窓に降る雪 19

窓に降る雪

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19


 3学期の修了式を終えると三生はすぐに家へ帰った。
 春休みで家にいる間は高宮から電話をしてもらうこともできる。帰宅してからすぐに高宮へ電話をしたが高宮は電話に出られなかったらしく、しばらくすると高宮のほうから電話がかかってきたが、そのあいだ三生は落ち着かない気分で電話の子機を目の前に置いて待っていた。
『三生? さっきはごめんよ。ああ、今は大丈夫。君は家にいるんだね』
「うん、修了式が終わって家へ帰ってきたところ。会いたい」
『私もだよ。今日の夕方は大丈夫? 仕事が終わったら迎えに行くよ』
「わたしが渋谷まで行くよ。ね、いいでしょう?」
 三生は高宮に会う前に買い物をするつもりだった。2月に贈れなかったバレンタインデイの
チョコレート。
 3月の今はもうバレンタインデイ用のチョコはなかったが三生は好きな人のためにチョコレートを買うのは初めてだった。さんざん迷ってベルギー産の丸いチョコレートが二粒入ったものを
買った。 前に高宮がザッハトルテを食べていたのを思い出してチョコ味が嫌いではないだろうと思ったが、男の人はお菓子なんてあまり食べないのかもしれない。これなら二粒だけだから大丈夫だよね、と思う。

 彼が来るまで三生にはとても長く感じられたが実際にはそんなに待たされはしなかった。彼の銀色のセダンが近づくとうれしさが波のように湧きあがる。
 今日の高宮はスーツではなく黒いタートルネックのセーターにジャケット。自分のマンションへ寄って着替えてきたのだろう、彼が仕事とはきっちり切り替えていてくれるようでそんなことが三生にはなんとなくうれしい。
「あの、これ、受け取ってもらえる? バレンタインデイには会えなかったから……」
 三生が小さな箱を差し出した。濃い赤色の包装紙に金色のロゴが書かれたこげ茶のリボンがかかっている。
「え、チョコレート? ありがとう、食べていいかな。三生、開けてくれる?」
 運転している高宮に代わって三生は包みを開けた。
「ひとつ、口へ入れて」
 高宮がちょっと口をあける仕草をする。
 うわー、高宮さんたら大人のくせにそんなこと、とは言わないで、三生はどきどきしながら身を乗り出してチョコレートをひとつ高宮の口へ入れた。
「最高だね」
「どれにしようか、すっごく迷ったんだよ」
「チョコもいいけど君に食べさせてもらえるのが最高」
 高宮が笑っている。思わず三生は頬が赤くなる。
「ほんとはバレンタインデイに渡したかったんだけど」
「悪かった。2月3月は出張続きでね。いやになったよ。そうだ、チョコのお返しに」
「え?」
「もうすぐ着くから待っていて」
 高宮は車を停めると三生を伴って店へ入った。

「ここって……」
 アールヌーヴォー調の贅沢な内装と調度に三生が息をのむ。世界的にも宝飾品で有名なブランドの銀座にあるブティックだった。特別な客用なのだろう、ショーケースのある店頭ではなくサロンのようだった。 店長か支配人といった感じの男性と女性店員がふたりを迎えている。
「急にすまないね」
 高宮が店長に声をかけた。
「お待ちしておりました。どうぞお嬢様、高宮様」
 うながされて三生は高宮と一緒に大きなソファーへ腰をおろした。
「チョコレートのお返しに君になにかプレゼントをしたいのだけど、三生は何がいい? この店で欲しいものを選んでくれるといいんだが」
「チョコのお返しって……ちょっと待って。ここって、こんなところで選べないよ」
「どうして? アクセサリー、バッグ、靴でも。洋服もあるよ」
「そういう意味じゃない」
 三生は立ち上がった。
「わたし、失礼します」
「三生!」
 三生はすでにドアへ向かっている。高宮があわてて三生の前へまわりこんだ。
「どうした? 何か気に入らない?」
 三生は黙って高宮を見た。その眼が怒っているように高宮には見える。
「チョコレートのお返しにしては高価すぎるよ。受け取れません」
「…………」
 今度は高宮が黙る番だった。
「あまり会えないから君に何かプレゼントしたいと思ったんだ。だめかな?」
 三生は首を振った。高宮だけに聞こえるように小さな声で言う。
「いらない。わたしの欲しいものはここにはないよ」
「そうか、ごめん。私だけ思いこんでしまったようだ。出よう」
 ふたりが車に戻ると三生は高宮の顔を見ないで言う。
「ごめんなさい。でも」
 三生はふっとため息をついた。
「いきなりあんなところへ連れて行かれて、どう考えたってチョコレートに釣り合うものじゃないよ。わたしだってあのブランドくらい知っている。世間知らずだって思われても仕方ないけれど、 ああいうところへいきなり行って余裕で振舞えるほどわたしは大人じゃない」
「……悪かった。三生、こっちをむいて」
 高宮の手が三生の頬に触れた。三生が向き直るとそのまま三生の頬に自分の手をつけたままで言う。
「君をちょっとびっくりさせたかっただけなんだ。すまない。ずっと会えなかったから」
 1月に長野の別荘へ行って以来、電話で話しはしていても高宮と三生は会ってはいなかった。2か月も。 しばらくは会わないほうがいいと言われてこの2か月の間、三生はじっと耐えていたのだ。
「会いたかった。会えるだけでいいのに」
 どうしてこんなにつらいのだろう。三生の張りつめていた気持ちがついに崩れてしまった。瞳から涙がこぼれる。

 高宮を好きになってから自分はずいぶん泣き虫になってしまった。泣いてばかりだ。小さな子どもだった時以外は父親にさえ見せたことのない涙なのに、彼には……彼が心配してくれることもわかっているのに。
「泣かないで」
 三生の涙を見て言う高宮に三生は首を振るしかなかった。
「雄一さんが好きだから……だから会えないのがすごくつらい。つきあい始めた頃よりも今のほうがずっと距離を感じる。会えないし、あんまり違う世界にいるようで……それが……」
 三生は必死で自分を抑えていた。わあわあと泣き出してしまうかもしれない。抑えようとしても震えてしまう唇と肩。 やっと会えたのにどうして泣くの。あんなに待って、あんなに思い続けていたのに……。
 高宮に抱かれて彼の愛を知ってしまった今はその反動のように抑えていた感情が押し寄せている。三生にはどうしようもなかった。
 高宮にもなすすべもない。黙って彼女を抱いてやればいいのか。

「私の気持ちは変わらないよ。信じてほしい」
「雄一さんのことばかり考えているのが苦しい。時々、飛び出して行って雄一さんのところへ行きたくなる。でも行けないんだ」
 高宮は三生を引き寄せた。
「君が安心するにはどうしたらいい?」
 涙をにじませた三生。
 三生を抱いてめちゃくちゃに愛してしまいたかった。彼女がなにもかも忘れてしまうように、自分だけを感じていられるように抱きしめて愛してしまいたい……。
 しかし三生は今、それを受け入れられるだろうか。いや……高宮が三生を抱いて甘い歓びを共にして彼女がまだ知らない歓びを知ってしまったら、この先の会えない日々はもっとつらいものになるだろう。
 なかば確信を持って、それでも高宮は聞いてみた。
「私の部屋へ来る?」
 三生が驚いて高宮を見つめている。その瞳、その表情。彼の部屋へ行くということは……そのくらい三生にもわかる。
「行けない……」
 やっぱり。
 彼女は正直だ。あの別荘での夜、彼にそばにいて欲しいと言った三生。でも今「行けない」と答えたのも彼女の正直な気持ちだろう。
 彼女自身もわかっている。その心ほど体は彼を求めてはいない。今はまだ……。

「三生、君さえよければ指輪を贈ってもいいんだ。そう思って来たんだよ」
 高宮の腕の中で三生がはっとするのがわかった。
「ここ、そのために? それでここに?」
「ああ、でも君にちゃんと話さずに連れてきてしまったのはよくなかったな。君は何も欲しがらないからチョコレートのお返しということでうまくプレゼントしようと思ったんだが」
「……ごめんなさい」
 何か三生の支えになるようにと、そう思って指輪を贈ろうと前から考えていたのだが、それさえも三生には……。
「私は君に謝らせてばかりいるようだ。そんなのは君らしくないな。さあ顔をあげて」

 三生は自分の頬をぬぐった。
 指輪をもらえればきっとうれしい。でも高校生の自分が指輪をもらうのは気がひけたし、それに欲しいのは彼からの約束の品物ではない。
「指輪は……まだいいです。今のわたしにはちょっと重すぎるように思うし。雄一さんに会えればそれでいいの」
 何も要らない。彼の存在以外には。
 彼に会えないのはつらい。でも、もっともっと彼の愛を知ってしまうのも怖い。自分がどうにかなってしまいそうで……。本当に学校を飛び出してしまうかもしれない。

 今の三生はちゅうぶらりんでなにも出来ない。無欲と言えば無欲だけれど。
 高宮は何もつけていないその三生の手を取りじっと眺めた。指の細い、若い手。 いつか必ずこの指に自分が指輪をはめてやろう。いつの日か……。

「もう少し君と会えるようにしようと思ってね。かなり仕事もはかどらせたつもりだ。来月からは土、日には休めるようにするよ。会っていれば君もさびしさなんて感じないよ」
 高宮の言う通りだった。会えないつらさからくよくよ考えてしまうのは良くない。
「こんどM大学へ見学に行こうと思っているんです。去年の大学祭にも行ったけれど、もう一度行っておきたいなと思って。5月にオープンキャンパスがあるそうだから一緒に行けるといいんだけど」
 もういつもの三生だ。
「必ず空けておくよ」
 高宮は約束した。M大学は三生の第一志望校だ。高宮自身もM大学へは行ったことが
なかったからいい機会だろう。東京郊外にあるこの大学は三生の家からもさほど遠くはない。
 三生もすっきりとほほ笑んでいた。こういうところは芯の強さがある。彼女は自分で思っているほど弱くはない。むしろ甘えすぎないくらいだ。ただ初めての感情に戸惑っているのだろう。
 三生の春休みが終わるまではなるべく会うようにしよう。次の土、日ももちろん会う。なにより高宮が会いたかったから。


2007.10.18掲載

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