芸術家な彼女 6
芸術家な彼女
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6
熱が出て完全に風邪をひいてしまった私はそれから1週間起き上がれなかった。飲まず食わずだったから体力が落ちていたのだろう。インフルエンザだったのかもしれない。
その間、立原はずっと私の面倒を見てくれていた。しかもずっと私の部屋にいてくれてツインのベッドのもう片方に寝ていたのだ。
最低……最低だった。
風邪をひいたぼろぼろの姿で世話をしてもらうなんて。赤の他人の男の人に……具合が悪い間は考えられなかったが、だんだんと良くなってくると恥ずかしさに逃げ出したくなるほどだった。
できることならもう立原に会いたくはなかった。でも何だかんだと言って立原は部屋にいる。さすがに今は夜になると彼は自分の部屋に戻るけれど。
私は久しぶりでお風呂に入った。ああ、気持ちいい。生き返るってこういうことなんだわ、きっと。お風呂上りに暖まった体でゆっくりと考えた。
立原にお礼を言わなければ。そしてもう大丈夫だと言おう。スペアキーは今また彼が持っている。私の部屋に出入りするために。それって異常だ。
それにしても……あの人、仕事はどうしたんだろう? ずっと休んでいたのだろうか? 私のために……?
翌日、当然のようにやってきた立原に礼を言った。
「ありがとうございました。すっかりお世話になってしまいました。でも、もう大丈夫ですから。あの、その、スペアキーは……」
立原は私の言いたい事がわかるとむずかしい顔をした。今日の立原は眼鏡をかけてジーパンをはいた足を組んでソファーに座っている。腕組みまでしている。この人、眼鏡かける人だったのか。
「やっぱり合鍵は俺が持っている」
なんで。
「おまえにこのマンションで死なれたら俺が困るの。わけのわかんない死人の出た部屋なんて借り手がつかない。管理の仕事なんだから仕方ないだろう。管理人が鍵を持っているのと同じだよ」
あんた管理人か。いや、管理会社だけど。
皮肉を返そうとしたが私の口が開く前に立原が立ちあがって手を伸ばして私の頭をぽんぽんと軽くたたいた。
「あんた、まじめに仕事しているからな。この部屋貸す気になったんだ」
え……?
「仕事に集中するのもいいけど無理するな。病気にならないように」
「はい、すみません……」
流れでしおらしく答える私。
「あんまりすまなく思ってないみたいだな。仕事のためならかまわないって思ってる?」
立原がうつむく私の顔を覗き込んできた。
「えっ? そんなことありません……」
立原の唇がふっと私の唇にふれてきた。
え?
ぽかんと私の唇が開いてしまう。すかさずもう一度彼の唇がくっついた。
えっ? えっ? ええーっ?
「あんまり心配させてくれるなよ」
眼鏡の奥の立原の目が笑っている。
どうして……なんで……なんでキスなんかするのぉ!!!!!
「あんたのこと気になって仕方なかったんだ。だからほっとけなかった。気になって……おい?」
おいと言われても、何と言われても反応できません。
……けっこう恥ずかしいことを言ってるんだけどな、俺。
彼女のことが気になっていたなんて、本人に。だけどそうなんだから仕方がない。
1年くらい前に彼女が家賃を滞納した時に初めて会った。マンションなんかが多い管理の仕事でこんなぼろアパートはここだけだ。まあ、このアパートの建っている土地が問題なわけで。
いずれこのアパートは取り壊すことが決まっている。もう新しい住人を入れたりしないのだ。
家賃滞納する女っていうからカード地獄かヤミ金融にでもはまりこんだか、そんなかと思ったが見た目は全然普通、というより思いっきり地味だ。俺の知り合いにはいないタイプだな。
最初は待ってほしいと言われてどうせ無理だろうと思っていた。そしたら出て行ってもらうだけだから手間が省ける。でも彼女はなんとか滞納分を返してきた。毎月分も先延ばしにしないで。
何の仕事をしているのかわからなかったが部屋で仕事をしているらしかった。
今沢 望(のぞみ)26歳。俺よりふたつ年下か。
貧乏らしかったが仕事は一生懸命やっているらしい。だから待ってやったのだが……。
その彼女がまた家賃を払えなくなった。しかたがない。今回はあんまり待てない。こっちも仕事だから。いくら親父の不動産会社の関連会社だからって別に遊びでやっているわけじゃない。
そんなわけでアパートの彼女の部屋に入ったが。
何もないなあ。真冬だってのに暖房もつけないで。絵に描いたような貧乏だな。かわいそうに。……かわいそう? これって同情か?
俺は自覚してしまったね。なんだか彼女の貧乏が、困っているであろう生活を目の当たりにすることがいたたまれない。今まで他のやつにそんなことを感じたことはなかったのに。
彼女の、今沢のその貧相な格好が、部屋の中なのにコートを着ている様子が見ていられないのだ。こんな気持ちになるなんて。
今沢が貧乏でも自分のやりたいことをやっているゆえのわけのわからない態度なら俺もこんなに気にならないのだが。しかし彼女は礼儀正しい。怒っていてもきちんと礼だって言える。
それに今時ちょっとお目にかかれない正統派のビンボーだ。何というのかわからないけれど造花を作っているらしい彼女にそういうことをやっている人間にありがちなぶっ飛んだところもない。……いや、あるか。
彼女が部屋のドアの前にうずくまっているのを見たときは驚いた。
具合が悪そうで もうふらふらだ。悪いけど彼女のバッグからキーを出して部屋に入って彼女を寝かせて。しばらくして薬を飲ませた彼女が眠ってしまってから改めてリビングを見回した。
相変わらず物が少ないなあ。彼女の物が。あたりまえだが。他の部屋、ベッドルーム以外は手を触れた形跡もないし台所も風呂場も使ってはいるらしいがきれいにされて乾いている。
冷蔵庫の中は……ほとんど何もない。空気を冷やしているな、こりゃ。
そしてテーブルに並べられた彼女の仕事道具。俺が見たこともないような物からハサミやペンチなどわかる物までいろいろな物があった。使いこまれている、どれも。
テーブルに傷がつかないように新聞紙が敷いてある。布やワイヤーや材料のようなものがダンボール箱に入れられていた。この箱、どこかで拾ってきたのだろう。
どうしてここまでやるのかねえ。飲まず食わずか。せっかく部屋を提供してやっているのに。
この部屋が空いていたから、彼女が住んでもいいと思ったから、あのアパートを追い出したのに…… いや、そんな恩着せがましいことじゃないんだ。ただ……。
目の前の今沢は俺にキスされて唖然としているようだ。そりゃそうだろうな。俺の事なんかぜんぜん眼中にないっていうか、むしろ腹を立てているようだった。
むずかしい女だな。でも気になるんだ。こいつが。……好きなんだろう、こいつのことが。
……立原が言った言葉って。気になるって。ほっとけないって。
何も言えない。ぼーっと立原を見ていると立原は苦笑いしているみたいだった。
「無理すんなよ」
もう一度言って立原は自分の髪をかき上げた。やれやれという感じで。染めてない、ばさっとした髪。
「じゃあ、何かあったら電話して。ずっとこの部屋にいてくれてかまわないから」
そして私が何も答えないうちに彼は出て行ってしまった……。
男の人とキスしたのは初めてじゃなかった。
中身はとんでもない私だけれど地元ではうわべは真面目なOL、いい会社に勤めてしっかり仕事をして……そんないい子を演じていた。今と比べたら別人のようにそれなりにおしゃれもしていた。
同じ会社の人と付き合ったこともある。私がその人に何の相談もなく会社を辞めて東京へ出てきてしまってそれっきりだ。いい人だったけれど私が自分のやりたいことを話したり相談する気にもなれなかった。
たぶん私にはそれだけの気持ちがなかったのだろう。
その人には……キスされて……抱かれた。好きだって言われた。結婚して欲しいって。でもそれが不安だった。このままいったらどうなる? 私のやりたいことは? だからその人には何も言わず会社を辞めてしまった。
だれかと結婚して趣味として造花作りを続けていく? そんなことできないよ。それは寄生虫だ。夫という人に頼るなんて、趣味という名のなまぬるい楽しみにするなんて 。
あの時の私はそう考えていた。夫に、親に、誰かに寄生して好きなことを続けたくはない。そう思いこんでいた。思いこんで何もかも捨てて東京に来た。今どき、こんなバカいない。
もう東京に出てきて4年以上だ。誰とも付き合わず、友達さえいない。仕事上の知り合いが数人だけ。それをいやだと思ったこともない。とにかく花が作れればと思っていたのに……他のことは何も見ないようにしてきたのに……。
お金がなかったから、貧乏だったから。アルバイトをしてなんとか食いつないできていたから自分と同じ境遇の人ならともかく友達や恋人がいたらきっとこんな生活耐えられないと思っていた。そう思っていたのに……。
悲しかった。とても。
立原がやさしくしてくれているのがわかっても。立原の親切や同情が悲しいのではなかった。自分で生活していけない不甲斐無さが悲しいのだ。自分のやりたい事を仕事にしてそれで生活できない悲しさ。
立原、あんたはそれを思い知らせてくれたよ……。
2007.12.21掲載
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