窓に降る雪 30

窓に降る雪

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30


 高宮が三生の家を訪れたのは新年の2日だった。 玄関へ出てきた三生が和服姿だったので高宮は改めて感心してしまった。彼女は背が高かったが着物がよく似合っていた。高宮には着物の生地の種類はわからなかったが、割と大きい織り柄と抑えた色合いが三生にぴったりだった。 黒っぽい帯には笹の葉のような緑白色の帯締めに彼の贈った雪の結晶の帯留め、そしてあでやかな紅梅色の帯揚げだった。
 まず高宮が三生の父へ線香をあげさせてほしいと言うと一瞬三生は表情を変えたが、先に立って仏壇のある奥の部屋へ彼を案内した。
 高宮は順三の写真に手を合わせながら順三が亡くなる直前に高宮へ宛てた手紙、その手紙の順三の言葉をかみしめるように考えていた。順三から託された言葉。
 そんな高宮を三生は後ろへ控えてじっと見ていた。

 三生が高宮を庭の見える部屋に案内しながら聞く。
「高宮さん、おせちは食べられた?」
「いや、毎年特に正月らしいことはしないんだ。独り暮らしだからね」
「そう、じゃあすぐに用意しますね」
 三生が料理と冷酒の入った銚子を運んできた。
「なんだ、車でこなければよかったなあ」
「わたしが作ったものだけど」
 高宮は冷酒を盃に受けながら「これ、みんな君が作ったの?」と驚く。
「そう、中学3年の時に祖母が亡くなるまでは、ずっと祖母と一緒にお料理していたから。着物も祖母に教えてもらったんだよ。今年はお正月はなにもしないつもりだったけどお料理くらいはと思って」

 三生の祖母、順三の母のことは初めて聞いた。では三生は近しい人を相次いで見送っていたのだ。 高宮は自分も両親を亡くし、大学生の時に母が死んだ時は祖父母はいたが以来ひとり暮らしだ。男の高宮はそれをしかたのないことだと思い別段寂しいと感じたことはなかったが、三生が自分と同じ孤独をなにも言わず受け入れているのを知り、 改めて三生の強さを知る。家の中も暮らしぶりも整っているのがわかる。 仕事こそしていないが生活のすべてを彼女は自分の手で行っている。
 高宮は心の中でひとりつぶやいた。もう彼女は一人前の人間なのだと。保護して守ってやるだけではなく、ひとりの女性として三生は高宮の前にいる。
 その彼女を愛していきたい。三生に愛されたい。ともに生きていけたら……。

 高宮は三生が注いでくれる酒をゆっくりと味わった。彼は普段から付き合い程度にしか酒を飲まなかったが会食などで飲むことがほとんどで楽しいものではなかった。が、しかし今日の酒は違った。暖かい部屋の中で程よく冷えた酒がおいしかった。
 「君も」
 と高宮は杯を三生へ渡した。三生は高宮に注いでもらった酒に少し口をつけたが「飲めないから」とすぐに杯を返してきたので高宮が杯に残った酒を飲む。
「君がこうしていてくれてよかった」
 高宮の言葉に意味がわからないというふうに三生がほほ笑む。そっと高宮が三生の頬に、頬骨のあたりをなぞるように触れた。
「三生がいてくれるだけでいいんだ……」
 ひさびさに頬を染める三生。それはさっき飲んだ酒のせいではない。

 三生の手作りの料理と酒を楽しみながら時間がゆったりと過ぎていく。
 高宮は思う、こんな時を三生とふたりで過していけたらと。 酒は多くは飲まなかったが料理は喜んで食べた。三生も座って食べている。おせちのほかにサラダやローストビーフなどもある和洋折衷の料理だったがどれもおいしかった。

 三生が台所へ立ち、お茶を淹れて運んでくると高宮は和室に続く部屋のソファーに座っていた。 背もたれに寄りかかる彼の顔を見ると眠っているようだった。酔ってしまうほどには飲んではいない。きっと疲れているのだろう。三生は毛布を持ってくると静かに彼の体へかけてやった。
 家の中にはふたりしかいない。
 高宮の前に座って三生は彼の寝顔を見続けた。
 眠っている彼は知らない人のように見えた。かつてこんなに親密な静かな時を過ごしたことはなかった。こんな時間がずっと持てるようになりたいと三生は心から思っていたが、自分はまだかつての高校生だった時のように すべてを忘れて彼へ自分を預けてしまうことができないでいる。
 穏やかに眠っている高宮の顔。つらい思いをしたのは自分だけではないのに、彼もまた苦しんだのに……。

 なのに……なのに……
 どうして……そんなにやさしいの……?


 1時間ほどして三生はまた高宮の傍らへいくと彼の肩にふれた。彼が目を覚ます。
「起こしてごめんなさい。でももうすぐ夕方だから」
「あ? そんな時間? すっかり眠ってしまった」
「疲れているみたいだったから」
「いや、君のおいしい料理に参ってしまったからだよ。すまないね」
 起き上がった高宮が少年のように手のひらで顔をこする。三生がソファーの前のテーブルへコーヒーを持ってきていた。
「よその家で眠ってしまうなんて初めてだ」
 高宮が真顔で言うのを聞いて三生は思わず笑ってしまった。
「とっても気持ちよさそうに寝ていたから起こさないでおこうかと思ったんだけど」
「車は置いていくから預かってくれないか。電車で帰るよ」
「駅まで送るね。ちょっと待ってて、洋服に着替えるから」
「三生」
 高宮が立ちあがった三生の手をとらえた。
「…………」
 三生が黙って高宮を見ている。家の中にはふたりしかいない……。
 しかし三生の指のそのかすかな拒絶。
 高宮が三生の手の甲に口づけした。何も言わず。そのまま高宮は三生の手を離すと彼女に送られて帰っていった。

 高宮の乗った電車を見送った後、ひとり家へ帰って三生は玄関を開けた。
 暗い家の中、誰もいない。
 あのまま高宮を受け入れられなかったのに今はこんなにも彼の存在が恋しい。ずっと忘れていたと思っていたがそれは間違いだったと、この時三生はやっと自分自身で認めた。
 彼にそばにいて欲しかった。帰って欲しくなかった。
 誰もいない暗い家の中で言ってみる。
「愛している……」
 しかし答えてくれるものは何も……何もなかった。

 夜になって雪が降り始めていた。
 窓の外にかすかな風と雪の降る音がする。それほどまでに家の中は静まり返っていた。
 三生は電話をかけた。彼の部屋に、初めて三生は電話をかけた。
『三生?』
 あたたかい高宮の声。彼は何も尋ねてはこない。
「雪が、……雪が降ってきたね。そっちも?」
『ああ、今夜は積もるかもしれない』
 ふたりはお互いの家で窓の外を見ていた。

 窓に降る雪。
 それはふたりが初めて一緒に過ごしたあの長野の別荘での思い出でもあった。ふたりが初めて愛を交わした夜も窓には雪が降っているのが見えた。
 高宮の言葉が途切れ彼も同じ思い出を思い出しているのだとわかった。
『三生……寒くないかい?』

 寒かった。
 彼の言う通りだった。体ではなく心が、心が震えていた。
 ふいに三生は胸がつまって涙がこぼれそうになった。電話の向こうの高宮に見えるはずもなかったが、そっと指をあてて涙を隠す。
「高宮さんも、風邪……ひかないでね」
 明るく言ったが語尾が震えた。
『三生』
「……はい」
『ずっと君のそばにいてちからになってやりたかった。なのに私は君の手を離してしまった。お父さんが亡くなった時もそばにいてやれなかった。すまない』
 君の手を離してしまった。高宮のその言葉。
  ……手を離して……。
 その言葉が三生の心を突き破って動かした。

 一緒にいたかった。ずっとずっと一緒なのだと信じていた。高宮だけを見て、高宮だけを愛して……そんな未来を彼は信じさせてくれた。それなのに……。

 ぽたり、と涙が落ちた。受話器を持つ手が震える。眼の前がかすんで口を手で押さえた。
 高宮さんは……彼は今またわたしにその手を差し伸べてくれている。
 彼のそのあたたかい手をとれずにいるのはわたしだ。

「……っ」
 ついに三生の嗚咽が漏れた。涙が頬を伝わりぽたぽたと落ちていく。
『三生!……三生……』
「……うっ」
 こらえきれずに三生は膝をついて下を向いてしまった。が、その耳には受話器が強く押し当てられている。
『三生、今から行くから。待っているんだ。いいね? すぐに行くから……』
 三生は返事が出来なかった。電話が切れたがそのまま座り込んでしまう。しかし三生にはわかっていた。
 彼はわたしの元へ来てくれる。……必ず……わたしの元へ……。

 暗闇の気配を破って車の止まる音。
 三生はずっと動けずにいたが、高宮が来たのがわかると飛び出すように玄関へ出た。何も言わず高宮の首へかじりつくように抱きついた。涙があふれる。
「……っ、ゆう……いっ……」
 あとが続かない。しゃくりあげて泣いている。
「三生……三生…… そばにいてやれなくてごめん……待たせてしまった……」
 あやすように、やさしくゆするように高宮が背中をなでてくれる。高宮の肩や髪についた雪の溶けた細かい水滴がまるで冬の別荘からやってきたようだった。
 まるであの雪の別荘から……そう、ずっと待っていた。会えなくなったあの時から……もっと前の高校生だった時から……待って、待って、待ち続けていた。
 やっと会えた…………。

 父が死んで以来、もう三生は泣くこともできなくなっていた。
 いっそ泣けば悲しみもまぎれるだろうに。かつて高宮に理由さえ知らされずに捨てられたと思って泣いていた幾夜もの夜のように。そして三生は立ち直れたと思っていた。しかし彼にふたたび会って、あの時の会えなくなった理由を聞いたその後。
 胸の奥の固い悲しみを隠してまた高宮の恋人に戻りたかった。穏やかに過ごすふたりの時間を続けたいと思っていたが心の奥底では高宮を受け入れてはいなかったのだ。
 しかし今、三生の心の中に降る雪がやっと柔らかく悲しみを覆っていく。冬の別荘に降っていたあの雪と同じ雪が。
 抱きしめられた腕に、彼の暖かいまなざしに、かつて恋人であった、そして今も愛している高宮の存在を三生は求めた。

「……キスして」
「三生」
「わたしにキスして。それからわたしを抱いて。……また離したら本当にあなたのことを忘れてしまうから」
 三生のわざと直接的な言い方に高宮は震えた。彼女の唇を求めると三生は高宮を受け入れた。熱く長い口づけ。やっとふたりが唇を離すと彼の腕の中で三生は吐息をついた。
「あなたを……愛している」
 高宮の腕が固く彼女の体を抱きしめた。
 もう何処へも行かないように……。
 もう決して離れない……。

 愛し合うための夜、長く暗い夜はふたりの愛し合うためだけにある夜だった。
 三生が高宮へ伸ばした腕に高宮が応えるように抱きしめる。口づけを繰り返し、腕が、足が、体がからみあう。心を、肌を触れ合わせるためにただひたすら抱きしめ合う。

 永遠とも思えるように雪は降り続いていた。

 やっと窓の外が白み始めた頃。
 三生は高宮の裸の胸にもたれて眠っていた。すべてを受け入れてその表情は子供のようだった。少し開いた唇から寝息がもれている。
 そして高宮。
 彼も眠っていた。愛する三生を胸に抱きしめたまま、かすかにほほ笑んでいるような顔つきで。




 それから2か月後ふたりは結婚した。
 友人たちを集めて小さなパーティーを開いただけだが、瑠璃も駆けつけてふたりを祝福してくれた。
「なんでもっと早く結婚しなかったの?」
 瑠璃が無邪気に聞く。
「無理言わないで。わたしまだ大学も卒業していないのよ」
「瑠璃さん」
 高宮が三生のとなりで言う。
「本当だ、瑠璃さんの言う通りだ。でももう心配させませんよ。三生は今日から私の妻です」
 尋香はふたりの顔を見比べてにっこりとした。
「三生と高宮さんは結婚するとわたしは思っていた。高校生の時からよ。その通りになったわ」



吉岡順三からの手紙

 高宮君、この手紙が君の元へ届くのは私が死んだ後だろう。今、私は入院中だ。もう長くはないだろう。友人にこの手紙を託しておく。私が死んだら君の元へ送るように。
 君が結婚したと聞いた時、正直驚いた。
 君は三生のことを好いていてくれると思っていたからだ。しかしあまりに唐突な話だったので私は君の結婚に三生の事があったにしろ違和感を持ったことは確かだ。だから出版社の三崎に頼んで君の結婚のいきさつを調べてもらった。 君のような大会社の社長なら仕事上の利益のために結婚をすることも仕方のないことだろうが、三生がかわいそうだった。父親としてね。しかし君の結婚の事情は仕事の利益のためだけではないらしいことが少しずつわかってきた。 それに、それがわかってきたときは君はもう離婚をしていたという。
 三崎からスクープ雑誌のほうも君が手を打ってくれたと聞いた。その後あったことも。三生のことが世間に出なかったのは君のおかげだろう。三生のことを引き替えに君はほかの女性との結婚を呑んだのに違いない。すまない。
 三生は君に手のひらを返されたように捨てられたと思っていたのだろう。何日も泣いていた。君がもう離婚してしまった今は三生にこのことを話そうかどうか私は迷っている。いや、私からは話さないことにする。 出来るなら、君がまだ三生を愛してくれているのなら、君の口から三生に話してほしい。
 君は充分苦しんだはずだ。三生もだ。今の三生を救えるのは君しかいないと信じている。三生は君を愛している。忘れたふりをしているだけだ。 そして君のように三生を守れなかった情けない父親の頼みを聞いてほしい。
 これからも三生のそばにいてあの子と一緒にいてやってほしい。私はキャスリーンも三生も守ることはできなかった。
 高宮君、ありがとう。娘を頼む。

吉岡 順三



終わり


2007.11.24掲載

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