窓に降る雪 29

窓に降る雪

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29


 日曜日、霧雨のような雨が町を濡らしていた。肌寒い晩秋の雨だった。
 高宮が車を運転している間ずっと三生は無言だった。車の濡れた窓ガラスと過ぎていく景色に三生はほとんど彼のほうを見ることもしなかった。どこへ行くのかも聞かずにただ座っている。高宮もあえて話しかけはしなかった。 あの日から1週間後に三生に電話をして今日会うまでの日々が高宮にはとてつもなく長く感じられていた。
 富士五湖のひとつに着く。
 湖を周回する道路から湖畔の駐車場に車を入れると湖の見えるほうへ車を向けて停めた。雨はやんで霧も晴れてきていたがまだ明るくなってはおらず冷たく湿気を帯びた大気と湖が灰色に波立っていた。三生が車のドアを開けて降り立つ。
 平地の気候にあわせた綿のジャケット姿の三生は氷のような冷気に体がどんどん冷えていくのがわかった。湖のほとりには誰ひとりいない。荒涼としたその風景の中で三生は空のかなたを見つめていた。風にあおられた灰色の雲がうねるように変化していく。
「三生!」
 高宮の声に三生はふりむいた。腕をきつく体に巻きつけるようにして震えていた。
「車へ入ったほうがいい」
 高宮が自分のコートを三生の肩にかけながら言った。
「寒いだろう」
 三生が「うん」と言ってうなずくと彼はほっと息をついた。
「やっと口をきいてくれたね」
 三生の無言は痛いほど高宮にこたえていたが高宮はじっと三生を見守っていた。高宮にはそうすることしかできなかったが、三生は強情で黙っていたわけではなかった。何か言えば泣き出してしまいそうな、自分が崩れてしまいそうな胸のつまるような思いがあったからだ。

「わたしってかわいくないわね」
 そう言いながら三生は肩をすくめた。わざと軽い言い方をしているようだった。 その彼女の言葉に潜むウィットを高宮は思い出していた。高校生の時から彼女の会話はこんなだった。
「そうだね、かわいい時はもう過ぎた。今は美しい大人の女性だ」
「そういう意味で言ったんじゃないけれど」
「大人になればかわいいだけでは済まなくなる。だけど君は君だ」
 高宮が三生のすぐわきに立っていた。
「私は君のそばにいてやることができずに君を裏切ってしまった。自分の意志ではなかったけれど君を裏切ったことに違いはない。結婚してもとうとう本当の結婚生活は送らなかったけれどね。すまない、君を傷つけてしまった」
 そのへんのいきさつは詳しくは三生は知らなかったし自分からは聞けなかった。あの時そのことを聞いていたらもう少し状況は変わっていたのかもしれない。

「あなたも……苦しんだ?」
 高宮のかけてくれたコートのえりをかき寄せながら三生はつぶやいた。
「ずっと苦しんできた。苦しんで……一時も君の事を忘れたことはない」
 わずかに苦しそうな高宮の表情。彼が弱音を吐くのは初めてだ。いつでも静かな自信にあふれていた高宮。その彼が……。

 目の前の高宮をまっすぐに見上げた。灰色の空を背にして氷のような寒気の中でも彼の瞳はその光を失ってはいなかった。風に乱れた髪が黒く濡れているようだった。同じように黒いその瞳のまなざしに三生は目を離すことはできなかった。 彼の手が三生の肩にかかり彼の顔が目の前にくる。彼がかがみこんできたがきわどいところで三生は顔をそむけた。しかし顔をそむけたせいで高宮の胸に顔を寄せてしまうことになり、三生の体に高宮の腕がまわされたが今度は三生は抵抗しなかった。 高宮にしっかりと力を込めて抱きしめられていた。
 三生の体の力が少しずつ抜けて頬が高宮の胸へつくと彼の心臓の鼓動が聞こえるようだった。抱き合っていても圧倒的な寒気にふたりの体が震えながら抱きしめ合う。
「愛している」
 高宮の声が聞こえた。抱き合っている体を通じて聞こえてくるようだった。

 ……わたしが最悪な時に「愛している」と言う。いつだって。

 三生は黙ってそう考えていた。
 今くらいわたしの最悪な時はないのに……あなたを愛しているかどうかさえわからないのに……。
 けれどもそう考えているあいだも寒くて寒くてふたりともガタガタと震えだしていた。着ている服さえ氷のように感じる。もうきつく抱き合っていても耐えられない。
「行こう、車に乗って」
 高宮は三生を離すと彼女を車へ乗せた。車に乗るとふたりは顔を見合せて思わず笑い出してしまった。車の中でもふたりともまだ震えている。
 久々に見る彼女の笑顔。表情がずっと柔らかくなっていてそれは彼も同じだった。
「寒すぎるね、少し標高を下げよう。こんなに寒いとは思わなかったよ」
 三生は黙ったままそっとうなずいた。

 しかし高宮には三生に唇を近づけた時に彼女が顔をそむけたことが頭から離れなかった。
 口づけを拒否している。
 彼女の心がそうさせている。

 帰り際、三生の家の前で高宮は聞いた。
「また会える?」
 そして今、顔をこわばらせるように悲しいような笑みを浮かべている三生が言った言葉。
「わたしには、わたしにはまだわからない。どうしたらいいのか……」
 三生の指がためらうように彼の手の中から抜けていった。

 三生は「わからない」と言ったが、それでも同じ時を過ごせればいいと高宮は何度でも三生を誘った。
 自分の気持ちに関しては彼女は絶対にうそを言わない。それはわかっていたが、かつて高宮が知っていたしっかりしていても時には泣いたりするような三生はもういなかった。 三生に暗さのないことだけが救いだったが、とはいえたいていの人間にそうであるように三生は常識の範囲内で高宮に話したり笑ったりするだけだ。
「三生……」
 抱きしめて顔を上げさせようとすると三生はすっと顔をそむける。それが彼女の気持ちなのだろう。 体を固くして以前よりも感情の起伏を抑えてしまったような三生。そうやって彼女は自分自身を守ってきたのだろう。
 彼女の内面には激しい彼への感情があったことは彼が会えなくなったわけを言ったときに叫んだ彼女の表情を見ればわかる。本当は傷ついた心を持っていても自分自身を律している三生。あの激しい表情さえもう彼には見せてはいない。
 今の彼女に自分は必要とはされていないのかもしれない。もう高校生だった三生はいない。彼女は涙すら見せていない……。

 そして、それまでの仕事一辺倒の日々から高宮もまた自分を取り戻すべく努力をしていた。 あまりにも自分に集中しすぎた仕事をまた配分し直していくのは時間も労力もかかる骨の折れることだったが幸いにも社内の賛同を得られた。重役たちにも高宮の仕事ぶりは危惧の念を抱かせていたのだ。 業績がいくら上がってもその社長が倒れたら会社も道づれになってしまうのでは意味がない。 それがわかっていても重役たちの助言や提言を今までの高宮は受け入れようとはしなかった。やっと高宮が仕事ぶりを改めると重役たちばかりではなく山嶋や野田中礼子たち秘書たちでさえ安堵したのだったが、 そんな高宮の変化が三生のせいだろうと感じていたのは野田中礼子ひとりだけだった。
 もうプライベートな携帯電話を持っていない高宮は三生のところへも自分の部屋から電話をかけてきていたのだが最初のころは毎晩遅い時間に電話がかかってきていた。 三生はその時間で彼が帰宅する時間を知ったのだが、電話がだんだんと早い時間帯にかかってくるようになったことに三生が気がついたのはもう少し後になってからだ。

「……毎日遅いのね」
 疲れているだろうけれど高宮はいつも電話をしてくれる。そして声には決して疲れた様子を感じさせなかった。何気ない話をしていても高宮の声を聞くのは心地よかった。
 夜遅く、他には誰もいない家で高宮と話しているとこの世界でふたりだけが電話でつながっているような錯覚におちいる。
 高宮もしんと静まった三生の背後の静けさに彼女がたったひとりで家にいる孤独がうかがえたが、三生はその寂しさを口にすることはなかった。父親のことを話すこともない。

 まだ三生は完全には自分を許してはくれていない。
 今の彼女は決して高宮に弱みを見せない。高宮を寄せつけないような固い拒絶はないが、かといって気安い甘えもなかった。こんな時は三生の自制心が恨めしく思える。時間をかけて少しずつ彼女の心を溶かしていくしかないのだ。
 高宮はそれでもかまわないと思っていた。かつて三生を失った失敗をまた繰り返す気は
なかった。たとえ三生が許してくれなくても、見守っていくことさえできたら……。


 ちょうど日曜日だった12月26日に高宮は三生と会う約束をした。 小さな包みをコートのポ
ケットに忍ばせて迎えに行くと三生は公園のベンチに腰をおろしてひとり高い木々の梢を見上げていた。
 見上げてはいたがその瞳にはなにも映ってはいないようだった。美しい横顔を見せながら心はどこか遠くにさまよい出ている。……あの空の果てに三生は何を見ているのだろう。高宮は声をかけるのをためらったほどだが、先に気配に気がついて三生が振り返った。
「高宮さん」
「誕生日、おめでとう」
「……知っていたの?」
 高宮がうなずく。三生は12月26日生まれだった。21歳になったのだった。
「プレゼント、受け取ってくれるかい?」
 高宮が手にのせた包みを三生が開ける。中からは小さな桐の箱に入ったブローチのようなものが出てくる。それは雪の結晶をかたどった帯留めだった。裏側には帯締めを通す金具がついている。
「帯留めね」
「そう、君のために選んだんだ」
 銀色の繊細な細工に極小のダイヤと真珠が品よくちりばめられていた。ひと目でわかる凝った作りの一流の工芸品と言えるものだった。
「どうしてこれを?」
「君は着物を着るだろう? そう言っていたのを思い出したんだ」
 驚いて三生は高宮の顔を見た。それは三生ではなく尋香が言ったのだが、尋香がそんな事を言った記憶すらなく、すっかり忘れていた。 高宮は順三の葬儀で三生の着物姿を見てそれを思い出したのだがそのことは黙っていた。
「これを……君に贈りたかった。雪の花をね」

 21歳の誕生日。
 じっと雪花の帯留めを見ながら三生は考えていた。
 かつてあの雪の別荘で彼は三生がはたちになったらと言ったことを憶えているだろうか。まだ17歳だった三生に。はたちになったら……。だがそれは過ぎ去ってしまい、今はもうどうすることもできない。
 三生は振り切るように首を振った。
「ありがとう。こんな……こんなプレゼント、思ってもみなかったから。ありがとう」
 高宮が三生の手をとって歩きはじめた。
 こんな恋人同士の時間をこれからも続けたい。その積み重ねがあればまた高宮と愛し合えるかもしれない……。それが今の三生の望みだった。

 それからふたりで年末年始の予定を話し合った。三生は喪があけてそんなにたっていないので出かけたくはないという。
「勉強するしかないよ。1月の試験が終わるまではね。でもお正月くらいはよかったら家へ来てもらえませんか?」
 高宮は喜んで約束した。


2007.11.22掲載

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