窓に降る雪 15

窓に降る雪

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15


 もうここへ来てから2時間近く経っている。高宮はまだ来ない。
 若林がもう一度電話をするために部屋から出て行くと三生はしばらく座っていたが立ち上がって制服の上に紺色のコートをはおった。
「尋香、わたし行くよ」
「でも! 高宮さんが来るのを待ったほうがいいと思う」
 三生はもうバッグを持っている。
「三生が行くならわたしも行く」
「あなたは仕事でしょ。大丈夫、家までだから」
 三生はそう答えたが自信はなかった。が、尋香に心配させないようにちょっといわくありげに首を傾けてみせた。
「大丈夫。じゃあ、月曜日に学校で」
 もう一度ちらっと尋香の顔を見て、そして若林が来ないうちに三生は冬の街へ飛び出して行った。



「三生! 三生は?」
 高宮がT企画のオフィスへ入ってきながら大声で尋ねた。常にない高宮の大きな声に瑠璃とマネジャーが立ち上がった。
「瑠璃さん、三生は?」
「あの、帰るって、家へ。止めたんですが、さっき出て行ってしまって」
「……電車で?」
「ええ、渋谷駅から帰るって」
「わかりました。ありがとう瑠璃さん」
「……待って!」
 瑠璃の言葉に高宮が振り向いた。
「高宮さん、三生をつかまえて。三生はわたしが三生と間違われていることをすごく気にしていたんです。だからひとりで出て行ってしまって。どうか三生をつかまえて!」
 瑠璃の目にも必死さが表れている。高宮はうなずくように目で答えるとさっと身を翻した。
 三生は、彼女は見つかるだろうか。
 街にあふれる人の波を見ながら高宮は三生が自分を待っていなかったことに腹が立っていた。三生は渋谷駅へ向かうだろうか。T企画を出てすぐに記者に追いつかれたらそれは難しい。逆方向か遠回りになっても駅へ向かうか。
 高宮は車を停めさせて外へ出た。この人の多い街では車は小回りが効かなすぎるのがもどかしい。すぐに高宮は走り出した。

 渋谷のスクランブル交差点まで行けば、人ごみにまぎれてしまえばと考えていたが、スクランブル交差点へ行く前に道を変えて遠回りをして書店へ入った。ちょっと周りを見たがそれらしい人はいないようだった。 本屋の広い店内の地階の売り場へ行く階段を降りていく。この書店には何回も来たことがあったから地階の出入り口が地下道へ面していて、この地下道を行けば地上のスクランブル交差点を通らずに渋谷駅まで行くことができることを三生は知っていた。 雑誌売り場のレジ脇の出入り口を出てうつむき加減に地下道を歩き始めたその時、人影が前へ立つ。知らない男だ。しかしわざと三生の前へ立ちはだかろうとしている。 三生はマフラーを引き上げ気味に口の前で押さえると男を避けて先に行こうとしたがすぐに別の男が邪魔をした。
 どけ、と言いたかったが三生は無言で立ち止まった。
「吉岡三生さんですね?」
 男が聞いてきたが三生は答えない。
「雑誌社のものですが話を……」
 ぱっと三生は振り向くと走り始めた。地下道を行こうとしていた渋谷駅ではなく逆のほうへ。すぐに地上へ出る階段を見つけて駆け上がった。 人の多い渋谷の街では人にぶつからずに歩くほうが難しい。地上はたくさんの人が歩いていて三生はわざと人の多い通りに出て後ろの男と自分の間にたくさんの人が入るように小走りに走った。 が、三生もまわりの人が多すぎて早くは走れない。だんだんに知らない道に来てしまったようだが仕方がない。きっと道玄坂のほうへ通じる道だろうと思いながら人ごみに流されるように歩いた。しかし前のほうにさっきの男の姿を見つけてぎくりとする。 ちょっとまわりを見回して3、4メートルほど戻って脇道へ入っていった。下り坂のその道は広くはなかったがぎっしりと店が並びたくさんの人が歩いていた。まったくこの人の多さは! しかしこれが幸いに働いてくれればと思う余裕は三生にはなかった。

 下り坂が終わるところは別の広い通りにぶつかっているようだった。三生はこのまま行こうかと迷いながら立ち止まってしまった。ファストフードのハンバーガーショップが目の前にある。
「三生!」
 不意に背後から声をかけられた。
 高宮雄一だった。

「こっちへ」
 三生が何も答えないうちに高宮は三生の腕をつかむとハンバーガーショップのほうへ引っ張っていった。そのままハンバーガーショップへ入る。何をするのかと一瞬三生は思ったが、高宮は注文の列を作っている人達の間を横切るようにして向こう側へ行き別の出口から外へ出た。 ハンバーガーショップは角地にあってそれぞれの道に面して出入り口があった。
 高宮は三生の腕を離して手を握ると足早に歩き始めた。広い道へ出るとそこは相変らず人通りが多かったが車が通っている道だった。高宮の歩く速度が上がって三生は走るようについていったが高宮が休まずに手を引っ張るので三生の息がだんだん上がって後ろを振り返る余裕もない。
 急に高宮が車道へ寄って道路脇に止めてあった車のドアを開けて三生を入れると自分も後部座席へ乗り込んだ。高宮の社用車だった。
「本社へ」
 高宮が運転手へ言うと三生に向き直る。
「どうして待っていなかったんだ!」
 いきなり大きな声で言われて三生はびくっとして目を見張った。ふたりとも息がはずんでいる。
 そんなに怒って言わなくても……と口まで出かかって三生はぐっと唇をかんだ。だって高宮さんは何も言ってくれないのにわたしが勝手に帰ったとでも言うの?
 高宮はそれ以上何も言わなかったがじっと三生を見ている。黙ったまま三生はつと顔をそむけて窓の外を見た。なんだかとても悲しかった。ことは三生の思った以上に大きなことになってしまっている。もう三生にはどうしたらいいのかわからなかった。
 それにふたりには話をする時間があまりに足りなかった。高宮がどうしようとしているのか説明してくれていない。

 ふいに高宮の手が三生の手へ触れてきた。思わず手をひっこめようとするその前に高宮の手が三生の指を握った。
「怒鳴ったりして悪かった。送っていくよ」
 高宮が心配してそう言ってくれているのはわかったが三生は黙ったまま小さくうなずいただけだった。彼はそっと手を離すと運転手に三生の家へ向かうように言った。そこで三生がはっとして彼に尋ねた。
「あの……携帯電話を持っている?」
「あるよ」
 高宮は上着の内ポケットから取り出すと三生へ渡した。
「家へ電話してみます。もしかしたら家のほうに……」
 彼がうなずいたので三生は家へ電話をしてみた。
 だれも電話に出ず、いったん切ってからまたかけなおす。
『もしもし』
 父の声が聞こえてきた。
『おまえ、今、どこだい?』
 父に尋ねられて高宮の車で送ってもらうところだと答えると電話の向こうで父はあきらめたように言った。
『うちへは帰ってこないほうがいい。家の前にも何人か押し掛けて来ているから。みんなおまえが目当てなんだよ。とにかくおまえは帰ってこないほうがいい』
「でもお父さんは」
『別に私は平気だよ。このところ籠って仕事をする予定だったからね。外の人たちは待たせておけばいい。でもおまえが帰ってきたら話は別だ』
「学校へ戻ったほうがいい?」
『うーん、どうだろうな。ちょっと高宮君に替わりなさい』
 父に言われて三生は携帯を高宮へ渡した。高宮は父に何かを言われて返事をしている。
「わかりました。そうします。ではまたあとでご連絡します」
 高宮は簡潔に言うと電話を切った。
「父はなんて?」
「学校へは戻らないほうがいいと言っている。学校からもお父さんに連絡があったそうだ。芸能記者らしいのが学校の前でも待っているらしい」
「でもそれじゃあ、どこへ行けばいいの」
 三生はちょっと怒って言った。
「私にまかせるとお父さんは言っていたよ」
「えっ……」
 いくらなんでもこれは返事に困る。
「そんな、でも……でも、やっぱりわたしは家へ帰るしかないと思う」
「悪いがやはり本社へ行ってくれ」
 高宮がもう一度運転手へ声をかけたが、しかし運転手は進路を変える前に言ってきた。
「さっきから車がついてきているようですよ」
 車? ついてきている?
 三生は高宮と会って少し安心した後なのでかえって激しい動揺が感じられた。とっさに振り向いてしまってから高宮の顔を見た。が、高宮はミラーを見て後ろの車を確認していた。
「いいよ。本社へやってくれ。その前に目黒に寄ってくれ。そこで乗り換えるから」
 目黒? さっき渋谷を出てきたのにそれでは戻ることになってしまう。高宮がどうして目黒へ行くと言ったのかその意味が分からず急に三生は不安になってしまった。 目黒に高宮のマンションがあることは知っていたがそこへ行くのだろうか。高宮に聞けばいいのだが彼は携帯電話をかけ始めてしまっている。 彼は三生が聞けずにいることに気が付いているだろうか?
 もう三生には高宮が携帯で誰かと話している声さえ耳に入らなくなってしまった。

「むこうの車へ乗るんだ」
 高宮に言われて三生はためらった。車がマンションらしい地下の駐車場へ静かに入ると何台か並んだ車の前に止まり高宮は車を降りて三生の側のドアを開けている。
「むこうの車って? どうして!?」
 座ったまま開けられたドアの向こうに立つ高宮へ三生は叫ぶように言った。どうして、どうして説明してくれないの。
 高宮は三生の言いかたの思わぬ強さを感じて自分がまた高飛車になっていたことに気がついた。
「ごめんよ。言いかたが足りなかったね。向こうの車は私の車なんだ。会社の車ではすぐわかってしまうから乗り替えてくれないか。私が運転するから」
 そう言って高宮は車を指さした。
 高宮さんの車? 見覚えのない車だった。以前のシルバーのセダンではない。
 ここは高宮さんのマンションなの? それとも? 三生の心の中が疑問と不安でいっぱいに
なったがひと言も彼に尋ねることができなかった。 今はそんなことを疑問に思っている時ではないと三生自身にもわかっていたのだが、納得しないままでは動くことができない三生に高宮は開いた車のドアから彼女の初めて見る表情を見降ろしていた。 追い詰められたような眼の色、三生の瞳の色が地下駐車場の灯りだけでは暗く翳って見える。 高宮はもう一度辛抱強く繰り返した。
「三生、私の車へ乗ってくれないか」
 そう言われて三生はやっと車を降りた。高宮が自分の車のドアを開けて三生を後部座席へ座らせると自分は運転席へ座ってエンジンをかけた。 車の中は冷えていて三生はコートを着ていても寒く感じたがきっとすぐにエアコンが効くだろう。大きなアウトドアタイプの車だ。高宮の車だと言っていたがいったいどこへ行くんだろう。 彼は行き先を言ってくれなかったし、三生もまたそれを高宮に聞けなかった。高宮の社用車が先にマンションの駐車場から出て行ってしばらくしてから高宮が自分の車を出すまで、そして車が道路を走り出しても三生は後部座席に座ったまま身じろぎひとつせず窓ガラスの外を見つめたままだった。 高宮も時々ミラーで三生の表情を見ていたが何も言わなかった。

 高速へ乗り道路の側壁が続き、ビルの間から夕焼けの空が見えていた。真冬の早い夕暮れだった。あっという間に暗くなり車のライトだけが目に入る。走り続ける車の中で三生はそっと窓ガラスに額をつけて目を閉じた。
 この車に乗っているあいだは大丈夫そうだ。というより三生は何もできなかった。緊張が続いて疲れを感じていた。三生は自分でも知らないうちに涙がひとすじこぼれていたのに気がついてそっと頬をぬぐう。高宮に見られてしまっただろうか。
 三生は高宮の運転する姿を後ろから見ながら眠るつもりのない眠りに引き込まれていった。


2007.10.04掲載

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