窓に降る雪 5

窓に降る雪

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「社長、今日はご機嫌が良くないですね」
 秘書の野田中礼子に言われて高宮はふんと鼻で言った。
「あたりまえだ。デートを切り上げて来ているんだ」
「デート、あらまあ」
 野田中礼子はわざとそう言ってみた。まさかこの社長からデートの言葉が出てくるとは思わなかったからだ。人並み以上に仕事ができて、背が高く整った容姿を持った若い社長を女たちが放っておくはずはなかったが、今までこの社長はプライベートのそういった付き合いを口にすることは決してなかった。
「そうですね、今日のJ銀行の頭取とのお約束を変えるのはむずかしいですもの」
「わかっている」
 高宮は不機嫌に答えたが野田中には彼が仕事にまで自分の不機嫌さを持ち込まないことはわかっていたので気にしていなかった。高宮はそんなことで部下に心配させるような人間ではなかった。
「では来月の第二日曜日は完全オフということで秘書課にも言っておきますから」
「ああ、頼むよ」
 車に乗っている間、高宮はどうやってこちらから三生に連絡をとろうか考えていた。彼女から電話をしてくれると言っていたがそれではいつかわからない。いっそ携帯電話を彼女に与えようか。しかし彼女は受け取らないだろう。そんな感じがする。 彼女の学校は携帯禁止、男女交際禁止で校則違反にも厳しいらしいが、規則のことを抜きにしても三生が気やすく携帯電話を受け取るとも思えなかった。こんな時に大人の要領は通じない。高宮は頭をかかえたがそれもまた楽しかった。

 野田中礼子は秘書課の山嶋に高宮の予定の変更を確認していた。山嶋は高宮付きのもうひとりの秘書で秘書課のチーフも兼ねていた。
「珍しいですね、社長のほうから急な変更が出るとは。昨日の午前の予定を空けるのは大変
だったでしょう」
「それが」
 礼子は言っていいものかちょっと迷ったが山嶋だからと思い
「社長、昨日はデートだったと。上野にいらっしゃったんですよ。上野からJ銀行へ向かわれたんです。それから来月16日の日曜日は完全オフにするということで」
「今のところ16日はあいていますね。社長がデートなんて言うのも珍しい。まあプライベートですから」
 山嶋は気軽に言う。
「相手は誰なんです? 礼子さん、知っていますか?」
「知っているわけないですよ」
 礼子は笑って返した。
「僕は瑠璃さんだと思うけどなあ」
「瑠璃? あのCMに出ていた?」
 礼子は驚いて聞き直した。
「今年の春にT企画の社長と会っている時に瑠璃さんにも会っているんですよ。実は僕は瑠璃のファンなもので。これでもテレビオタクなんです。その後で社長から嶺南学院のことを聞かれたんですよ」
「瑠璃さんて嶺南学院の生徒なの?」
 全寮制のミッション系女子高校だ。同名の大学はないのでさほど名を知られていないが全寮制で規則が厳しいのにもかかわらず、芸術家やアーティストの娘が多いらしい。
「まあ、これは内緒なんですけど」
 その割に山嶋は気楽そうに言う。
「瑠璃さんが嶺南の生徒だってことは公表されていませんから。それで社長はそこ、嶺南はどういう学校なのかと」
「へーえ、そうなんですか」
 礼子は初めて聞く話に感心してしまった。相手は高校生とは。
 礼子は前に雑誌で見たことのある瑠璃のCMのワンシーンの写真を思い出していた。車の後部座席に座っている姿。瑠璃に関してはバラエティー番組やドラマにはまったく出ていないので今時の若い芸能人らしい様子が思い浮かばない。
「T企画の社長と会う話が来ていますよ」
 山嶋がたまったファックスの紙の1枚を礼子へ渡した。これから高宮に見せる分だ。
「瑠璃さんが一緒かどうかわからないでしょう」
 すっかり探るような雰囲気になってしまって礼子は苦笑しながら言う。
「まあ、何かあったら報告してください」
 山嶋が一応という感じで答えた。

 社長室で礼子は山嶋と一緒に高宮と短い打ち合わせを行った。今日の予定の確認、新しく
入った予定や依頼の取捨など。T企画からのファックスもあった。日時を確認してOKが出る。予定に組み込まれ他の用件も次々にこなされる。 いつもの仕事に変わりはなく秘書室に戻ってから礼子はT企画へ行くときは自分がついて行くことにした。1週間後だった。



 礼子は目立たないように瑠璃を見ていた。まっすぐで黒い美しい髪。少し切れ長の目。整った顔立ちだったが美しさに加え個性があった。吸いこまれるような瞳の力がある。これは誰も放っておかないだろう。 瑠璃は臆せず高宮とも話しをしているがうわついた感じではなく静かに受け答えしている。やはり瑠璃なのだろうか。
 レッスン場の端には2、3人の若い女の子がパイプ椅子に座っていた。T企画でレッスンさせている娘たちらしい。瑠璃がお辞儀をして高宮がレッスン場の出口へ向かう。礼子も後に続いてそのまま出口から出ると思ったが、高宮は座っていたひとりの娘の前へ行く。 その子は高宮が前へ来ると立ち上がっていた。背が高い。細身で上着をたたんで腕にかけている。礼子が今まで気にしていなかったその娘を見ると高宮から視線をそらしたその娘と目が合った。 微妙に日本人離れした顔立ちで、髪も目も少し色が薄く、髪は染めているようではなく自然の色のよう
だった。その娘がもう一度高宮へ目を戻す。高宮がかすかにうなずくようにするとその娘は目で答えたのだった。
 この子だったのか。
 礼子は悟った。高宮の恋人は瑠璃ではない。この子だったのだと。



 尋香が三生のところに来たのは3日前のことだった。
「三生、お願いがあるんだけど」
 尋香はちょっと困ったような顔をしていた。
「なーに?」
「今度の土曜日、わたしと一緒に出かけてくれない?」
「え? どこに?」
「うーん、美術館でも、図書館でも」
「なに、それ」
「あのね、次の映画のスポンサーにちょっとした顔見せがあるんだけど、この前レッスンと打ち合わせで外出しちゃったから寮長先生がいい顔しないのよ。レッスンを理由にしても、またなの、って感じで。だから三生と一緒ならいいかなって」
「じゃあ、外出届まだ受理されてないんだ」
「ちょっと先生に打診しただけ」
 尋香は肩をすくめた。
「だけどほんとに行かないわけにはいかないの。スポンサーの人たちはもちろん白広社の社長さんも来るって言ってたし」
 白広社、高宮の会社だ。
「その映画、出たいの?」
「学校、やめるしかないかなあ」
 気軽な言い方と裏腹に尋香は真剣に考えていることが三生にはわかった。尋香のきれいな目が真剣だった。
「あなたが映画に出ることご両親は反対なんでしょ? 学校やめてひとりでやっていくには早いと思う。せめて高校卒業して自立するんだね」
 分別臭く三生が言う。尋香の両親は長く外国暮らしだ。日本には家もなかった。
「わたしもずっとそのつもりだった。だから仕事もセーブしていたんだけど……」
 尋香の顔がだんだん曇ってくる。美しい顔だけにとてもつらそうな顔つきになる。
「……わかったよ、一緒に行くからわたしの名前も書いておいて。行先は国立図書館で。わたしも高宮さんに会いたいし」
 え? と尋香の瞳に驚きが走る。
「み、お、うー、それって……」

 レッスン場ではふたりの女の子が隅に座っていた。三生は目立たないようにその子たちの横へ行ってパイプ椅子に腰をおろした。ふたりの女の子も見学のようなそぶりで黙って座っている。やがてT企画の社長が入ってくる。 後ろには高宮と他に数人くらいの人物。高宮はちらっと三生のほうを見たようだったが三生はうつむいて視線をはずした。レッスン場の片側の壁にはいちめん鏡がはめこまれていて三生は鏡に映る高宮の姿を眼で追って見ていた。 さりげなく見えるように時々は尋香も見ていたが高宮のことは鏡で見ていてもまわりに気がつかれないだろうかと内心は心配だった。彼が自分のほうへ向かってきたときは心臓がドキンと鳴ったかと思えた。 高宮の後ろの女性がじっと三生を見つめている。高宮の秘書のようだ。
 高宮がちょっとうなずいて見せた。三生もかすかに目でうなずく。それだけだった。 高宮が通り過ぎると女性秘書は三生に目礼を送ってきたので三生も目礼を返した。

「三生」
 皆が出て行ってしまうと尋香が三生に走り寄った。
「ありがと、あなたのおかげよ。OKだって」
「最初からあなたに決まっていたみたいね」
「だいたいはね。でもスポンサーの意向は重要なのよ。高宮社長が案内してきた人、あの人たちがスポンサーの企業の人」
「わたしは何も言ってないよ」
「うん、もちろん。そんなことで決まることじゃないってわかってる」
「そう、がんばってね。いよいよ映画デビューだね」
「その前に正式のオーデションがあるけどね」
 尋香なら大丈夫だろう。映画こそ尋香の望んでいたものだった。まだ撮影は先のことらしいが、これからひとつひとつステップを踏んでいくのだろう。尋香の顔がいつもより輝いて見えて三生も思わず見とれてしまったくらいだった。
 


2007.09.14掲載

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