて……ありがとう。
 私もちょっと立原のこと好きだよ。ちょっとね。でも一緒には住めない。少なくとも今すぐには。
 もう少し私をこの部屋に居させて。もう少し私が気楽に生きられるようになるまで。あなたの親切を受け入れられるようになるまで。
 あなたの………… 。

「まあいいよ。隣に住んでいるだけでも。つきあうのはいいだろ? 先に……しちゃったけど」
 先に……ね。
「……立原さんの名前、聞いてませんけど」
「名前? 俺の?」
 うなずく私。
「立原 響(きょう)。28歳、独身。『立原不動産管理』社長。東京都出身。家族は両親と妹。身長180cm。体重68kg。趣味はサッカー。顔と性格は良いほう。どう? そんなところで」
 そう言って立原が笑った。

第一部 終わり


2008.01.02掲載

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